第一章第一節 憂鬱の目覚め
スマホのアラームが枕元で鳴り始めた。けたたましい音ではない。設定していたのは静かなピアノの旋律で、本来なら優しく朝を告げてくれるはずのものだった。だけど今では、その音さえも嫌味に聞こえる。
まぶたを開けるのに、数秒かかった。まるで夢の中にとどまっていたいと、体が抗っているみたいだった。けれど、夢の中ですら安らぎはない。結局、どこにいても心は重たいままだ。
布団の中でじっとしていると、昨日のことがゆっくりと脳内に浮かび上がってくる。誰かに何かを言われたわけじゃない。ただ、空気のように扱われた。そこに「いないもの」として過ぎていく教室の時間。誰とも話さず、何も発せず、ただ存在だけがその場に置かれている感覚。
「また今日も、それが始まるのか。」
そう思うと、起き上がる理由が一つも見つからない。けれど、時間は無情に進んでいく。スマホの画面を見れば、もうとっくに起きなければならない時刻になっていた。焦りは感じない。ただ、現実に戻されるのが面倒くさい。それでも、起きなければならない。
体を起こして、ぬるい空気に包まれた部屋を見渡す。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけに冷たく見えた。眩しさの奥に、現実という名の重さが透けて見える。
いつものように制服に袖を通し、寝癖を軽く手ぐしで整える。鏡の中の自分は、今日も昨日と変わらない顔をしていた。どこかぼんやりしていて、生気がない。それでも、作り笑いを浮かべてみる。大丈夫、まだ仮面は剥がれていない。
リビングに行くと、母がすでに朝食の準備をしていた。テレビの音が流れている。画面の中では、女子アナが笑顔で天気予報を伝えていた。今日は晴れだという。だからなんだ、と内心で呟きながら椅子に座る。
「おはよう。」
母が言う。こちらも反射的に「おはよう」と返す。感情は乗っていない。でも、これで十分だと知っている。会話というのは、必ずしも本音で成り立っているわけじゃない。形式さえ守っていれば、波風は立たない。
食パンにバターを塗りながら、ふと視線を落とす。朝食は彩り豊かで、いかにも“ちゃんとしてる家庭”のそれだった。けれど、それがますます空虚に思える。誰かに見せるための「普通」。その「普通」の中で、自分は窒息しそうになっている。
「今日、何時に帰ってくるの?」
母の声が聞こえる。何秒か間が空いてから、口が動いた。
「たぶん、いつも通り。」
母はそれ以上は聞いてこなかった。聞かないことが、家族の暗黙のルールだった。こっちも言わないし、あっちも詮索しない。平穏のようでいて、何も共有されていないこの関係性は、時に他人よりも遠く感じる。
学校に行く支度を終えて、靴を履いたときには、もう心の中は鉛のように沈んでいた。「行きたくない」と思っても、行かないという選択肢はなかった。なぜかは分からない。ただ、欠席した後の空気を想像するだけで、胃がきゅっと縮む。
「行ってきます。」
玄関でそう言うと、母は台所から「行ってらっしゃい」と返してくれた。その声にも、やはり感情はなかった。たぶん、自分もそうだろう。挨拶という形だけの会話。その瞬間だけを守っている。
ドアを開けると、風が顔を撫でた。ひんやりとした空気の中に、どこか冷たさ以上のものを感じた。まるで、世界全体が自分を拒絶しているような、そんな錯覚。
足を一歩、踏み出す。それだけで、心がぐらついた。
「今日も、ちゃんと笑わなきゃ。」
誰にもバレないように。誰にも嫌われないように。透明のままで、一日をやり過ごすために。
そんな一日の、はじまりだった。