第三章第一節 初めての言葉
その朝、教室に入ると椎名はすでに席についていた。いつもと変わらない無表情で、本を開いている。
でも、自分の中では、何かが少し違って見えていた。
昨夜、匿名のSNSで交わした、たった数行の言葉。
「俺も、よくそうなる」「ありがとう」
名前も顔もわからない、だけど確かに“通じた”感覚。
もし、あの相手が椎名だったら。
そう思ってしまった時点で、もう自分は何かを期待している。
そして同時に、そんな期待がただの“思い込み”であることにも気づいていた。
それでも、目が合った瞬間、椎名がわずかに瞬きをしたような気がした。
気のせいかもしれない。でも、昨日までとはどこか違うように見えたのは、きっと自分の中で何かが変わり始めたからだ。
昼休み、教室を出るタイミングで、椎名と鉢合わせた。
彼は教室のドアを開けようとしたところで、自分と目が合った。
数秒の沈黙。お互い、ほんのわずかに戸惑った。
「あ、……ごめん」
そう言って、椎名がわずかに道を譲った。
それが、彼から発せられた最初の「言葉」だった。
それは、たった一言だったけれど、自分にとっては驚くほど重たかった。
彼が誰かに、自分に、話しかける姿を見たのは初めてだったから。
「……ううん、大丈夫」
自分もまた、少しぎこちない声で返した。
椎名は小さく頷いて、そのまま教室を出ていった。
ほんの数秒の出来事。でも、その一瞬が、心にずっと残った。
午後の授業中、何度もその言葉を思い出していた。
「あ、ごめん」
それだけの、よくある言葉。なのに、あの時の彼の表情や声色が、何度も胸をよぎった。
もしかして、昨日の“あのアカウント”は、本当に椎名なのかもしれない――
そんな思いが頭を離れない。
放課後、帰り支度をしていたとき、ふと教室の後ろの窓から外を見ると、椎名が校門の方へ歩いていく姿が見えた。
気がつくと、自分も歩き出していた。
追いかけるわけじゃない。ただ、同じ道を歩いてみたかった。
校門を出て数分後、角を曲がったところで、前を歩く椎名が立ち止まった。
自分の気配に気づいたのだろうか。ゆっくりと振り返る。
また、目が合った。
今度は、椎名の方から口を開いた。
「……本、好きなの?」
図書室で会ったことを覚えていたらしい。
思いがけない問いかけに、言葉が一瞬詰まった。
「うん。静かだから、落ち着くっていうか……」
自分でも、よく言えたと思った。こんな自然な会話なんて、久しくしていなかった。
椎名は、それ以上何も言わずに視線を逸らした。
だけど、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。
たぶん、彼も自分と同じだったのかもしれない。
誰かと話したい気持ちはあるのに、どうしていいか分からず、ずっと黙ってきた。
言葉を交わすことで、自分という存在を誰かに伝えることができる。
そんな当たり前のことが、いつしかとても怖いものになっていた。
でも今、たった二言のやりとりが、その恐怖をほんの少しだけ溶かしてくれた気がした。
「……また、図書室で会うかもね」
そう言ってみた。
椎名は驚いたような表情を浮かべ、それから小さく頷いた。
その返事だけで、今日は少しだけ救われた気がした。