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第一章第五節 諦めの夜

 部屋の電気はつけず、スマホの明かりだけで時間を確認した。午後10時を少し回ったところ。眠いわけじゃないのに、体は妙に重たかった。動かすたびに、全身がじわじわと沈んでいくような、そんな感覚に包まれている。


 窓の外は暗く、街の灯りが遠くにちらちらと瞬いている。その光も、自分とは関係のない世界の出来事のように思える。部屋の中は静かだった。母のテレビの音ももう聞こえない。すでに寝たのか、それともイヤホンで何かを見ているのか。どちらでもいい。自分がその中に入ることはない。


 カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、壁に淡い影をつくっている。その揺れる光をぼんやりと眺めていると、時間が曖昧になる。今が今日なのか、昨日なのか、あるいはただの「いつも通りの夜」なのか、自分でもよくわからなくなる。


 ベッドに横になったまま、スマホを握りしめていた。何かを期待しているわけじゃない。けれど手放すと、完全に世界から切り離されてしまいそうで、怖かった。


 「何かが変わってほしい」と願う気持ちは、とうに諦めているつもりだった。でも、それでも心のどこかでは、まだ何かを求めてしまっている。そんな自分が情けなくて、嫌になる。


 SNSの裏アカウントを再び開く。さっきの投稿「疲れた」には、いいねがひとつだけついたまま。誰かが押してくれた。それが誰かもわからない。でも、その「1」が、どこか遠い場所で自分の存在をかすかに肯定してくれている気がして、手放せなかった。


 自分もそのアカウントで誰かの投稿を見に行った。知らない人のつぶやき。だけど、そこにはどこか見覚えのある痛みが書かれている。「誰にも気づかれないことに慣れたフリをしてるだけ」――その文字を見たとき、息が少しだけ詰まった。


 わかる、と思った。でも、いいねを押すことはできなかった。自分がそこに関わることが、何かを壊してしまいそうな気がしたから。


 スマホの明かりを切ると、部屋の中は完全に闇になった。目が慣れるまで数秒。耳を澄ませば、自分の呼吸音と心臓の鼓動だけが静かに響いていた。


 「明日も、たぶん今日と同じなんだろうな」


 そう思うと、少しだけ涙が浮かびそうになった。でも泣く理由もわからなかったし、涙が出るほどの感情も残っていない気がした。


 眠りにつく前、ふと昔のことを思い出した。まだ小学生だった頃。学校から帰ってくると、母が笑って「おかえり」と言ってくれたことがあった。あのときの声には、今のような機械的な響きはなかった。温かさがあった。そんな気がした。


 でも、それがいつの間にか変わっていた。自分が変わったのか、母が変わったのか、世界が変わったのか。もう確かめる気力もない。ただ、あの頃の自分には戻れないということだけが、確かな事実だった。


 天井を見つめる。暗闇の中に、何も見えない。だけど、その「何もない」が今の自分にはちょうどよかった。感情も、思考も、全部を閉じ込めてしまえるこの暗闇だけが、ほんの少しだけ安心できる場所だった。


 「どうせ明日も同じだ」


 その言葉を心の中で繰り返すことで、ようやく自分を納得させる。諦めることでしか、自分を守れない。


 仮面をつけて過ごす日々。素の自分を誰にも見せられずにいること。それがつらいことだと、もう誰にも言えない。言ったところで、どうにもならないと知ってしまったから。


 だけど――ほんの少しだけ、どこかで誰かが「自分の存在を見つけてくれる」可能性がゼロではないことに、期待している自分がいる。その期待を完全に殺せないからこそ、まだ息をしているのかもしれない。


 目を閉じると、無音の世界が広がった。音も光も、誰かの気配もない。ただ、ゆっくりと呼吸する自分だけがいる。


 そうして、自分は夜に沈んでいった。

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