第二章第五節 メッセージ
帰宅後、制服を脱ぎもせずにベッドに倒れ込んだ。鞄もスマホも手放さず、ただ天井を見つめたまま、何分経ったか分からない時間を過ごしていた。
頭の中は、今日一日の断片でいっぱいだった。
昼休みに耳にした悪意のない悪意。
黒板の隅に書かれていた、チョークの落書き。
そして、それを黙って見過ごしかけた自分。
誰も直接的に何かをしたわけじゃない。けれど、誰もが少しずつ、椎名という人間を「透明」にしていくような空気を作っていた。そして自分も、その空気の一部だった。
「何やってんだろうな……」
吐き捨てるように呟いたあと、スマホを手に取り、ロックを解除する。無意識に開いたのは、自分の裏アカウントだった。
プロフィールには何も書いていない。ただの“@”から始まる名前と、誰も気に留めないアイコン。フォロワーは三桁にも満たない。そのほとんどが、どこかの誰かで、自分が誰なのかも分かっていない。
それでも、時々ここで言葉を吐き出すことで、自分はなんとかバランスを取っていた。
画面に、つい数日前の投稿が表示された。
《疲れた。何も変わらない日ばかり。》
その投稿には「いいね」が一件だけついていた。誰が押したのかは分からない。通知も来ていなかった。ただ、その「1」が、どうしようもなく胸に残っていた。
画面をスクロールしながら、新しい投稿画面を開く。
今日は何を書こうか――そう思っても、うまく言葉が出てこなかった。
「悲しい」わけでも、「怒っている」わけでもない。
でも、何かを吐き出さなければ、このまま眠るのが怖かった。
指が、ゆっくりと動く。
《見て見ぬふりしてしまった。最低だなって思うけど、何も言えなかった。》
投稿ボタンを押すと、画面には自分の言葉がぽつりと浮かんだ。
誰に向けたわけでもない。ただの独り言。けれど、それは確かに“今の自分”だった。
画面を伏せようとした、そのとき。
通知がひとつ、表示された。
《@___さんがあなたの投稿に返信しました。》
驚いて画面を開き直す。
返信が来ることなんて滅多にない。それが今、数十秒のうちに届いたことが不思議で、そしてどこか怖かった。
返信の内容は、こうだった。
《俺も、よくそうなる。見てるのに、動けない。》
短い文章。敬語でもないし、絵文字もない。でも、その無装飾な言葉が、心のどこかに静かに染み込んできた。
なぜだろう。読み終えた瞬間、指先が微かに震えた。
「……誰?」
そう思いつつも、画面を眺め続けてしまう自分がいた。
返信してきたアカウントは、鍵もかかっておらず、フォロワー数も多くはない。アイコンは空の写真。ツイートは少なく、どれも他愛ない言葉が並んでいた。
でも、いくつかを読み進めるうちに、どこかで見覚えのある言葉遣いに引っかかった。
《話しかけられるのが苦手。でも、誰かに気づいてほしいとは思ってる。》
《教室の空気が重たい。息の仕方がわからなくなる。》
それらの言葉が、なぜだか椎名の顔と重なってしまう。
……まさか、と思った。
でも、確信なんてあるはずがない。仮にそうだったとしても、自分が何を言えるのかもわからなかった。
もう一度、スマホを見つめる。
《ありがとう。少しだけ、楽になった気がする。》
震える指でそう返信を打ち、送信した。画面に自分の言葉が表示されるのを見て、ほんのわずかに肩の力が抜けた気がした。
誰かが、自分の弱さに「わかる」と言ってくれるだけで、こんなにも救われるなんて。
もしかしたら、名前も顔も知らないこの誰かが、明日、すれ違うあの人かもしれない。
もしかしたら――いや、そんな偶然、あるはずがない。
それでも。
そんな“もしも”を信じたくなるくらいには、今夜は少しだけ、息がしやすい気がした。