山の中 その2 月明かりがない闇夜と増水
24時過ぎの深夜の車中にて。
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こんな風景を一人で見ているのが、何故かとても寂しかった。真白は優しくて繊細で、そして脆いところがある。
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明るくなってきた。朝になり鳥の声がし始めた。もう釣りのポイントに降りられる。妻はボンヤリしているが、声を掛ければ反応する。
俺も頭の中に煙が俟っている感じであったが、理性で気合を入れれば普通の感覚にすぐに戻すことができる。さて、気を取り直して釣りの開始。車から少し歩いて藪漕ぎをして崖を降りると俺秘蔵の絶好のポイントだ。
「取り合えず降りて行こう。早いとこ藪エリアを抜け出さないといけないからね」
軽く降りることの出来そうな場所を探し、崖に縫い込まれているロープを使って降りていく。
だから迷うことはないのだが、道とは言いにくい藪道が続いていた。都会のコンクリートではなく、土と落ち葉が道を作り出しているので、踏み締めれば地面は柔らかくスポンジのように押し返してくる。
「買ったばかりのウェーダーが土で泥だらけなんだけど。川に降りる道を間違えたかなぁ」
ウェーダーどころか上のシャツまで茶色い土で彩られている。しかも土は水分を多く含んでおり、全てこびりつくように付着していた。これ以上後悔しないように思いきって藪漕ぎで進みだした。土や枝が跳ね、草木が服に纏わりついて、ようやく抜け出せる事が出来た。
いつもならポイントを一望する事が出来るのだが……。
「こ、これは……」
不運なことに豊かすぎる水流が見えた。昨夜は月が出ていなかった。多分、上流域で豪雨があったのだろう。それが下流側にあるここに水を溢れさせていた。危険な水量であった。
「だ、ダメだな、撤退だ……」ガッカリである。でも渓流ではよくある事。
「……うん」
真白も反応するが、いつもの様子と違う。せっかくの機会だから宿泊施設でゆっくりとしよう。なんだか調子が悪いし、昨夜の出来事も気になっている。不安は早く解消するに限るからな。
「車に戻ろう、着替えて、そして今日は宿泊施設でゆっくりしよう」
「……ねぇ、真さん、私が酷いことを男の人にして、その人と二度と会えなくなる事になったら……どう考えて対処すればいいのかな?心づもりは何があるかな?その人を放っておいて勝手に前を向いた方がいいのか、または後悔を解消するのが先で好いのかな?」
「真白、急に何を言っているんだ?」
大切な男?に対して酷いことをした?何だそれ。初めて聞くぞ。十数年前の元カレのことか?
真白は何も言わず俺に背を向けて先に歩き出した。いつもの真白の雰囲気じゃない。俺は真白を追いかけようとしているのに、同じように彼女に背を向けて歩き始めた。
何をしているんだ、俺は。なぜ反対に歩き始めてる?なんだかおかしい俺の精神を理性で閉じ込め、真白へ向かって走って追いついた。
「おい真白……」
「ねぇ、真さん……貴方ならどうしますか。一生かけてその人のために償うのが一番ですよね」
真白が無表情のまま呟いた。
「償う……何を?おい」
さっきから意味が分からなかった。真白は別れ話をしているのか?夫婦関係に何も問題はなかった筈だが。
「私が悪いのです。私が犯した過ちがなければ、彼を悲しませる事は決してなかった。彼は不幸にならなかった。それなのに自分は幸せに生きているだなんて、許されませんよね」
そう言った真白は冷たい表情をしていた。俺を一瞥し愛情の欠片もない仕草をしている。
俺は思わず顎に手をやり真白の言葉を理解しようとしたが、同時に今何が起きているのか観察していた。明らかに今の真白はおかしい。俺もさっき変な行動をした。
「寝る前に錯乱するような変なもの食ったっけ……?」