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水曜日のパン屋さん  作者: 水瀬さら
第5章 ひとりぼっちの世界
34/44

8月1日(水) 晴れ 2

 来たときと同じようにエレベーターに乗って、病院を出た。夏の空はまだあかるく、体感気温もまったく下がっていなかった。

「ほんとうによかったの? 帰ってきちゃって」

 バス停までの道を歩きながら、音羽くんに聞く。

「いいんだよ。ほんとに用事なんかないんだ。話すこともないし」

 音羽くんは前を見たままそう言って、小さく息をはく。

「さくらさん……元気なかっただろ?」

「あ、うん。いつもよりは」

「隣のベッドにさ」

 言おうか言うまいか、一瞬考えるように黙ったあと、音羽くんは言葉を続けた。


「若いお母さんがいたんだ。小さい子どもがふたりいる、すごくやさしいひとでさ。もう長くあそこにいるみたいで、さくらさんにいろいろ教えてくれたし、俺にも話しかけてくれた」

 私は隣を歩く、音羽くんの横顔を見つめる。

「だけど一昨日の夜中に容態が急変したらしくて、先生や看護師さんたちが大勢きて、そのまま病室変わっちゃって。で、昨日さくらさんが、看護師さんにそのひとのこと聞いたら……亡くなったって」

 私は大きく息を吸い込んで、それを吐いた。そんな私の耳に音羽くんの声が聞こえる。

「そのひと……さくらさんと同じ病気だったんだ」

 胸が、痛い。だけどもっと音羽くんのほうが痛い。それよりもっと、さくらさんのほうが……。

『産まれるひとがいる一方で、亡くなるひともいる。病院って不思議なところ』

 さっき聞いたさくらさんの声が、耳の奥で響き渡る。

 私たちは、生と死の狭間で生きているんだ。


 車道を何台もの車が通り過ぎた。遠くでクラクションが鳴り響く。遠くの高い建物が眩しくひかっている。

 こんなとき、なんて言ったらいいのかわからない。私にできることは、やっぱりこのくらいしかない。

 隣を歩く、音羽くんの手をにぎる。音羽くんは、その手をぎゅっとにぎり返す。

 知らない人たちが行き交う、知らない町で、私たちはすがるように、お互いのぬくもりを求め合う。

「芽衣の手……あったけぇ……」

 ひとり言のような音羽くんの声が、走り去る車の音とともに、かすかに聞こえた。


 音羽くんと電車に乗って、いつもの駅で降り、私の家まで送ってもらった。手はしっかりとつなぎ合ったまま。

 分かれ道にさしかかったとき、やっぱり音羽くんのことが心配で、「私が送る」と言ったけど、「今日は俺が送る」と手を引っ張られた。

「じゃあ、ここで」

 音羽くんがそう言って、私の家の前で立ち止まる。だけどまだ、手はつないだままだ。

「うん……」

 名残惜しくて、手を離せない。だけどもうすぐお母さんが帰ってくる。

「音羽くん……手、離して」

 自分からは離したくないからそう言った。

「ああ、うん」

 音羽くんはそう答えたけれど、まだ離してくれない。

 ずっと一緒にいたいって思った。このままずっと、一緒にいられればいいのにって。

 だけどそんなのは、無理だ。


「お前から離せよ」

「え……」

「芽衣から離して」

「……できない」

 音羽くんが私の前でふっと笑う。

「じゃあずっと、つないでようか? このまま、ずっと」

「えっ」

「冗談だよ」

 ははっと笑った音羽くんが、ぱっと勢いよく手を離した。

「じゃあ、またな」

 その手を上げて、音羽くんが言う。

「あ、うん。また」

 私も手を上げて、それを振る。

 音羽くんは私に笑いかけると、背中を向けて歩き出した。


 小さくなっていく音羽くんの背中。それを見送りながら、私は思う。

 音羽くんに出会えてよかった。音羽くんがこの世に生まれてくれてよかった。私もこの世に生まれてきてよかった。

 私が生まれてきた意味が、なんとなくわかった気がした。

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