111.ラーバリの翼
「ティルダさんが、悪魔に襲われる……!」
塔の周囲を螺旋状に這っている外階段をリリアは駆け上がっていく。二段飛ばし三段飛ばしと必死で足を動かす。
先ほど、空から差した巨大な影——リリアにはあれが悪魔にしか見えなかったのだ。
「待っていて、ティルダさん!!」
だが——
最上階に到達したとき、リリアの耳に届いたのは、あまりにも無防備な、少女のような声だった。
「会いたかった……!」
それはティルダのものだった。甘く、切ない、恋する乙女の声。ランプの明かりでその恍惚とした表情が照らし出されている。
最上階は十メートル四方の正方形の空間で天井が高く、四隅に柱があるだけで壁はない。大パノラマが見渡せるつくりになっている。
リリアは驚き、足を止めた。すぐさま柱の影に身を隠す。
悪魔だと思っていた影の主は、どうやら違う。だだっ広い空間の反対側の際でティルダと何者かが親密に言葉を交わしている。顔は見えない。だが、その雰囲気からして、ただの知人や協力者ではない。
これは——密会?
──恋人どうしなの?
近すぎる顔と顔、そして、互いを抱き寄せる腕、リリアは覗き見している状況になんだか罪悪感を感じ始めていたが……
──だめだめ、ちゃんと観察しないと。なんでもいい、黒幕を突き止めるヒントを……
リリアは目を凝らして最上階を見渡した。大分目が慣れてきたようで、隅から隅まで空間が輪郭を帯びている。
と──
「……あれは、ラーバリの翼……」
リリアの目が、部屋の隅に置かれた漆黒の翼に吸い寄せられた。ラーバリ——この世界で最も速く空を駆ける鳥。その巨大な羽根を加工した翼装備は、持ち手の意思に応じて空を飛ぶことすら可能にするという。
リリアの脳裏に、かつての戦場の光景が蘇った。魔王討伐の折、空から魔物たちに襲いかかり矢で仕留めていたのは、まさにこのラーバリの翼を装備したエルフの軍勢だった。
あの翼を、自在に操ることができるのは……
「人間じゃない」
確かにラーバリの翼は人間でも装備可能だ。しかし、百メートルの高さを誇るメリダールの塔の最上階まで、ラーバリの翼だけでたどり着いたのなら、その者は間違いなく“風を読む”力を持っている。風の流れを感じ取り、その隙間を縫うように飛ぶ——それは、エルフに特有の能力だ。
おそらく、クロアが追っていた「エルフ社会の闇」に関わる人物。その者が、ティルダを使って何かを企てているのではないか?
リリアは息を呑んだ。
──顔を、見なければ。
身を潜めたままでは限界がある。リリアは塔の外壁に目をやり、石の継ぎ目に指をかけた。
「いける……!」
かつて幾度となく砦や塔をよじ登ってきた経験が、彼女の体を迷いなく動かした。
下では、ルイーズとエスメラルダが小さな声で騒いでいた。
「リリアちゃん、なにやっとんねん!」
「ってか、落ちそうで見てられないしー!」
リリアにその声は届かない。
リリアは集中していた。すべての神経を指先と足に集中させ、そろり、そろりと塔をまわり込む。そして——
見えた。
特徴的な尖った耳。長身で優雅な立ち姿。やはり、エルフに違いない。
が、その顔はまだ闇の中だった。
もう少し……もう少しだけ——
「さあ、私を……あなたの世界へ、連れて行って」
ティルダの声が震えている。けれど、それは恐怖の声ではない。期待と信頼に満ちた、恋する声。
それに答えるように、エルフの男が言った。
「もちろんさ……」
——その瞬間だった。
エルフの男が、ティルダの体をぐいと押し出したのだ。
「エルフに、生まれ変わったらな!」
「キャアぁあああああ!!」ティルダは悲鳴を上げながら落下していく。行き着く崎は百メートル下の地面だ。
「ティルダさんっ!!」
リリアは無意識に叫び、壁を蹴って跳んだ。落下するティルダの後を追ったのだ。
「リリアちゃん!!!」地上でルイーズとエスメラルダが同時に叫んだ。
リリアの体が重力によって加速していく。
視界がぶれ、風が耳を裂くように吹き抜ける。眼下にティルダの体が、悲鳴と共に落ちていく。
落下しながらリリアは腕を伸ばした。しかし、その距離は縮まらない。五メートルはあるだろう。
「お願い——間に合って!!」リリアは火炎魔法を発動させジェットエンジンの要領で後方に放つ。
少しずつその距離が縮まり始めた。そして──
彼女の指が、ティルダの手を掴んだ。ティルダの瞳が、こちらを見た。『助けて』ではない。ただ、『生きたい』と、必死に訴えていた。
しかし、二人の体は確実に地面に近づいていく。あと10メートルもない。火炎魔法を地面に向けて放ち、減速して着地をはかろうと考えていたリリアだったが、もうその余地もない。考えが甘かったようだ。
「ダメだ!間に合わない!!」リリアが叫んだ。
──せめてティルダさんの命だけは!
リリアはティルダの体を守るように抱きかかえた。自らの体を盾にしてティルダを守る、それがリリアが刹那に選んだ道だった。