一方通行の罠
私はフリーマンになった今何をすれば一番いいかを考え、考えているフリをし意味もなくただ漠然と寝ていた。
その時だ、まずベッドの上の灰皿がカタカタと揺れてきた。次にテレビが置いてある棚がガタガタとそこからは早かった。
今まで体験したことのない震動がベッドを突き上げる。
携帯からは地震警報が鳴り響いている。屋外からは子供の泣き声それをなだめる親の悲鳴めいた声が響く。
私はテレビを点け支払ったこのないNHKにチャンネルを合わせる。
テレビの先からも明らかに混乱したアナウンサーが使命の為かそこが安全かもわからないのに必死に避難警告を叫んでいる。
30秒ぐらい経っただろうか船酔いのような感覚に見あわれながらも外に出なければと私は直感しそばにあった携帯と財布タバコを持ち四足歩行で外にでた。
自分の家がどれ程脆いかを知らしめられた。
外に出てはじめて分かったのだが2階建ての木造アパートは外階段を中心に完全に傾き、私の思い出の詰まった101号室はもう半壊状態だった。
さて、ここからどうしようと考え、恐る恐る自宅に戻り靴を履き、2リットルのお茶を手に持ち一番近い避難所である小学校に歩き始めた。
依然として周りは騒がしく近所の野良猫はパニックになったのかぐるぐると同じところを走り回っていた。
2017年6月14日震度7モーメントマグニチュード8.9の巨大地震だった。
私は後悔をしていた。それは巨大地震の為に水、食料の確保をしていなかったからではなくただの娯楽として携帯を扱っていたことに激しく後悔をしていた。
携帯電話とは本来誰かと、それは気の合う友人だったり、激しく抱き合う恋人だったり、無償の愛を注ぎ続けてくれる両親などと連絡を取り合う一番簡単で効率的な端末なはずなのだ。
なのに私はなにをどこで狂ったのか電話をソーシャルゲームをする道具としか見ていなかったのだ。
小学校に着き、皆が携帯を耳に当てているのを横目に私は携帯とにらめっこをしていた。
画面の右上に赤く何とも弱々しく点滅する電池のマークの中には2%と刻み込まれていた。
こんな私にも気の合う友人は幾人かは存分する。
友人とは恋人と違い双方の気持ちなど無関係に完全に一方通行で成立するものなのだから否定される事はない。
私には友人が2人存在する。
これを少ないと笑う人もいるだろう、眉を寄せ心配する人も余計なお世話だがいるであろう。
ただそうしてくる人々を私は鼻でフッと音を立てながら笑うことができる。
私は友人だからといって何でも話せるや、語らずとも解るなどとオカルトめいた事は一切信用していない。
ごく普通に遊び、旅行に行き、嫌いな人の悪口をこれでもかというほどの仲である。
私は、私を笑ったり心配して下さる人に伺いたい、そんな関係の人を沢山作ってどうすると、遊べば遊ぶほどお金がかかり悪口の数が多くなり人として腐っていくのではないかと。
そうしたらこう答えるのであろう、悪口だけ言えるのが友人ではないと楽しい思い出を共有したり、同じ苦楽を味わってこその友人だと。
それは回数を重ねる毎に人としての感情を成長させるであろうと。私は鼻を広げブヒブヒと不快な音を立てながら笑うであろう。
教えてほしい、人として成長させてくれるという友人は何人いるかを10人なら私を笑うことができるのか怪しいものだ。100人ならあまりに薄っぺらい。
どうか不快に思わないで欲しい。
私は先程の友情論を詭弁と呼ばせて戴く。
ただ先にも書いた通り友人とは一方通行で成立するものだから100人いるというのなら、それは紛れもない友人である。
どうか不快に思わないで欲しい。
生まれつきなのか成長の過程なのかは定かではないが目が笑ってしまうのだ。