第六話 だというのに、その雨は心地良くて
『分かってると思うけど、今日は会う日だからね。忘れずに』
そんな簡潔なメールが届いたのは、彼女……古衣璃紗と明確に知り合って三日後の放課後だった。
わざわざメールを送ってくれるのはありがたい……それでなくても忘れるつもりはないというか、忘れられなかったが。
「えっ!?」
「うわっ!?」
横合いからいきなり大声が上がって、思わず椅子から転げ落ちそうになる。
声の主は……クラスメートではあるが友達と言っていいかは微妙な暁君だった。
「おまっ……それってデートのお誘いかっ……!?」
いつものノートの感覚なのだろうが、人の携帯画面を覗き込むのはやめてほしい。
「いや、そういうものじゃないよ」
本人から直々にデートじゃないからと念押しされているのだ。勘違いするのは良くない。
ちょっと浮かれているのかもしれない自分への戒めも込めて内心で念押しする。
「まぁちょっとした不手際である人に迷惑を掛けて、これから会う事になってるんだ」
「なんでまたそんな事になってんだ?」
「うーん、上手く言えないな。
……それはそれとして、人のメールを覗き見るのは良くないよ」
「悪い悪い、つい、いつもの調子でやっちまった。
……で、大丈夫なのか、それ」
「大丈夫だよ。うん。……ふぅ」
「その顔は大丈夫じゃなさそうだぞ……」
「少し心配というか憂鬱というか……それだけだよ」
非日常に少し浮かれている自分がいるのは事実だが、同時に内気な自分が未知への不安やらなにやらで胃を痛ませようとしているのもまた事実。
そんな心情が思わず息を吐かせてしまったのだろう。
実際どちらの心情が強いのかは自分でも判断がつかない……いややっぱり浮かれてる方が強い気がする。
じゃなければ、この微妙な心中の浮遊感は説明出来ない気がする。
「……まぁ、ならいいけどよ」
それはもしかしたら表情にも少し洩れていたのかもしれない。
暁君は、それだけ、という自分の言葉にある程度は納得してくれたようだ。
……自分は淡白で表情もそんなには動かないつもりなのだが、そうでもないのだろうか、とたまに思うこの頃である。
「大丈夫ならいいがな、北杜じゃないが後味悪いのはごめんだぞ、おい」
「私がどうしたのよ」
このクラスの委員長である北杜志都美さんの名前、性格に言えば苗字が彼の口から出た直後、彼女本人が話しに入ってきた。
帰る準備をちょうど終えたところなのだろう、鞄を右手にぶら下げた状態で。
「いたのかよ」
「さっきからね。デートのお誘いって本当?」
「暁君にそうじゃないって言ったつもりだったけど……聞いてなかったの?」
「多奈河君の声、そこの人のでかい声の半分程度しか聞こえなかったわ。
しかし、ふむ。つまり……美人局?」
「「何故そうなる」」
「色恋のいの字もなさそうだった多奈河君が、女子と思しき誰かからメールで呼び出しなんて、そう思わない理由はないじゃない」
「俺が言うのもなんだが、お前、滅茶苦茶失礼な事言ってるな」
「いやー、その心配は自分もしたからなんとも間違ってるとは言いにくいなぁ。
そうじゃないんだけど。
相手の名誉の為に美人局じゃないと明確に否定させてもらうよ」
「じゃあなによ?」
「さっき暁君に言ったとおり。
不手際で起こったある問題が解決するまではその人に会い続ける事になってるんだ」
「貴方の不手際なの?」
「うん……いや」
『でも手間をかけてるのは私の方だってのは忘れないようにね』
そこで、三日前の彼女の言葉が、薄く浮かべていた笑みと共にぼんやりと浮かび上がる。
「自分と彼女の、半々、ってところかな」
だからなのか、なんとなく、そう言いたくなった。
いつもなら、自分の不手際、そう言いきっていたと思う。そのはずなのに。
「こんにちは、多奈河君」
既に店内にいた彼女は、帽子も眼鏡もつけていなかった。
どうやら、あの眼鏡は素顔を隠すための伊達であるらしい。あと帽子も。
コンタクトの可能性は否定できないが、少なくともあの眼鏡が伊達なのは間違いないだろう。
この間外した直後も特に視力的な意味で不都合な様子は見られなかったし。
「こんにちは」
「予定の時間より少し遅いわね」
「……バスの路線が少し混んでたんだ。ごめん」
実際には、二人と話していたから遅くなった、のかもしれないが。
混んでいた事も含めて原因がハッキリと決めきれないバランスなのがなんとも。
そんな事を考えてしまうくらいなら、さっさと話を切り上げなかった自分の情けなさやら罪悪感やらにうんざりする。
「私も今来たところだから、なんて言うのは定番かしら?」
「定番だね、うん。定番だけど、嫌いじゃないよ」
「私はちょっとだけ好きじゃないわね。正直に話せばいいじゃない。私は少し待ったわ」
「いや、自分から定番云々言い出しといてそれはないんじゃない?」
「ちょっと言ってみたかったのよ。
それはそれとして……貴方からの謝罪はいらないと思うけど。
混んでたから遅れたんでしょう?」
「え? いや、遅れて待たせたのは事実だし」
「……ふーん。ま、いいか。
とりあえずコーヒーを頼むでしょ? 今日はね、これがおすすめらしいわ」
「……ちょっと高いかなー」
「奢ってあげるわよ?」
「いや、流石に今回もとなると申し訳ないんで……次もオススメだったら、バイトの給料が入るからその時にするよ」
「ふむ。変な所意地張るのね、多奈河君。
そういう事なら奢らないで置いてあげる。
それはそうと、バイトってなにしてるの?」
いつの間にか近くに来ていたマスターに驚きつつ、前回と同じコーヒーを頼む。
「デパートの店員だよ。
品出しが基本だけど、忙しい時はレジに入ったりもする。
基本的には土日祝日の時だけかな」
「へぇ。忙しかったりする?」
「うん、結構ね。自分の出る時は、家族連れの買い物客が多いからてんやわんや」
「てんやわんやなんて言葉、実際に使ってる人はじめてみた気がするわ」
「……伝わりやすいから表現でよく使うんだよね」
「確かにあんまり日常的に使わない表現もそうやって使ってたら自然に出るものよね。
私もたまに大仰な言葉使いすぎじゃないか、って言われるわ。
……あ、ありがとマスター」
いつの間にか出されていたコーヒーに二人して御礼を告げる。
「じゃあ、まず……お礼は思いついた?」
「いや、そうそう思いつかないよ」
「そうよね、うん。じゃあ時間の無駄だから話を変えて……小説持って来てくれたのかしら?」
「……持ってきたよ、うん」
「あら、持ってこないかもしれないとも思ったけど……律儀ね」
「えっと、手書きのノートとデータの両方があるんだけど、どっちがいい?」
「今時手書きしてるの?」
「一回ノートに書いてみて、それを修正しつつデータに起こしてるんだ。
まぁ話の大筋には差はないけど、表現が違ってたり」
「じゃあ、両方頂戴」
「え?」
「そういうの、両方見てみたいじゃないの。
色々な企画の初期案と実際仕上がったものとの差異……そういうの面白かったりするしね」
「う、うん。それは、まぁ分かるけど。
じゃあ君がそういうのなら……」
「うん。両方いただくわ」
了解を受けて、自分は鞄から二つを取り出し、ノートの上にメモリを乗せて彼女に差し出した。
彼女は小さく頷いてから、どこかわざとらしい、少しだけ仰々しい恭しげな動作でそれを受け取る。
その際の、小さな笑みも含めて、彼女のユーモアなのだろう。
そういうのが自然に出来る辺り、同い年なのになぁ、と感心するばかりであった。
「でもそうなると……ここで少し読んでから話そうかとも思ったけど、ちょっと無理ね。
少しの間預かっていいかな? よかったら家に帰ってから読ませてもらうわ」
「うーん。なんか改めてそう言われると気恥ずかしいというか……」
「いずれ人に読ませるものなんでしょ。諦めなさい。ところでジャンルは?」
「それ今更で大丈夫? 人によっては苦手なジャンルとかあるんじゃない?」
「大丈夫よ。
私、創作物全般が好きだから。物語も、絵も、立体物も、歌も、ね。
で、ジャンルは?」
「所謂ライトノベルの……ファンタジーもの」
「ふうん? 結構流行ってる異世界転生もの?」
「詳しいね。
いや、生憎そうじゃなくて、その世界出身の人達の冒険活劇」
「おけおけ。理解したわ」
「……自分なりに読みやすく面白いものを書いたつもりだけど、分かり難かったりつまらなかったらごめんね」
「また謝る必要もないところで謝るー」
「え?」
「多奈河君、ちょっと謝りすぎよ。
別に貴方を取って食うわけじゃないんだから。
それとも取って食べるような口に見える?」
指を差し、大仰に唇を動かしながら笑う。
リップを塗っているのか、少し艶やかな、桃色をしていた。
……なんとなく少し落ち着かない気分になって、いや、うん、過剰に反応しすぎだ。
なので、意識して、普通に感想を口にする。
「うーん、流石に取って食うには小さな口かな」
「言っておいてなんだけどマジレスしなくても。あと、ほら、あー」
そこで彼女は大きく口を開いてみせた。先程までの口から想像できないほど大きく。
思わず先程同様に観察してしまったが、歯は真っ白で虫歯一つなく、綺麗で健康そうな口内であった。
「ね? もしかしたら食べられそうなじゃない?」
「……。無理でしょ。思ったよりは大きく開くなぁって感心したけど、それでも流石に」
「マジレスにマジレスを重ねてくるとか……中々に強者ね、多奈河君」
「えぇ……?」
「と、話が逸れたわね。
さておき、それに、貴方の小説がどうだったかは読んで判断するわ。
でも、つまらないならつまらない、詠み難いなら読み難い、はっきり言うからね、私は。
それでも、いいの?」
「……さっきの君の言葉どおりだと思う。
いずれ人に読ませるものなんだ。
いや、何度か応募してるから読んでもらってはいるけど……ともかく、覚悟するよ」
「そう。じゃあ、預かるわね。
ところで、実際に誰かに感想をもらった事はないわけ?」
「小説投稿サイトに投稿もしてるんだけど、一応、たまに感想を書いてくれる人が一人、かな。
……その人は、結構褒めてくれてたけど、他にはあんまり。
あと、時々ちょっとした反応があるかな」
「そう。
ふむ、少なくとも明確に一人には褒められてるのね。
凄いじゃない、多奈河君。ちゃんと人の心を動かせてるって事よね、うん」
「そう信じたいなぁ」
「そこはちゃんと信じなさい。
表現者たるもの、たった一人でも魅了できたのならその責任は取らないとだし」
「……うん」
「よろしい。
……まぁ、それは私が偉そうに言えた事じゃないかもだけどね」
一瞬、彼女の表情が翳った、ように見えた。
少なくとも先程までの彼女の顔からは違うものに見えた。
だけど、彼女はその事に触れる間も無く……触れようか触れまいか悩む隙も与えずに、話を切り替えていた。
更に言えば。
「じゃあ、今度は私が話題を提供しなきゃね。
うーん、そうねぇ。多奈河君、最近映画見た?
この辺りが話題としては妥当だと思うけど、その事も含めてどう?」
「映画は割と見に行くから、うん、知らない話題を振られるより助かるかな。
最近は……少し前に封切りされたばかりの、海外のコミックの実写化作品を見に行ったよ」
「ああ、あれね。私も宣で、ん、じゃなくて、見たわ。
なんか先行上映された海外の呟きをみると可愛いとか予想外の反応があってどういうこと?な感じだったけど……」
「見たら納得できるね、あれ」
「だよねー。うん、可愛いとしか言い様がないわ、うんうん」
そうして、切り替えられた話題が盛り上がったものだから、彼女の翳った表情については完全に打ち消されてしまう事となった。
ちなみに。
今日飲んだコーヒーが前回と違うと思ったら、今日のおすすめのものになっていた。
驚いて尋ねると、マスターは「サービスだから」と微笑んでくれた。
ダンディな声と気遣いに感動した自分は、次は高いコーヒーを頼まねば、と心を燃やしたのだった。
「それって良い鴨にされてるんじゃないの? いいのー? そ・れ・で」
「いいんだ、それはそれで。
なんであれ感動した事に対価を払うのは、大事な事だと思うから」
「……気が合うわね。私もそう思うわ」
そう呟く彼女はとても良い笑みを浮かべていた。
不敵なような、それでいて優しげにも見える。
だが、それはそれとして。
「……。じゃあなんで鴨とか言ったの?」
「それはそれ、これはこれ。会話のアクセントよ」
「そういうものかなぁ」
「そういうものよ」
と、店の前でちょっとした最後の会話を交わした後、自分達はそれぞれの家路に……彼女は家に帰るとは言ってなかったので、正確には家路とは限らないが……ついた。
そうして彼女がタクシー……毎回迎えに来てもらうわけにはいかないからと言っていた……に乗り込んで去っていった後、自分は商店街の方へと歩いていった
……その時だった。
「ちょっと、そこの男子」
急に聞きなれない声に呼び止められて、振り返る。
そこには、だらしなくシャツを着崩している、三十代頃の男性が立っていた。
背中に大き目のリュック、首にはカメラをぶら下げている。
なんというか、一昔前のスクープ記者のイメージそのままの人物だった。
「えっと、自分ですか?」
周囲に誰もないので、そうなのだろうと思いながら話しかける。
「そうそう、いかにも真面目ちゃんな君だよ、君。ああ、俺はこういうもの」
手渡されたのは名刺だった。『フリージャーナリスト 篠崎冬折』と書かれていた。
「えっと、その……何の用でしょう?」
「まぁそう警戒しなさんなって。別に君を取って食うようには……見えるか?」
「どうでしょう……」
「いや、冗談に真顔で答えるなよ……まぁいいや。
俺はさ、都落ちしたジャーナリストでね、最近この辺りに越してきて、仕方なくこの辺りでのネタを探してるんだ。
何か面白そうなネタとかない?」
「それをその辺りの男子高校生に尋ねられても……」
「いやーなんとなくね。君なら面白そうなネタ持ってるんじゃないかってピピッと」
じゃあ、それは駄目なレーダーですね、とは思っても口にするのは気の毒だったので言えない。
「生憎、そんなものはありません」
「そうなの?」
「そうです」
「そっかー」
「……そんなにネタが欲しいんですか?」
「そりゃあそうよ。
記者ってのは貪欲だからね。
飯の種になるのなら、どんなものでも穿り返すもんさ。例えそれが他人の心の奥でもな」
そう口にした瞬間だけ、彼の顔立ちが変わったように見えた。根本的なものがすげ変わったような、凄味を。
だけど、そう考えた次の瞬間には、彼の表情はよく言えば穏やかな、悪く言えばだらしがなさそうな、そんな形へと戻っていた。
「……貴方もそうなんですか?」
「基本的にそのつもりはないなぁ。そういうの恨み買うじゃん?
余程のネタなら話は別だけど、余程ってのは中々遭遇できないから余程なんだし。
だから、そうしないようにさ、何かネタない? ネタ」
「そういう事なら……この地域の事を取り上げてください」
「この地域?」
「身内の話になるんですけど自分の父が、この街を盛り上げるために、色々やってるんですよ」
この街は、少しずつ寂れつつある町だ。
生まれる若者は減っていくし、育った若者も少しだけ離れた都会へと出て行ってしまう。
父さんは生まれ育った町が寂れていくのは忍びないと、デパート周辺の町、引いてはこの街そのものを盛り上げようと色々企画しているらしい。
二ヵ月後には、大々的なイベントを準備しており、その成功のためにここ最近は夜も遅くまで動き回っている。
父さん曰く、この街も活気を取り戻すのなら、最終的には自分達も儲かるから、らしい。
何か盛り上げる為のアイデアがあったら話してみてくれ、と自分や佳憐にも話すほどなのだ。
「二ヵ月後には有名人なんかも呼んで、大きなイベントあるらしいんで、その紹介とか、街の事とかとりあげてくれたらありがたいです」
「へぇ。なるほどね。
ふむふむ、了解了解。売り込めそうな面白そうなネタがなかったら、それ、使わせてもらうよ」
同じような台詞でも、なにか、こうやはり彼女とは違うものだなぁと思った。
目の前の、今話しているこの人には申し訳ないのだが。
「……そんな顔しなさんな。書く時はちゃんと真面目に書くからさ」
「あ、いや、ごめんなさい。そんなつもりは……」
「気にすんなって若者。
君からすれば俺が胡散臭いのは百も承知。
そんな事で大人は傷ついたりしないのだよ、ほれ」
「そ、それならいいんですけど……とと」
会話の中軽く放り投げられた何かを慌てて受け取る。
掴んだ瞬間に冷たさを感じるソレは……買ったばかりなのだろう、缶コーラだった。
「それ、今日の取材費ね」
「ありがとう、ございます」
「また機会があったらネタの提供よろしくな。じゃ」
篠崎冬祈。
この時の彼の印象は、少し怪しいが根は悪くなさそうな大人、であった。
後々を考えれば……その評価は間違っていて、合っていた。
最終的に、彼をどう思う事になるかを知らず、自分は受け取った缶コーラをぼんやり眺めていた。
……続く。