第69話 今はもうない席
明日香の葬儀から3日が経った。
二人きりの座席だと言っていたあの火の見櫓は、明日香が旅立つのに合わせるかのように解体され、今はもう空き地になっている。周りを取り囲む木々だけが、ぽっかりと開いたその位置を示している。
5月9日(日)。夏樹は火の見櫓の前にあるベンチに座っていた。その右手には、明日香からの手紙が握られている。
夏樹はもう一度、その手紙を開いた。
大好きな、なっちゃんへ。
まず、はじめに。この手紙を読んでいるとき、私はきっともう、なっちゃんとはお別れしていると思います。ごめんなさい。きっと、なっちゃんのことだから、いっぱい泣いているかな。
私は、なんだろう。多分だけどね、なっちゃんにいっぱい迷わくかけた。
小学校の頃には……こんなこと書きたくないけど、なっちゃん、イジメ受けてた。元はといえば、あれは私が遠い原因だったと思う。
ごめんね。
それなのに、なっちゃんは私を全然、怒らないんだもん。我まんしてるんじゃないか。そう思うとこわくて、泣きそうだった。
わかってる。
ちょっとふっくらしたね。
あんなの、大したことない言葉なのに。私、真に受けた。なっちゃんにも、お姉さんにも、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、圭太にも辛い思いさせた。速水くん、片岡さん。私の顔なんて知らないのに、会いに来てくれた。うれしかった。
でも、これ以上なっちゃんに辛い思いさせたくない。私、そう思ったの。
わかってる。
なっちゃんは私に近寄らないで、別れてっていっても、きっと毎日でも私に会いに来る。でもダメだよ? 私になっちゃんのすべてを注ぐなんてダメ。
なっちゃんにはなっちゃんの生活があると思う。
私一人だけのために、頑張らないで。
これは私のケジメです。私は私で、頑張ろうと思うの。
もう一度……生まれ変わったら、なっちゃんと仲良くなりたいです。
ゴメンね。最後までわがまま。でも、許してください。
最後に。
なっちゃんと両想いになれて、嬉しかったです。
大好きです。
岡本 明日香
「バーカ……」
グシャッと握られた手紙が音を立てた。
「いっつもそうだよ。明日香、自分ばっかりで頑張ろうとするんだもん……」
涙が溢れ出て、夏樹の頬を次々と濡らしていく。
「俺だって……ずっと大好きだよ……明日香……」
雨が降り出した。夏樹はそれでもなお、その場から動こうとしない。手紙が雨粒に濡れ始めたときだった。不意に、雨が止んだ。
「……?」
「こんな雨の中、なにやってんの?」
「……あの……ありがとうございます」
夏樹はタオルで髪の毛を拭きながら、その少年に言う。
「いやいや、いいんだよ。それより君……会ったことあるよね?」
「え?」
夏樹には覚えがない。少年は記憶を手繰り寄せているようだった。
「確か……図書館行くバスでおばあちゃんに席譲ってって、女子高生に言ってたよね?」
「あ……ご存知ですか?」
5年生のときだ。ずいぶん前のことなのに、この人は夏樹のことを覚えていたのだ。
「うん。僕の友達が君のこと、スゴい褒めてたし僕も君のこと、印象に残ったからね」
「ありがとうございます」
夏樹は少し恥ずかしくなった。
「あ、そうだ。僕の名前言ってなかったよね。僕、高橋 良輔っていいます。葉島中学3年です」
「朝倉夏樹です。よろしくお願いします」
「朝倉……? ひょっとして、朝倉陽乃さんの?」
「あ、はい。陽乃は俺の姉です」
「そっか……。僕ね、お姉さんと同じクラスで……よく君のこと、相談受けてた」
「そうなんですか?」
「うん……」
それっきり、良輔は喋らなくなった。おそらく、明日香の件は知っているのだろう。夏樹は念のため、聞いてみた。
「知ってますか?」
「……最近のこと?」
その言葉だけで十分わかる。彼は確実に、明日香と夏樹のことを知っているだろう。
「すいません。姉ちゃん、そんなに話してましたか……」
「ううん。僕も彼女のお葬式には参加したから」
ということは、夏樹のあの行為もすべて見られていたわけだ。それにもかかわらず、良輔は自分を家へと連れて行ってくれたのだ。
「……。」
「ねぇ」
良輔が突然、夏樹の肩を叩いた。
「はい?」
「ちょっと見てほしいものがある」
「何ですか?」
「持ってくるから……待ってて」
良輔は自室へと入っていく。お母さんが温かい紅茶を出してくれた。夏樹は「ありがとうございます。いただきます」と言ってティーカップに入った紅茶をすすった。
「ゴメン。お待たせ」
そう言って戻ってきた良輔が手にしているのは、一枚の紙。
「これね、葉島中学の部活入部届け」
「はぁ……」
「見てみて」
夏樹はその紙を開いてから、ハッと息を呑んだ。
葉島中学校サッカー部 入部届け 2004年4月5日
サッカー経験:なし
ポジション:マネージャー希望
1年1組 岡本明日香
「これ……は?」
「彼女ね。病気が治ったらサッカー部でマネージャーしたいって言ってた」
「そう……なんですか」
「……病気なのに、前向きだよね」
「はい……」
しばらく沈黙が続いた。そして、良輔がそれを破った。
「サッカー、やってみない?」
「でも、俺、経験ないですよ?」
「中学ならまだまだ追いつけるよ。頑張ってみない?」
「……。」
不安だった。でも、明日香はもっと不安な病気と前向きに闘い、いろんなことに挑戦していたのだ。もちろん、あの自殺が前向きだったなんて今も思ってはいない。しかし、きっと明日香ならこんなに落ち込んだ自分を見ているのは、嫌がるだろう。
「俺……やります」
夏樹は力強く返事をした。
「……よし! よろしくな、夏樹くん!」
良輔の大きな手が、夏樹の少し色白の手を包み込んだ。
「ん……」
目を覚ますと陽乃、綾音、翔、由利、ちひろ、恭輔の顔が目の前にあった。
「良かった……!」
由利がギュッと夏樹を抱きしめた。綾音と翔が関西弁で「ホンマに良かった……」と笑っている。ちひろと恭輔は涙ぐんでいるようだった。
「夏樹……」
陽乃が耳元で囁いた。
「後で、あたしのところに一人で来て」
夏樹は小さくうなずいた。
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