104.ウィノーラ
「その必要はねえよ」クロアが言った。
「どういうこと?」リリアが訊いた。
「ちょっと待ってろ……」
十秒ほど沈黙が流れた後──
ダダーン
地響きのような衝撃。木々がざわつき、風が逆巻く。
「な、なんなん!? 地震!?」ルイーズが辺りを見回す。
「うわっ! 頭上!!」リリアが指差したその先から──
バサバサッ──バタッ!
葉を裂いて、空から降ってきたのは──
「いたたた……また着地ミス……」顔を上げたのは、銀の髪をなびかせた美しい女性エルフだった。
「ウィノーラ!」クロアが叫ぶ。
「え、え、ええー!? この人が!」エスメラルダとルイーズが驚きのハモり。
ウィノーラはよろけながら立ち上がると、ヴァンサンのもとへ駆け寄った。
「ヴァンサン……! バカ……なんでこんなこと……!」
ウィノーラは彼の胸の悪魔の心臓にそっと触れた。
青く脈打っていたそれが──わずかにおさまった。
こころなしかヴァンサンの表情も穏やかになって気がする。
「すごい、やっぱり愛の力ってすごいわ!」リリアが目を輝かせて言った。
「ってかウィノーラさん、めっちゃおるやん。家出しとったんやないん?」ルイーズが言った。
「いや〜俺も家出したんだと思ってんだけどよ……」クロアが苦笑いしながら言った。
「クロアルダ、勝手に家出娘にしないで。あなたがそんなことを言うからおばあさまが心配して……」
「そ、そうなんだよ、ばあちゃんが使いの妖精を出して姉ちゃんを探させたんだろ? どうせヴァンサンと喧嘩でもして頭冷やしてんだろ、って俺は言ったんだぜ!姉ちゃんをそっとしておいてやりたかったからな」
「あなたねえ、全部間違っているのよ。私はヴァンサンと喧嘩などしておりません!」
「じゃ、どこ行ってたんだよ?」
「え……」急にウィノーラは口ごもった。「それは……その……」
「姉ちゃんはっきり言えよ。いつもそうやってモジモジして何も言わねえからいろいろ誤解されるんだろ?」
「あー!わかったわよ!! 私はね、ミスティリスに行ってたの!」
「マジかよ……」クロアが目を丸くして固まった。「ってことは姉ちゃんは……」
「……そう、そういうことよ」ウィノーラは恥ずかしそうに目を背けた。
「あのぅ……ちょっといいですかー、意味がわかんないしー」エスメラルダが言った。
「ねえ、クロちゃん。ミスティリスってどんな場所なの?」リリアが言った。
「自分がマッチングしちゃって、かっこええ男と会ってたとかやないん?」ルイーズが言った。
「ふ、二股?」エスメラルダが合いの手を入れた。
と、ウィノーラが2人を睨んだ。
「あーダメや。嫌われたらあとあとマッチングしてもらえんくなるで!」
「それは困るしー」
「ごめんなさい!!」ルイーズとエスメラルダは同時に90度頭を下げた。
「……ミスティリスっていうのはな」クロアが静かに語り始めた。「エルフの森を越えたところにある泉のほとりにある花畑さ。花畑といっても普通の花が咲いてるんじゃねえ、光り輝く星の花が一面に咲き乱れているんだ」
「星……たしかエルフにとっては特別なもののはず」リリアが言った。リリアは魔王討伐軍で一緒になったエルフたちが星をモチーフにしたネックレスやお守りを大事に持っていたことを思い出した。
「そうだ。俺たちエルフは星の光に守られ、星のまたたきに命を吹き込まれる。つまりだ……俺たちにとって命の源。エルフの女たちは子どもを身ごもった時に、ミスティリスに行って、子どもが生まれるまで過ごすんだ。そうすれば、生まれた子は星のご加護を与えられる。ってか姉ちゃん、ヴァンサンにちゃんと伝えてから行けよ」
「おっかしいなあ。魔郵便で手紙を送ったんだけど……読んでないのかな」
「ヴァンサンは姉ちゃんが2人の未来を悲観して、どっかに失踪しちまったと思ってよ……でさ、悪魔にまでなろうとしてよ……」
「うわーん、私のせいだー。許してー、ヴァンサン。私は逃げたんじゃないのよ!私はあなたと真剣に向き合うために……」ウィノーラは少女のように泣きながら言った。
「まとめるとやな、ウィノーラさんはヴァンサンとの間に子どもができたっちゅーことね。そんでエルフの決まりに従ってお花畑におったんやね。やけど、なんも知らんヴァンサンがウィノーラさんが逃げた思うて一人で勘違いして、こんなことになったんか。まあ、よーある、よーある、恋愛のすれ違い、あるあるや」ルイーズがあっけらかんと言った。
「ちょっとちょっとちょっと! あるあるで済まさないで!純愛、純愛なの!」リリアが言った。
「勇者リリア」いつの間にか泣き止んでいたウィノーラはリリアを真っ直ぐに見て言った。
「私のこと……知ってるんですか?」
「私も魔王討伐軍に参加していたから。とはいっても後方支援だったからあなたは私のことを知らないでしょうけど」
「仲間だったんですね!」一気に親近感がわいたリリアだったが、すぐに表情が曇った。手放しで祝福はできない。ウィノーラとヴァンサンの間にできた子どもの存在自体に大きな問題が横たわっている。ハーフエルフの誕生、歴史的に常に波紋を呼ぶ出来事だ。その場にいる全員が同じ思いを抱いているのがわかった。
「ま、いろいろあるけどよ」少し重くなっていた空気をクロアが軽いトーンで散らす。そして、「とにかくめでてえ。俺は祝福するぜ、姉ちゃんよぉ……ほんと、俺は……」最後はいつも通り涙声になっていた。
「ありがとう、クロアルダ」ウィノーラは屈託のない笑みを返した。
その時、ヴァンサンの目がゆっくりと開きかけた。
「ヴァンサン!」ウィノーラが気づいて、顔を近づけた。皆が息を呑む。
ヴァンサンは目をぱちくりさせ、皆の顔を一通り見ると、起き上がった。
「やっぱり愛なんだよ! 愛の力は奇跡そのものなの!」リリアは歓喜の声を上げた。
ルイーズやエスメラルダも目の前の奇跡に心を動かされているようだ。
「ヴァンサン! よかった! 私よ、私がわかる?」ウィノーラが必死でヴァンサンに語りかけた。
だが、次の瞬間──
ヴァンサンの背中が不自然に膨らみ、バキバキと音を立て、巨大な蝙蝠のような羽が展開された。
「グゥオオオォォォォ!」
ヴァンサンは言葉を失い、獣のような咆哮を上げていた。目は完全に赤黒く染まり、頭には巨大な2本の角。そして、手足には一撃で致命傷を負わせるであろう、鋭く光る刃のような爪。その荒ぶる表情から人の心は読み取れない。
「そんな……感情をコントロールできてない!心まで完全に悪魔化してる!」リリアが剣を握りしめて叫ぶ。
「グゥオオオォォォォ!」
ヴァンサンは狂ったように暴れ、強力な爪で周囲を攻撃し始める。恐ろしいスピードだ。
「キャアア!」ヴァンサンの攻撃がエスメラルダに向かって振り下ろされる。
「危ないッ!」
その瞬間、クロアが間一髪でエスメラルダを抱き寄せ、身を盾にした。
ザシュッ!
クロアの背中に爪が食い込み、血が流れる。
「クロちゃん!?」エスメラルダが腕の中で目を見開いた。
「大丈夫か?」クロアはヴァンサンを睨みつけながらも努めて優しい響きでエスメラルダに語りかけた。
「う、うん。っていうか、あなたの方が……」
「俺は、全く問題ねえ!」と言いつつ、クロアの足元にはドス黒い血溜まりができていた。
そんな最中にもヴァンサンの闇魔力が増幅されていく。空中には巨大な黒い塊が形成され、街全体を覆い尽くさんとしていた。
「聞いてた話とちゃうやん!ただの悪魔やないで!」ルイーズが叫んだ。
「こ、これは……魔王軍の師団長クラスの魔力!」リリアが蒼ざめる。
「ヴァンサン……今、助けるから!」
決意に満ちたウィノーラの瞳がヴァンサンを真っ直ぐ見つめていた。そして、一歩ずつ異様な魔力の源へと近づいていく。
「ダメ!ウィノーラさん!!」リリアが叫んだが遅かった。
ヴァンサンの刃がウィノーラの体めがけて振り下ろされようとしていた。