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第8回 覆面お題小説  作者: 読メオフ会 小説班
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午前零時の案内人 幽霊坂と姉妹

 円藤えんどう沙巫すなふは姉のことが嫌いだった。

 姉は自分の過ごす日常の価値を知らない人間だったからである。


 昔から、対照的な姉妹だった。性格や性向、物事への考え方など、あらゆるものが異なる。だが何よりも違うことは、文字通り視えているものだった。


 沙巫が生まれた円藤家は代々、退魔師の家系である。

 その血筋ゆえか、彼女は生まれつき視えざるものが視える能力……いわゆる霊感を持っていた。


 その力は怪異を相手取ることを生業とする家系にあって、殊更強いものだった。「百年に一度の逸材」と言う者もいるほど彼女の潜在能力は高い。


 対して、姉である沙也加にはそうした力が一切無かった。霊を視ることも感じ取ることも出来ない。


 それだけなら姉妹の才能の差ということに落ち着く。だが、最大の問題、最大の違いはそこではなく、お互いの性格だった。


 沙巫は強大な霊能力を生まれつき持ちながら、霊や魍魎もうりょうといった存在……いわゆる怪異に対して、とてつもない嫌悪と恐怖を抱いていた。そうした怪異を視てしまうだけで足がすくみ、脳味噌がぐちゃぐちゃに搔き乱されたように混乱し、何も出来なくなる。


 姉である沙也加さやかはその逆の性向をしていた。

 沙也加はあらゆる怪異にまつわる物語や情報を好み、そうしたものに積極的に関わろうとした。怪奇スポットを訪ね歩き、怪異との出会いを想像するだけで胸が弾む。そんな人間だったのである。


 怪異を感じ取れるが耐性を持たない妹と、怪異を感じ取れないが耐性を持つ姉。

 欠落したふたつの才能を持つ姉妹だったが、両親はこの二人に分け隔てなく愛情を注いだ。


 そうした環境の中、姉は家業で頭角を現すようになっていった。積極的に円藤家の仕事に関わり、高校生にしてすでにいくつかの依頼に関わったりもしていた。


 対して妹の方は、家業には決して関わろうとはしなかった。

 彼女自身はそれを残念にも無念にも思っていない。働けるようになったら、すぐにでも家を出ようと思っている。


 沙巫にとってしてみれば、姉のすべてが気に食わない。不可解ですらある。

 彼女はなぜ、自分から怪異に関わろうとするのだろう?


 沙巫から見る世界は地獄だった。

 あらゆる場所に霊とか妖怪とか、人の感情といったものが視えてしまう。そうしたモノがそこかしこに現れる。寝ても醒めても、その姿は消えることが無い。

 ただ視えるだけでは済まない。

 人ならざる者は自分の存在が他者に認知されることに敏感でもある。生者に気づかれることを、彼らの多くは無上の喜びとしている。


 ひとたびでも視線が合えばどこまでも憑いてくる。自分が“居る”ということを認めさせようとしてくる。それによって生み出される感情……反応を、何よりも糧としているのだから。


 できる対策はひとつしかなかった。

 徹底的に無視することだ。そんなモノはいないと、視えるものなど無いと、何も視えない振りをしてやり過ごすしかない。

 視えなければそれが最も幸せだ。

 関わらないで済むならそれが真っ当だ。





 沙巫にとってもっとも憂鬱なことは、一人で歩くということだった。

 この世界に、誰も、あるいは何も死んだことのない場所は存在しない。必ず何かの怨念が、必ず誰かの恐怖が土地に刻み込まれている……。

 その点で言えば朝、家を出てすぐが最悪だった。


 家の中には母がいるし姉もいる。退魔の仕事に関わる人間は嫌いだったが、彼らも日常的な会話をしないわけではない。

 学校に行けば誰かがいる。ちょっとした知り合いでも友達でも、行動を共にできる。

 生きている人間と顔を合わせて、意識をそちらに向けられる。たとえ彼らに気づいてしまっても、気づいていない振りができる。


 だが、家を出た瞬間はそうではない。

 沙巫はひとりで家を出る。気に入らない姉と一緒に家を出たりはしない。沙也加に10分ほど先立って出るのが日課となっている。


 ああ、また。居る。


 彼女の住む家は麻布にあった。

 仙台坂を少し行った先にある、大きな平屋建ての屋敷である。屋敷の周りには物理的な塀が建ち、同時に呪術的な意味のある橘や桃と言った果樹が植えられてもいる。雑霊や怪異を拒む結界の類も貼られていた。いずれも沙巫には興味が無い。知りたくも無い。


 家を出てすぐ向かいの電信柱に、何かが何度も打ち付けられているのが視えた。人間……いや、人間だった何かと言うべきか。赤いコートのようなものを羽織り、長い髪が四方八方に振り乱されている。首は何かで切りつけられたように、妙に赤黒い。

 それはヘッドバンキングでもするように頭を打ち付けた。そのたびに痛みに呻くような悲鳴が上がる。脳漿の幻想が飛び散る。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……


 沙巫は掌の中のスマートフォンに意識を向ける。

 近所に住んでいるという同級生とのトーク画面。沙巫は家を出るときと帰るときは、必ず彼女と待ち合わせをするようにしている。


 彼女から“いま家でたー”というコメントともにひょうきんなキャラクターのスタンプがおくられてくる。沙巫はそれにやはりキャラクターのスタンプで応じた。

 2分ほどして、その友人はやってきた。

 おまたせー、と笑う彼女に沙巫は「おそいよー」とやはり笑って応じる。


 二人で坂を下り、駅まで行く。

 通学における最大の難所は仙台坂の下る際、左手に見える墓地だった。この界隈は寺社が多く、それに伴い墓地も多い。つまりは死した人間とかそれを恐れる心が無数に集まる土地でもあった。


 その思念たちは墓から飛び出して、生者をうつろに眺めている。その視線を、沙巫ひとりでは受け止められない。無視をするにも限度がある。

必ずどこかで、その視線を端に捉えて、身体とか心とかどこかが反応してしまう。反応してしまえば、あちらに気づかれてしまう。

 友人が隣にいればそちらに集中できる。死んでいる人間を無視して、生きている人間に目を向けられる。


 会話の内容は他愛のないものばかりだった。

 クラスメイトの誰それが旅行したとか、誰かと付き合っているとか、教師がヒスを起こして言いがかりをつけてきたとか……


 そういう、どうでもいい会話によって彼女たちの日常は構成されている。

 沙巫はこの日常を最も尊いと思っている。こうして人間らしく生きる時間がいつまでも続いて欲しかった。


 学校につけば、やはりいつも通りの、騒がしい生活が続く。

 行われることは、通学の時に友人とした会話の延長である。そこで話されたことが、今度は実践されていく。


 沙巫は都内の中学校に通っている。家の最寄り駅から30分ほどの距離にある。

そこにだって怪異はいる。むしろ多感な学生たちの思念が集中しやすいだけあって、外よりもよほど成立しやすいかもしれない。

 だが、そこで起こる多くの問題は、学生や教師たちが形作る暗黙のルールによって処理されるものでもあった。何かが起きたとしても、学生と教師が形作る学校の価値観で処理される。それが、沙巫には心地良い。


 件の友人とはクラスが一緒で、情報系や選択授業のような席が自由になる授業の時は一緒になることが多い。いや、一緒になるようにしている。他にも友達は多くいたが、家が近いというのは重要だった。彼女さえいれば、あの仙台坂の行き帰りも楽になる。だからなるべく関係を深めようと努めている。


 その日の昼休みもその友人と過ごしていた。だが、その日は二人だけだった。普段なら他の友人も入るのだが、部活の準備で駆り出されているらしかった。


 会話の内容は、やはり他愛が無い。ただ、他愛のない会話のラリーは彼女にとっては生きるための手段でもあったので、易々とこなし続けていく。

 その流れで、件の友人とよく見ている動画の話になった。

 沙巫はゲーム配信、と答えて推している配信者のことを語った。対して友人は「最近はこれかな」とスマートフォンを見せてきた。

 映されているのは動画サイト。

 サムネイルには『心霊スポット』『幽霊坂』『女性の霊と遭遇!?』という煽り文句が並べられている。

 沙巫の心臓がきゅっと、窄められたように感じた。

 寝起きを叩き起こされた時のように、頭の隅々まで血流が行きわたるような感覚。


 普段なら他にも何人かと昼食を取る。そうなれば、他の人に相手をさせて自分は曖昧に肯くということもできた。だが二人きりではそうも出来ない。


「心霊とか都市伝説とかそういう怖い系の動画に沼ってて」

「この配信者さんとかあっちこっちの場所に行って突撃してくんだよね。普段は何にも起きないんだけど、なんか起こりそうな感じが楽しくてさ。時々すごい物音とか聞こえてきて、すっごいよ」

「ここなんか私たちが住んでるところにめちゃくちゃ近くない?」

「この幽霊坂っていうのはいつも私たちが使ってる仙台坂ね。あそこ心霊スポットなんだって」

「なんか、血まみれの女の人が出るっていう噂があって、昔このあたりに住んでた女の人がさ、旦那さんに捨てられちゃったんだって。娘もいたのに。最低だよね。で、あまりのショックで自殺しちゃって。それ以来、出るらしいよ。もしかすると夜に行ったらなんかいるかも」


 一言一言が、体中に鳴り響くように聞こえた。

 動悸はどんどんと激しくなり、視界には光があふれかえる。押しとどめていた霊感があふれ出す。

 かつてこの教室で虐められていた生徒の呪い、かつてこの土地で殺された何者かの苦痛、かつてこの土地を耕していた者の土地を奪われた怒り……


 かつて生きていた人間だけではない。


 あちらで会話している同級生は誰かに恨まれていて、その隣にいる人間は両親に対する怒りを身体のうちに秘めていて、やがてこの教室では名前も知らぬ生徒が他の生徒をいじめて、担任は誰かを殺したいほど憎んでいて。

 そして……目の前の友人は平凡なこの世界に退屈を覚えている。


 それらは沙巫の視界と脳内を断続的に揺さぶった。


 沙巫の霊感は「百年に一度」のもの。

 この世界に刻み込まれたかつての怨念の残滓だけではなく、今生きてる人間の感情や、時には未来すら捉えうる。


 その力を、彼女は常に視ない振りをすることで抑え込んでいた。

 視ないように、考えないように、知らないように……だけど、ちょっとしたきっかけでこうして解放されてしまう。

 この世界に、いかに感情と理不尽が溢れているのか。そういうことが分かってしまう。


「そうだ、今度ここに行かない?肝試しみたいな感じでさ————」


 友人の軽い言葉。

 ちょっとした誘い文句。折角近所何なんだから一緒に、という程度のもの。しかし沙巫は我慢できなかった。


「……いかない」


 考える間もなく言葉が飛び出た。


「え?」

「いかない。絶対いかない。何それ、そんなの絶対ヤダから。そういう怖いの、マジで無理。そういう面白半分なの、本当ふざけてる」


 続く言葉を押しとどめることが出来なかった。

 ほとんど泣き叫ぶような声に目の前の友人は面食らっている。

 沙巫は荷物を掴むと、その勢いのまま廊下を走りだし……そのまま、駆け出した。どこに行くという宛も無く。





 沙巫はそのまま学校を飛び出て、駅前のファーストフード店に一人でいた。学校では冷静でいられる気がしなかった。誰かと会話していたかったけど、いつまた感情と霊感が溢れ出すか分からなかったし、あの友人とのことを詮索されたくなかったから他の友人にも連絡を取れなかった。

 飲食店には人がたくさんいる。誰かが話しているし、人の眼もあるし、何より新しい店なら因縁が溜まっていない。ひとりでいるのも比較的楽だった。


『そんな、ちょっと誘っただけじゃん』


 ふと、去り際に聞こえた友人の言葉と顔が頭を過る。

 こうしてひとりでいると、少しずつ冷静になってくる。別にあんな風に怒ったような言い方をすることは無かった。自分がそうした話が苦手であることを普通に伝えればよかった。そうすれば分かってくれたかもしれない。なのに……


 いまさら悔やんでも悔やみきれない。

 どうするべきか、沙巫は迷いながら外の光景を眺めた。





 何をしていたわけでも無いのに、時間はあっという間に過ぎた。あの友人から連絡は来なかった。他の友人に泊めてもらうよう連絡しようかとも思ったが、なんて説明すればいいか思いつかなかった。

 ……一人で、あの坂を登りたくない。一人で家に帰りたくない。

 何とかして家に帰らないで済む方法は無いか、と頭を巡らす。

 財布の中身を見たが、中には2000円ほどしか入っていない。都内のネットカフェで一日を過ごすには足らないだろう。

 円藤の家は麻布に土地と屋敷を持ち、また多くの収入を得ているが、それは沙巫には関わりが無いことだった。お小遣いは月に1万円。欲しいものは別途申請して買ってもらうことになっている。なので月末ともなれば財布にはこのように最低限の金額しか入っていない。


 スマホで動画を見たり、勉強している振りをしたり、腕を突っ伏して眠ったり……色々として時間を潰していく。だが、何時までもそうしてはいられなかった。こうしていれば、朝までここにいられるのでは無いか……と思ったが、11時を過ぎるとちらほらと店内に警察官が見回り出した。それでもいられるだけいようと粘った。しかし……


「お客様。未成年の方ですよね?」


 ついに店員に声を掛けられてしまった。そうなると出て行くほか無い。


 何処かに泊まるお金も無ければ場所も無い。どうするべきか、どこかに泊めて貰える場所はないか。そんなことを考えながら、麻布十番駅にたどり着いていた。


 もうすぐ、明日になってしまう。

 ポケットのスマートフォンが鳴る。家族からのメッセージだった。自分を心配する言葉が並んでいる。それを彼女は無視した。……結局のところ、すべてはこの家せいだ。私が苦しんでいるのは、すべて。

 それでも、帰れる場所はその家しか無かった。


 すっかり静かになった商店街を抜け、家に向かう仙台坂を登り始めた。一歩一歩の足取りが重く感じる。

 遠くのタワーマンションから光が見える。街灯の光は白く、足元を照らしていた。なのに、そのすべてが妙に白々しく見える。

 最低限の視界を確保したことで、この世界に闇など無いと言い張っているように見える。そんなことは無い。そんなことは無いのに。


 不安に押しつぶされそうになりながら坂を登る。一歩一歩、坂を登り切った先にある自宅に向かう。吹き付ける風が妙に冷たかった。

 右手にある墓を見ないように、左手にある韓国大使館の方に視線をやる。物々しい壁だが、この世ならざるものよりは増しだ。

 一歩、一歩、一歩……少しずつ家に近づいていく。

 ふと、楽観が過った。もしかすると今日はもう出てこないかもしれない。なにも現れないかも知れない。友人が言っていた血まみれの女の霊……そんなものはこれまで見たことが無いのだし。


『いつも使ってる仙台坂、幽霊坂って呼ばれてるんだって』


 忘れていた友人の言葉が頭を過る。

 それと、朝見た光景も。

 赤いコートを着た、首から血を流し、熱心に頭を打ち付ける女———


 考えてはいけない。考えてはいけない。考えてはいけない考えてはいけない考えては———そう思えば思うほど、その二つは意識を占めていく。


 坂の頂上が見えた。

 登り切って、周囲をうかがう。

 見えるのは薄暗いコンビニやテニスコートだけ。

 ああ、と安堵の声を漏らす。何もいない。誰もいない。大丈夫。大丈夫だ……


 あと数十メートルほど行けば家に着く。家に着きさえすれば、大丈夫。


 仙台坂を抜けて、住宅街の中を速足で歩いた。マンションや一軒家などが立ち並んでいるが、先ほどまであった街灯も無くなって、一気に寂しくなってしまった。

 どこからか悲鳴が聞こえてくる———

 否、悲鳴のような夜風の音だった。向かい側にある大木が不気味に揺れて、声のような音を轟かせているのだ。

 もう自宅のすぐ傍にいる。屋敷を巡らす塀を伝って歩いている。あとは正門までたどり着けばいい。早足で道を急ぐ。


 正門が見えて、沙巫は歩くスピードを上げた。

 その行く手に、影はぽつねん、といた。


 沙巫はその影を、まともに見てしまった。

 それは彼女を視ている。

 彼女の眼を捕えている。

 彼女もまた、その存在を視止めている。

 朝にいたのと同じ。あの赤いコートの首の赤黒い女が———


「あ」


 視てしまった。視られてしまった。

 視ているのを視られた。もう誤魔化せない。

 視覚がブレていく。

 そのシルエットに重なるように、アレが内包する因縁が視覚情報となって視えていく。土地に刻み込まれた他者への恨み。家族に捨てられた苦しみ。自分だけを余所にのうのうと人々が暮らしている妬み。誰もかれもが自分を無視している怒り。

 ———そして、ようやく自分を認識する人間を見つけた邪悪な悦び。


「ああ、ああ———」


 金属を擦り合わせたような、微かな悲鳴が漏れた。

 足はすくみ、震えている。体中が甘くしびれたようになって動けない。

 恐怖の前に逃げることも対抗することも、抵抗することすら出来ない。


 沙巫は強大な霊能力の素質を持っている。だが、彼女はそれを磨いてこなかった。彼女はその力で、自分を守る術を知らない。怪異の抱える悪意に、ただ吞み込まれることしか出来ない。


 感情がアレに引き込まれていく。


 眠ってしまいたかった。無くなってしまいたかった。こんな怖い気持ちになるのなら……それで友達もいなくなってしまうなら。もう自分なんて存在しなくていい。存在していたくない。消えてしまいたい。こんな風に生まれて、何もいいことなんて無いのに———!





「曰く、都内には幽霊坂と呼ばれる場所がいくつかあるそうです」


 ふと、声が聞こえた。

 場違いな、しかし確かに人間の声。聞きなれた声。彼女が生まれた時からあった声。


「有名どころは三田でしょうか。あとは千代田区にも二つくらい。もちろん、すぐそばの仙台坂もそうです」


 声の主は沙巫の後ろから、後を追うように登ってくる。


「そういえばこの脇には暗闇坂というのもありますね。今夜はそちらから降りましたが———まぁ、風情のある坂で。何かが起きても不思議ではない場所でした。残念ながら何もありませんでしたが」


 声の主は淡い朱色の浴衣にインバネスコートという奇妙な着回しをしていた。あの浴衣を着ている姿は家の中でよく見る。家でくつろぐときに姉がよく着ている一着だ。コートも「お仕事で稼いだお金で買いました」と嬉しそうに語っていたのを思い出す。


「名前の由来は、いずれも林や武家屋敷の塀や木々に囲まれて薄暗かったから、人々が『そこに怪が現れるかも』と思うような場所だったからです。普段ならそうでもありませんが、さすがに夜ともなれば違いますね」


 沙也加は朗々と、謡うように声を響かせる。その声はあの影に向けられているようで———実のところ、妹に向けられていた。

 その視線は、漠然と影のいる方へと向けられてはいたが、しかし沙巫と同じところを見てはいなかった。沙巫の姉には、怪異が視えない。


 ふと、沙也加は沙巫に視線を合わせた。やわらかい笑顔を浮かべながら、言葉を使わずに、しかし尋ねるような視線を向けた。『あちらですね?』という姉の声が聞こえてきそうなアイコンタクト。それに軽くうなずく。

 沙也加はそれを見て、沙巫の先を行き始めた。

 門までの行く手、あの影のいる場所へ、まっすぐと。


 女の影は、向かってくる沙也加にも同じように視線を合わせる。沙巫と同じように呪い、引き込もうと———だが、沙也加は意に介さない。当然だ。彼女には何も視えていないのだから。

 しかしそれは彼女の非力を意味しない。視えない、ということは、転じて沙也加に影響を与えられないことでもある。





 沙巫に何が視えているのか、沙也加には分からない。

 沙巫が何を怖れていて、何に脅えているのか……しかし解らなくても、予想することは出来る。

 沙巫は日常的に色々なモノを視ている。彼女自身は語りたがらないが、雑霊の存在は茶飯事のはずだった。

 であるのなら……彼女が怖れるなら、攻撃的な、あるいは尋常ならざるモノであることは想像が付く。

 この近隣での有名な怪異と言えば、仙台坂の母子幽霊、暗闇坂に現れる幽霊、あるいは無数の手が現れる善福寺の逆銀杏か。

 そう思って鎌を掛けてみたが……沙巫は『幽霊坂』とりわけ『仙台坂』というワードに反応したように見えた。昔から、妹は分かりやすい。


 沙巫はこの手の情報を遮断していたが、大方友人から不意打ちでも喰らったのだろう。彼女の意識が怪異に焦点を合わせてしまい、彼女が視ることで怪異が成立した……。

 ならば、と沙也加はとるべき手段を見極める。





「そういえば、仙台坂にも怪談がありましたね。『仙台坂の母子幽霊』としてまとめサイトなどでもよく目にします。古いサイトでも1970年の自殺が取り上げられるケースがよくあります。ともかく地元の怪談があるというのは大変喜ばしい。ごく近所なのも高ポイントです」


 しかし、と沙也加は区切った。


「本当にそんな自殺事件があったのか、あったとして、ここ……つまり円藤の邸は、その怨念が現れる舞台として相応しいのか。すこし怪しいと思うのです。どこで自殺したのか、どうやって自殺したのか、どのような怨念があったのか———ここらへんの情報がとっちらかった怪談でもあります。ある例では夫に捨てられて自殺した女性の霊。ある例では仙台坂で交通事故に見舞われ、それ以来仙台坂に現れる霊。……しかし、そうだとすると可笑しいのです。交通事故にあったのだとしたら仙台坂に居続けるのも分かります。自殺だとしてもあの坂になんらかの因縁があったとすれば、まぁ」

「しかし、だとしても。ここは違います。この周辺は明治の昔から円藤の持ち家でしたし、向かいのお寺もそうです。少なくとも1970年以前からの来歴を遡ることができます。それでは……」


 姉の捲し立てるような話しぶりを聞いていると、沙巫の中に自然と疑問が出てきた。それなら……


「あなたは一体、誰なのです?」

 アレは一体、何なのだろう。


 自分の思考と姉の言葉が重なる。

 また、風が吹いた。眼を開けていられず、瞬きをする。

 ……目を開くと、影の在り方が薄まっていた。輪郭は荒く描いたスケッチの様に千々に乱れている。

 確かにあの影は居る。こちらを眺めている。薄嗤いを浮かべてはいるけれど……少しだけ、存在が少なくなっている気がする。

 しかし。


「まだいますか?」


 姉の声に頷く。


「中々うまくいきませんねぇ……この前はこれで上手く行ったんですが。視ているのがスーちゃんだからですかね。それならまぁ、手っ取り早くやっちゃいましょうか」


 そういうと沙也加は懐から何か、字のようなものがのたうち回った札を取り出した。


「これはさる退魔の家系から購入した御札です。遡ること800年あまりの大家。そこの御曹司がお作りになった大層ありがたい一品となっております。一枚税込み一万五千円。お値段は多少張りますが、その分効果もそれなり、です!」


 その御札を、沙也加は前へと掲げる。

 そうするや否や、影は頭を抱えてもだえ始めた。苦しんでいる、のだろうか。

 四方八方に身体を揺らし、地面に這いつくばり……


『ヴァァァァァァァァッァァッァ』


 けたたましい悲鳴が響いた。おぞましい、この世のすべてを恨むような叫び声に沙巫の身が竦む。

 が。


「今日は風が激しいですねぇ」


 違う。これは叫び声じゃない。いつか聞こえたのと同じ、風が吹き荒ぶ音だ。


「さぁ、そろそろ帰りましょう。もう明日になってしまいましたよ。お母様もお父様も心配していましたし……何より風邪を引いてしまいます。そうだ、最近神保町の書店でコーヒー豆を買ったのですよ。淹れてあげましょうか。眠れなくなるかもですが」


 瞬きをする。影はもう居ない。

 さぁ、と手を引く姉の姿があるだけである。沙巫は言葉も無いまま、姉に手を引かれるまま、帰路へとついた。





 円藤えんどう沙也加さやかは妹のことが嫌いだった。

 彼女は、自分の視る非日常の価値を知らない人間だったからである。

 母や妹に視えているものが自分には見えない。それが彼女の心に蟠るコンプレックスだった。

 怪異を祓う者として生きていくこと。沙也加にとってそれは自然なことだった。時に敬い、時に貶め、そうして魔を退ける。それが彼女のこれまでであり、これからだ。

 しかし、彼女には決定的に、それを感じ取る力が欠けていた。


 妹にはその力がある。誰もが認めるような素質が備わっている。

 ……別に、いまさらそれに対して何を思うことも無い。両親は別にそれで差別したりはしないし、妹だって鼻に掛けている訳でも無い。

 人には得手不得手がある。沙巫がそういうものを苦手としていることは理解できる。自分とは真逆だが、そうした人間がいるという事実は受け入れられた。


 ただ、自分の力と向き合わないでそれを否定するだけの姿は見苦しいと思う。


 総じて言えば、やはり妹のことは嫌いだった。これから好きになれるか分からない。もしかすると、この関係がずっと続いていくのかも知れない。

 だが、それでも。消えてしまえば良い、と思ったことは一度だって無かった。





 朝、沙巫は憂鬱な気持ちで門の外を出る。

 いつも通りの時間、いつも通りの風景。夜更かしして、いつもより気怠い頭。

 ……いつもどおり、何かよく分からない物が視える世界。


 昨日の頭を打ちつける女性の姿は消えていたが、その代わりに何か……無数の手のようなものが蟲のように群れて蠢くのが視える。

 沙巫は表情を動かさずに視線を外し、スマートフォンを見た。

 あの友人とのトーク画面には、沙巫が送った謝罪の言葉が並んでいる。だが、それが既読になった様子は無かった。見ていないだけなのか、あるいは無視されているのか。


 昨日までと同じく、沙巫は10分ほど待った。友人が通りかかるかも知れない。迎えに来てくれるかも知れない。

 でも、友人は来なかった。いつもならそろそろ通りかかるだろうに、その姿は見えない。遅れてしまったのか、あるいは普段よりも速く登校したのか、それとも……


「出ないのですか?」


 そうこうしているうちに、姉が来てしまった。高校指定のセーラー服の上からインバネスコートを羽織っている。相変わらずセンスがよく分からない。


「……別に。サヤちゃんには関係ない」


 姉を仇名で呼んだのはいつぶりだったろうか。姉ときちんと会話したこと自体が久々な気がした。


「関係ないことはありませんよ。妹が遅刻しようというのをむざむざ見ている、というのも目覚めが悪いですし、後々お母様から怒られてしまうかも知れませんし」


 姉は誰に対しても、妹にすら敬語を使って話す。よく分からない人間だ。あらゆることが相容れない。きっとこれからもそうなのだろう。


「そうだ。折角なので途中まで一緒にいってあげましょうか?」

「は?なんで」

「もちろん、姉としての義務です」

「……いやだよ。なんか変な話とかするじゃん」


 変な話、というのは幽霊がどうとか妖怪がどうとかという話だった。そういう話を日常的にするから沙巫は姉としばらく会話を交わしていなかったのだ。


「……分かりました。封印します。その手の話……滅茶苦茶したいけど、封印します」


 やっぱりするつもりだったのか、と呆れつつ、沙巫はどう返事をしようか迷った。あの子は来る気配が無い。きっと、もう来ないだろう。

 沙巫は黙って家を出る。沙也加が後から付いてくるが、特にそれを拒絶したりはしなかった。


「そうですねぇ、それでは新世界秩序についてのお話などどうでしょう。300人委員会についてのお話はご存じでしょう?彼らの人間牧場計画がついに今年動き出したという情報が」

「存じない存じない。なんでそんな……他になんかさぁ。そう、恋バナとか。彼氏とか居ないの?そういう話ならしてあげてもいいよ」


 その質問に姉は言い淀む。むう、と目頭を揉んで何やら言い訳めいたことを言い連ね始めた。


「……いません。言っておきますが私はそういう浮ついたことに興味は無いのです。世の中にはそれよりももっと大切なことなどいくらでもあるわけでして、恋だの愛だのを至上のものとする考え方にはあまり共感できない身でして……」


 早口で捲し立てる様子を見て、少しだけ笑みが漏れた。

 それに沙也加はむっとした表情で言い返す。


「笑うこと無いでしょう」

「いや、サヤちゃん必死過ぎるんだもん」


 相変わらず世界は狂っているし、友達は減ったし姉のことも好きになれない。沙巫の世界にある問題は、何ひとつ解決していない。

 だけど、ふたりで坂を降っていった。

 家族でいるとはそういうものなのかもしれない。


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