第6話 診察席
夜が明けてきた。時刻は午前7時。
由利はうたた寝をする陽乃を支えながら診察室の明かりが消えるのを待っていた。祥夫も落ち着かない様子で診察室の前をウロウロしている。
10分ほど経って、陽乃が目を覚ました。まだ夏樹が出てきた様子はない。
「まだ診察してるの?」
「そうね。ちょっと、時間がかかるみたい」
陽乃は立ち上がって診察室の前まで駆け寄った。ぼかしたガラスになっていて、中は見えないようになっている。中から医師と看護師が慌しく歩く音が5時半頃は聞こえていたが、今は落ち着いた様子だ。
(もうちょっとで中の音聞こえそうなのに……!)
陽乃がグイグイと耳をドアにくっつけた瞬間、ドアが開いて陽乃は中へ倒れこんだ。
「きゃあっ!」
「おっと、危ない」
中年の医師が陽乃を受け止めた。ナイスタイミングと心の中で陽乃は呟く。
医師の細い目がさらに細くなった。
「夏樹くんのお姉さんかな?」
「あっ、はい! そうです! 朝倉陽乃です!」
「陽乃ちゃん。もう、弟さんは大丈夫だよ。傍へ行ってあげて?」
「はい!」
陽乃は笑顔を顔中に浮かべて診察室の中へ駆け込んだ。
「夏樹くんのお父さん、お母さん。ちょっとよろしいですか?」
医師に呼ばれて二人の顔が少し強張る。
「診察室の奥へどうぞ」
陽乃は血まみれになった夏樹のパジャマの右袖を軽く握った。だいぶ落ち着いたようだ。スゥスゥと寝息を立てている。
「夏樹くん、ちょっと自分の血を見てビックリしちゃったのもあるみたいなの。意識を失ったのは病気のせいもあったけど、ビックリしすぎたのもあったのかもね」
「みうら えりこ」と書かれた名札を付けた看護師が陽乃に話しかけた。
「そうなんですか……。夏樹の病気、治ります?」
「えぇ、もちろん。すぐに治るわ。家へも帰れるし、学校にもいつもどおりすぐに通えるわよ」
「よかった。よかったね、夏樹」
夏樹の手がわずかに動いて陽乃の手を握り締めた。
「チョコレートアレルギー?」
聞いたことのない病名に由利は思わず聞き返してしまった。
「はい。ご存知ないかもしれませんが、よくいらっしゃるんですよ。発症時期はバレンタインデーに目立ちます。特に男性に集中するんですが。バレンタインデーで女性からチョコレートをもらって食べたら急に症状が出たと」
「なかじま よしお」と書かれた名札を付けた医師はしっかりと祥夫と由利の二人と向き合いながら話をした。
「でも、今まで夏樹はチョコを食べても何ともなかったのに……」
由利が戸惑った様子で今までのことを思い返す。夏樹はチョコレートケーキが大好きだ。今まで毎年誕生日にはチョコレートケーキを用意した。我が息子ながら女の子にも人気があるようで、今年のバレンタインデーには10個もチョコをもらって嬉しそうにしていた。
「今まで症状のなかった人でも急に出ることがあるんです。だから、過去に経験がなくて戸惑う人やチョコが原因と思う人もいないくらいですから」
「病気のこと、詳しく教えていただけますか?」
祥夫が心配そうに中島医師に聞いた。
「チョコレートアレルギー。お菓子の一つチョコレートを食べることによって起こるアレルギー症状を言います。チョコレートの原材料であるカカオからカカオアレルギー、カカオマスアレルギーとも呼ばれていますね。チョコレートおよびカカオ主原料食品には、チラミンと呼ばれる血管浮腫物質が含まれており、これに起因するとされています。また、カカオにはニッケルも含まれているため、これに対してアレルギー体質を持つ人は症状が出ます。症状は下痢、嘔吐、鼻血、腹痛、痙攣など様々です。今回夏樹くんは一気にこれらの症状が出たため、相当重い症状で彼も大変だったと思います」
「何か重大なことに繋がることはあるんですか?」
由利が最も聞きたいのはここだった。
「アナフィラキシーショックを起こす場合もあり、死亡例もあるため、症状のある人へのふざけ半分での対応は注意が必要です。アナフィラキシーの症状としては全身性のじんましんと喉頭浮腫、喘鳴、ショック、下痢、腹痛のうちどれかがあります。このアナフィラキシーショックは大変危険なので、今後夏樹くんはチョコレートの摂取は禁止してもらわないといけなくなりますね」
「治る見込みは?」
祥夫が聞く。
「かなり難しいと思われます」
それを聞いた途端、由利は持っていたカバンを落としてしまった。
「あの子……お菓子の中でもチョコレートが一番好きなのに」
診察席から、由利のすすり泣きの声が聞こえてくる。
「なんだろ……夏樹の病気、ひどいのかな」
陽乃は心配になって少し夏樹の傍を離れ、診察席の横にかかっているカーテン越しに両親と医師の話を聞いた。
「とりあえず、チョコレートアレルギーですからチョコレートそのもの、あるいはチョコレートを用いた製品は夏樹くんが食さないように気をつけてください」
(チョコレートアレルギー?)
聞いたこともない病気だ。陽乃は学校の保健の授業で少し、アレルギーについて勉強はしたことがあるし、期末テストにも出たので暗記した。しかし、チョコレートの「チ」の字もそのときは出てこなかった。
「チョコレートケーキはダメですか?」
由利が望みを託すように中島に聞いた。
「とんでもない」
中島は強い口調で答える。
「チョコチップクッキーも?」
「もちろん」
「ショートケーキに散りばめる飾りのチョコは?」
「お母さん。量の問題ではありません。今回、お姉さんの陽乃さんが救急車内で救急隊員にチョコレートの残っていた量を伝えてくれたそうなんですが、どれくらいだったかご存知ですか?」
由利は答えないが、首を横に振ったようだ。祥夫も「すみません、私は把握してないです」と返す。
「8等分できるチョコだったそうで、その8等分の1つだった。つまり、2センチ四方程度の小さな塊だったんです」
それを聞いて由利は固まってしまった。それだけで、たった2センチ四方のチョコレートで夏樹は鼻血を出し、嘔吐し、意識を失ったのだ。
「夏樹くんの場合、少量のチョコでもかなり危険な症状が出る可能性があるんです。だから、少しくらいと思わないで、絶対にチョコは食させないようにしてください」
「はい……わかりました」
明らかに由利の声が小さくなった。陽乃も、チョコレートは大好きだがこれから家では食べることはできないだろう。
由利と祥夫、中島の声はまだ続いていたが、陽乃は夏樹の傍へ戻った。
「姉ちゃ……ん?」
夏樹が薄目を開けた。
「夏樹! 気が付いた!? お姉ちゃんだよ!」
その声に中島や両親は夏樹の寝ているベッドへ駆け寄った。さきほどの三浦看護師も駆け寄る。
「夏樹くん。声は聞こえるかな?」
中島の問いに夏樹は小さくうなずいた。
「君から見て私の右隣にいる人は誰かわかる?」
「お……とうさん」
「左は?」
「おかあさん」
「お父さんの隣は?」
「姉ちゃん」
まだ声は弱々しいが、意識は回復したようだ。
「今日一日は入院して、様子を見ましょう。それからまた追々、今後のことは話し合っていく形でよろしいですか?」
中島の提案に由利と祥夫はとりあえずうなずくしかなかった。陽乃はまだどんな状況か把握できていない部分もあったが、夏樹の容態が安心になったことだけはわかった。
「よかったね、夏樹」
「あ……」
何か言おうとしている。陽乃は耳をそばだてた。
「え?」
「ありがとう」
夏樹は確かにハッキリ、そう言った。
「照れるな」
陽乃は恥ずかしそうに頬をかいた。
夏樹も少し恥ずかしそうに笑った。
夏樹の容態は安定したものの、症状は「チョコレートアレルギー」。夏樹の大好物が、食べられなくなる。これを説明しなければならない両親は少し、悩まなくてはいけなくなりました。




