サジタリウス未来商会と「願いの裏側」
大城という男がいた。
中堅企業に勤める40代半ばのサラリーマンで、特に不自由はない生活を送っていたが、どこか満たされない思いを抱えていた。
「俺の人生、これで良かったのだろうか……」
ふとした時に、そんな考えが頭をよぎる。
結婚して家族もいるし、仕事も安定している。だが、「これが自分の望んでいた未来だったのか」という疑問が消えないのだ。
ある雨の夜、彼は帰宅途中に奇妙な屋台を見つけた。
それは、路地裏の暗がりにぽつんと佇む屋台だった。
古びた木製の看板には、手書きでこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
大城は足を止め、興味を引かれて近づいた。
屋台には白髪交じりの髪に長い顎ひげをたくわえた痩せた男が座っていた。
その男は、見るからに胡散臭い風貌だったが、どこか鋭い知性を感じさせる目をしていた。
「いらっしゃいませ、大城さん。今日はどんな未来をお求めですか?」
「俺を知っているのか?」
「もちろん。私はドクトル・サジタリウス。あなたの未来を彩るためにここにいるのです」
サジタリウスは微笑みながら、懐から奇妙な小箱を取り出した。
その小箱は、古い木製で、中央に金色の鍵穴がついていた。
サジタリウスはそれを大城の前に置くと、静かに言った。
「これは『願いの箱』です」
「願いの箱?」
「ええ。この箱に鍵を差し込み、あなたの願いを一つだけ込めてください。どんな願いでも必ず叶います。ただし、一つだけ注意があります」
「注意?」
「この箱が叶えるのは、あなたが本当に望んでいる願いです。つまり、表面的な願いではなく、心の奥底で本当に求めているものが叶うのです」
大城は眉をひそめた。
「心の奥底で求めているもの……?」
「ええ。あなたが気づいていない自分の本音が、願いとなって現れるのです。それを受け入れる覚悟があるなら、どうぞ鍵を回してください」
大城は箱をじっと見つめた。
「本当にどんな願いでも叶うのか?」
「もちろん。ただし、結果に責任を持てるかは、あなた次第です」
サジタリウスの言葉に一抹の不安を感じたものの、大城は鍵を握りしめた。
「願いが叶う」――その言葉の魅力に抗えなかったのだ。
「分かった。やってみよう」
彼は箱に鍵を差し込み、そっと回した。
箱から微かな光が漏れ、やがて煙のようなものが立ち上った。
「これで願いが叶う……のか?」
だが、何も起こらなかった。
「どういうことだ?俺の願いは?」
サジタリウスは静かに微笑んだまま答えた。
「心の奥底にある願いは、時として自分では気づかないものです。少し時間が経てば分かるでしょう」
それから数日、大城の生活に変化はなかった。
仕事も家庭も、何も特別なことは起きない。ただ、妙な感覚が胸の奥に広がり始めた。
何かが変わったような気がするが、それが何なのか分からない。
ある日、会社で同僚からこんな話を聞いた。
「おい、大城。先週のプロジェクトの成功、すごかったな。君のおかげだよ」
「俺の……おかげ?」
だが、大城にはその記憶がない。いつものように会議に出ていたはずなのに、何を提案したのかも覚えていなかった。
さらに家庭でも奇妙なことが起きた。
「あなた、最近すごく優しいわね。あんなに家族に無関心だったのに、どうしたの?」
妻が微笑みながらそう言ったが、大城には心当たりがない。
「無関心だった……?」
彼は自分が家族を冷たく扱っていたつもりはなかったが、なぜか家族からの評価が上がっているようだった。
「一体、何が起きているんだ……?」
日が経つごとに、彼は周囲の人々から次々と感謝や賞賛の言葉を受けるようになった。
仕事でも家庭でも、彼の行動はすべて「完璧」と評価される。だが、その一方で、大城自身はその行動をまったく覚えていない。
「もしかして、これが『願いの箱』の効果なのか……?」
彼は思い当たった。
「俺の心の奥底では、完璧な人間になりたいと思っていたのかもしれない……」
その夜、再びサジタリウスの屋台を訪れた。
「ドクトル・サジタリウス、俺の願いは何だったんだ?」
サジタリウスは静かに答えた。
「あなたの本当の願いは、『完璧な自分になりたい』ということでした。そしてその願いは叶いました。あなたは今、周囲から完璧な人間として見られています」
「だが、俺は何も覚えていない。自分の意志で行動している感覚がないんだ!」
サジタリウスは小さく頷いた。
「完璧であることと、自分らしくあることは、必ずしも一致しないのです。願いを叶えることで、自分自身を失うこともある。それが願いの裏側です」
大城は激しく動揺した。
「戻してくれ!俺はもう、完璧じゃなくていい。自分で考えて、自分で動きたいんだ!」
サジタリウスはしばらく沈黙してから、静かに箱を手に取った。
「分かりました。この箱の鍵を回せば、願いを取り消すことができます。ただし……もう一度自分の不完全さと向き合う覚悟が必要です」
大城は震える手で鍵を回した。
その瞬間、箱は淡い光を放ち、静かに消えた。
それから、大城の生活は元に戻った。
仕事では失敗もあり、家庭でも不満を言われることがあった。だが、自分自身の意志で行動できることに、彼は深い安心感を覚えた。
「願いが叶うことが、必ずしも幸せとは限らないんだな……」
彼は、ふとその言葉の重みを噛みしめた。
「人は不完全だからこそ、生きる価値があるのかもしれない」
その言葉を胸に、大城は新たな一歩を踏み出した。
【完】