第5話 寝台席
春休みが終わってから1ヶ月近く経った。今日は5月5日。ゴールデンウィークも最終日となった。
このゴールデンウィーク中の前半、1日から3日までは2泊3日で秋田のほうへ行ったけれども、結局明日香に会うことはなかった。外を出歩いたときにも、駅のホームでも、新幹線の車内でも気づけばどこかに明日香がいないかどうか確認している自分がいて、夏樹はこれほど明日香のことを意識しているとは夢にも思っていなかった。
4日は登戸のほうへ陽乃と出かけた。最終日だけはゆっくりしようということで、何も予定を入れていない。なので、グッスリ眠れる――はずだった。
「まだ4時かぁ……」
しかし、眠れない。
眠気はあるのだが、さっきから体が変なのだ。
「痛い……なんでだろ。食べ過ぎたかな」
腹痛がする。もう30分くらいだ。30分前から続いている腹痛は、初めは鈍い痛みだったが、次第にズキンズキンと全身に響くような痛みへと変わってきている。
「っつ……! 痛っ……や、やばいかな……」
由利を起こしてこの症状を訴えるべきか、夏樹はしばらく迷った。陽乃を起こしてもかまわないと思ったが、よく考えれば部屋を分けてしまったので隣にはいない。
「トイレ行っておこう」
起きた瞬間だった。
鼻から何かが垂れてきた。
「うぉ! 鼻水!?」
夏樹は慌ててティッシュを探して鼻に当てた。
「風邪ひいたかなぁ……」
秋田へ行ったときはけっこう気温差があって陽乃と二人して「寒い! 寒い!」と騒いだ。ひょっとしたら、薄着のせいで風邪を引いたのかもしれない。
どんどん鼻水が出てくる。ティッシュを箱ごと持っていく必要があるかもしれない。夏樹は電気を点けてティッシュを探そうと思い、電灯の紐を引っ張った。
「え……」
手が血まみれになっている。
「な、なんで?」
よく見れば、布団も真っ赤に染まっている。さっき取りに行ったティッシュケースも、パジャマも何もかも自分が触ったものが血まみれになっていた。
「あ……鼻血……」
鼻血が大量に出ていた。わけがわからない。
「うぇっ……ウグッ!」
急に吐き気がしてきた。夏樹は自分の体に突然起きた変調に戸惑うばかりで、どうしていいかわからない。
一刻も早くトイレへ。
夏樹はただただ必死に2階の置くにあるトイレへと駆け込もうとして、足がもつれて転んでしまった。
転んだのが衝撃となってこらえ切れず、もどしてしまった。
「ゲホッ……ゲホッ、ゲホゲホゴホッ!」
苦しい。
おかしい。
なんで急にこんなことになったのかさっぱりわからない。
「ゼェ……ゼェ……ゼェ……」
動けない。
「だ……れか。お母さん……お父さん……」
陽乃の部屋がすぐそこだ。
夏樹は必死にはいずって陽乃の部屋へと向かった。鼻血が止まらない。もう、廊下もトイレの前も夏樹の鼻血で赤くなっているところばかりだった。
「ね、え、ちゃ……ん……」
意識が朦朧としてくる。
(死ぬの……? 俺、死んじゃうの……)
「ね……ちゃ……」
陽乃はふと目が覚めた。
何かが倒れるような音がした。
「んん……。また夏樹が冷蔵庫まで何か取りに行ってきたなぁ」
夏樹は最近、夜中にお腹が減ったと言っては冷蔵庫からチョコレートやら果物などを取り出して勝手に食べている。由利や祥夫から何度も叱られているのにやめようとしない。なので、今まで見て見ぬフリをしていた陽乃もそれを見たら止めるように言われていたのだ。
ドアを開けて夏樹がいるかどうかを確認する。
廊下の中央に、夏樹らしい人影が倒れている。陽乃が突然出てきたのに驚いて、寝たフリでもしているのだろう。
「夏樹〜、アンタまた勝手に食べ物……キャッ!?」
床に何かヌルヌルしたものがこぼれていて、陽乃は滑って転んでしまった。
「痛〜い……何よこれ。夏樹、アンタ何かこぼしたんじゃ……?」
夏樹のほうから荒い息の音が聞こえてくる。
「夏樹?」
ゼェ、ゼェ、ゼェ――。
「ど、どうしたの? 電気、点けるよ」
陽乃は電気を点けて、目を疑った。
真っ赤に染まった夏樹の鼻周り。廊下。パジャマ。夏樹の手。トイレの少し手前には、嘔吐した後がある。
「な、なつきぃ! 夏樹ぃっ!」
陽乃は半狂乱になって悲鳴を上げた。夏樹はトロンとした目を開けて「ね……ぇ……ちゃ」と言ってまた嘔吐した。
「いやあああ! 夏樹、夏樹、夏樹!」
その声に驚いた由利と祥夫も目を覚まし、2階へと上がってきて絶句した。
血まみれになった夏樹を抱く陽乃。至るところが血で染まっている。
「お母さん! お父さん! 夏樹が……夏樹がぁ!」
陽乃は二人の姿を確認すると、一気に泣き出した。
「由利! 救急車だ、救急車を呼んできなさい!」
祥夫が由利に携帯電話を手渡した。さすが会社人間だけあって、寝るときにまで携帯電話を所持している。しかし、それが役立つことを陽乃はここに来て感動した。
「は、はい!」
由利が携帯電話を受け取って119番を押す。
「夏樹! 夏樹! 聞こえるか、お父さんだ。しっかりしなさい。何があったんだ?」
「わか……ない。きゅ……に、おなか痛くな……て……トイ……レ行く前……に」
「こうなったんだな? そうだな?」
夏樹は小さくうなずいた。
陽乃はどうしていいかわからず、とりあえず夏樹の部屋からティッシュを取り出して鼻血を止めようと思い、彼の部屋に入った。
部屋を出る前に、ゴミ箱にチョコレートの袋が捨ててあるのを見つけた。
「夏樹。ちょっと聞いていい?」
陽乃がゴミ箱から袋を取り出した。驚いた顔をする夏樹。
「アンタ、また勝手に食べたでしょう?」
「……。」
夏樹は答えようとしない。祥夫が続けた。
「怒らないから、答えなさい」
「た……べた」
祥夫の顔が強張る。けれども、それは怒っている顔ではなかった。
「陽乃」
「はい」
「父さんの部屋にある本棚の上から二段目の右端に『アレルギー全辞典』っていう分厚い本がある。それを取ってきてくれ」
陽乃は慌てて階下に下りてすぐにその本を取り、戻ってきた。
「お父さん! コレ!」
「そうだ。ありがとう。陽乃、夏樹の手を握ってやりなさい」
陽乃は言われたまま、手を握り締めた。小さく震えている。
「ね……ちゃん」
声も震えている。
「なに?」
「こ……」
「え?」
「こ……わ……いよ」
陽乃はギュッと夏樹を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫。みんなついてるから。心配しないで」
祥夫は本を読み終えたようで、すぐにそれを傍へ置いた。
「……アレルギーかもしれんな」
バタバタと由利が戻ってきた。
「あなた! 救急車、5分後に来てくれるって! 七海市救急医療センターまで行くそうだから、すぐに着替えましょう!」
「よし! わかった!」
陽乃はずっと夏樹を抱いたまま、動かない。
「陽乃。しばらく、傍にいてやってくれるか?」
「うん。うん」
「お前は、その格好のままでいいのか?」
パジャマが血だらけになっている。確かにこのまま病院へ行けばかなり奇妙だが、今は夏樹の傍に少しでも長くいてあげたい。
「かまわない」
「わかった。何か異変があったら、すぐに大声で父さんたちを呼びなさい。いいね?」
「わかった」
祥夫もすぐに部屋に戻り、保険証と免許証、夏樹の母子手帳を取り出した。
5分もしないうちに救急車が到着した。
それまで座席だった部分があっという間に寝台席に変わる。その間に担架に乗せられた夏樹が運ばれ、救急隊員が陽乃たちに乗るように促した。
すぐに救急車が動き出す。動くと同時に夏樹がまた激しくもどしはじめた。
「お父さん、お子さんは何か今までにアレルギーはお持ちでしたか?」
「いえ、今まではなかったんです。ただ、最近夜中に私たちの目を盗んで冷蔵庫の中のものを食べたりする変なクセがついていたようで……。注意はしていたんですが、何分夜中で目が行き届かず……」
「夜中だと、仕方ない部分が大きいです。そう責めないで。それより、今日お子さんは……お名前はいいですか?」
「夏樹です」
「夏樹くんは今日なにを食べたんですか?」
「これです」
陽乃がパジャマのポケットからチョコレートの袋を取り出した。
「ありがとう。お姉ちゃんかな?」
「はい」
「弟さん、すぐに良くなるから。心配しないで傍にいて手を繋いであげて」
「はい」
陽乃は言われる前からずっと、夏樹と手を繋いでいた。
「チョコレートアレルギー……かもしれません」
救急車が七海市救急医療センターに到着した。担架からそのまま寝台車に夏樹が移送される。
「食物アレルギーの11歳のアサクラナツキくんです! チョコレートを食した後、腹痛、嘔吐、鼻血、喘息などの症状が出ています!」
救急隊員の言葉を聞いてすぐに若い医師が寝台車の傍へ看護師数名と駆け寄った。
「夏樹くん! 夏樹くん! 聞こえるかな!?」
夏樹は小さくうなずいだ。
「今から、診察室入るから、もう少しだよ!」
「……うん」
夏樹は意識が朦朧としながらも、由利や祥夫、陽乃の姿を確認して胸をなでおろした。みんながいてくれれば心強い。
吸い込まれるように夏樹は診察室へと入っていった。
「お父さん……」
血だらけになった手とパジャマを呆然と見つめたまま、陽乃が泣きながら言った。
「夏樹……平気だよね? 大丈夫だよね?」
祥夫はギュッと陽乃を抱きしめた。
「大丈夫に決まってるだろう」
時刻は、午前5時半を過ぎたところだった。
突如、夏樹を襲った病魔。チョコレートとアレルギーに因果性は見られるのか。そして、夏樹の容態は……。




