第75話 二人きりの座席
翌日。
夏樹は一人で、火の見櫓の碑の前に来ていた。そして、そっと目を閉じる。
「……。」
あの日の光景が、まるで昨日のように思い出された。
――うん。ここ、俺の特別席だから
――特別席? なっちゃんの?
――じゃあ、私も知っちゃったから、今日から私の特別席にもしてほしいな〜なんてね
――だって、俺そのつもりで岡本をここへ連れて来たんだから
あのときから、きっと俺たちは心が通い合っていたんだ。夏樹はそう思うと、嬉しくて仕方がなかった。
――今日からここは、俺と岡本の特別席――二人きりの座席だよ
「あんな臭いセリフ、よく言ったなぁ」
夏樹は苦笑いした。
何がいけなかったんだろう。
どこですれ違ったんだろう。
俺は、君を愛することができた?
自信がなかった。
けれど、君は俺にいっぱい愛をくれてた。
そりゃあ病気で混乱してたことだってあったけど……それでも、俺を思い続けてくれていた。
じゃあ、俺はどうしたらいい?
明日香を思い続けることが、最善?
忘れることが、最善?
わからなかった。それに、明日香の死を受け入れない自分が、どこかにいたのかもしれない。
本当にそれは、彼女を思っていた?
自分から逃げていただけなんじゃないのか?
うっすら気づいてはいた。けれど、それを理解しようとする自分がいない。踏み出すことが、できない自分がいる。
俺はずっとこのままで行くんだろう。そう、夏樹は思っていた。しかし、それを変えさせた人物がいた。
佐野 綾音だった。
中学2年生のときに出会った。快活な少女で、それでいてどこか、弱い部分を持っている。この人なら、俺を変えてくれる。そうも思った。でも結局、踏み出せない自分がいる。やがて月日は過ぎ、高校3年生になった。
明日香はどこかで夏樹のことを想像できていたのだろうか。
もっと、前向きに生きよう。
これからの出会いに、感謝しよう。
これは、きっと、今の俺に対する言葉なんだ。夏樹はそう感じ取っていた。だったら、俺のするべきことはひとつ――。
「夏樹……えぇん?」
綾音が心配そうに夏樹の名前を呼んだ。
「いいんだ」
「でも、明日香さんとの……思い出なんやろ?」
「大丈夫」
「ホンマに?」
「あぁ。明日香との記憶は……こんな手紙や、写真がなくなったくらいで消えるもんじゃない」
「……。」
綾音はそっと夏樹のそばへ寄った。
「俺さ、明日香にいっぱい気づかせてもらった」
「……何を?」
「人を愛することの嬉しさ。悲しさ。辛さ。いろんなことがあった。友達を失くしかけたこともあったけど、ずっと明日香は傍で俺を支えてくれた。支えてくれる人の大切さ」
夏樹は空を見上げた。昨日まで降っていた雪は止んだが、重苦しい雰囲気をした雲はまだ残っている。
「明日香はいつでも前向きだった。病気になろうと、俺がイジメを受けて仲間はずれにされようと、ずっと前向き。強い人だった……」
「……。」
「俺さ、明日香のこと大切にするのは、明日香を忘れないことって思ってた。でも、今まで俺がやってきたことは……明日香を忘れないようにしていたんじゃないんだ」
「何やったん?」
「逃げてた」
ハッキリと夏樹は言った。
「逃げてたんだよ」
「……。」
「なんだろうな。明日香がもういないこと。それだけを受け入れればいいのに、受け入れられなかった」
「そんなん……簡単に受け入れられるもんちゃうやん」
「だよな。でも、明日香は最後までそれを受け入れようとしてたんじゃないのかな」
「どういうこと?」
「アイツさ……遅かれ早かれ、病気で死ぬ可能性が高かったらしい」
綾音は黙って夏樹の言葉を聞き続けた。
「それで、アイツは自分と病気のどちらが強いか、戦いに出たらしい。それが……」
「あの……自殺に勘違いされたことやったんやね?」
「うん」
夏樹がスッと立ち上がった。
「アイツは強い。もし、俺が小学校のときに起こしたチョコレートアレルギーで死んでたら……あるいは、それで死にそうになったとき、俺は明日香と同じことができたかな? そう、問うときがある」
「……。」
「きっと、無理だったと思うよ。でも……」
「!」
「今なら、できる」
夏樹は明日香からもらった手紙をビリッと勢いよく破った。
「あっ!」
綾音が慌てて風に舞い上げられた手紙の破片を拾おうとしたが、夏樹が止めた。
「頼む。俺のケジメなんだ。見ているだけで……いい」
「でも……」
「頼む」
夏樹は強い視線で綾音に訴えた。
「わかった……」
5分ほどかけて、夏樹は明日香からもらった手紙や二人が付き合っていた頃に写した写真などを破っていった。
「……。」
綾音が複雑そうな表情で見守る。
「綾音」
「え?」
夏樹が改めて、綾音の名前を呼んだ。
「これから……俺と一緒に、いてくれますか?」
「……。」
「ダメ?」
「……うぅん」
綾音は夏樹をギュッと抱きしめた。
頑張れ、なっちゃん――。
「え?」
夏樹はサッと後ろを見た。
「どうしたん?」
「……うぅん。なんでもない。行こうか」
そっと手を繋ぎ、夏樹は綾音と仲良く並んで歩き出した。
その夏樹の背中には、誰かが背中を押す感触が残っていた。
気のせいだったかもしれない。けれども、それは明日香のものだと夏樹は信じている。
前を向け!
その言葉を信じて、歩んでいく。
夏樹は心の中で明日香とそう、約束した。