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第65話 再着席

「そろそろかな……」

 明日香は病室で夏樹が来るのを心待ちにしていた。時間は現在、午後9時5分。入院している入江総合病院は午後9時ちょうどに消灯する。そのため、いったん電気が消えれば人影などはなかなか目に入りにくい状態となっていた。特に、市内でも2番目に古い総合病院だからなおさらその傾向は顕著だった。

 コンコン、と窓を叩く音がして振り向いた明日香の顔に、満面の笑みが浮かんだ。

「なっちゃん!」

「静かに! 靴はある?」

「うん。ちゃんとお母さんに持ってきてもらった」

「変に思われなかった?」

「全然! むしろ、散歩したいっていう理由にしたら、スッゴい喜んでくれたんだよ」

 明日香が笑顔で話す姿を見て、夏樹は少しずつ病状が良くなっているんだな、と感じた。以前の明日香に近い姿になってきている。

「じゃあ行こうか。まだ少し冷えるから、これ着なよ」

 夏樹はそう言ってキャンペーンで当てた上着を明日香に着せた。

「ちょっと大きいや」

「あ〜……。俺、最近6センチ身長伸びて服のサイズちょっと大きくしたから」

「そうなんだ〜! 成長期だね」

 明日香は嬉しそうに今しがた、夏樹が来ていた上着を羽織った。

(なっちゃんの匂いがする……)

「なに笑ってんの?」

「ううん! なんでもない。それより、行こう?」

「うん!」

 明日香と夏樹は手を繋いで裏庭を歩き出した。さすがに入口はまだ明るいが、人気はほとんどない。七海市の外れにあるというのも影響しているだろう。

「ちょっと走るけど、いい?」

「大丈夫。こう見えても結構元気なんだから」

「了解」

 夏樹はクスッと笑うと明日香の右手を引いて走り出した。病院から離れれば、問題ないのだから。

 1分ほど走って、病院の西側にある交差点に到着した。ここまで来れば、問題はない。

「そういえばさ、今日、おうちの人になんて言って来たの?」

「なんて言ったと思う?」

「う〜ん……」

 明日香はしばらく考えて、何度か夏樹の顔を見ているうちにその表情がなんとなく語るものを察知してこう答えた。

「黙って出てきたでしょ」

「うわぁ〜……さすが明日香だな」

 夏樹は目を細めて言った。どちらかというと、苦笑いだ。

「ダメじゃない! ちゃんと言って出てこないと」

「なんていうんだよ? 岡本さんを、外へ連れ出しますなんてまさか言えないし」

「でも何か言ってくれば怪しがられないのに」

「言ったほうが変だよ。普段出歩かないんだから、俺は」

「それもそうだね」

 明日香はクスクスと笑う。本当に久しぶりだった。こうして並んで歩くのは。

「着いたよ。疲れてない?」

 明日香は少し息を荒くしていたが「平気! 運動不足なだけ」と笑顔で答えた。夏樹はゆっくりと明日香の手を引いて火の見櫓のほうへと連れて行く。

「ここさ……もうすぐ、取り壊しするんだって」

 不意に夏樹が寂しそうな声で呟いた。

「うそ」

「ホント。見ろよ、この柱。結構ボロだろ? だから危ないってことで、取り壊しだって」

「そんな……」

 そう。取り壊されるのは、明日香と夏樹だけの座席(ばしょ)――火の見櫓だった。柱に近くにある説明版には「昭和23年8月9日竣工」の字が見えた。相当古いのだ。

「それで、そろそろ立入が禁止になるって聞いて、俺、絶対明日香をそうなる前に連れてこようって考えてた。取り壊しは来週の今日。だから……もう、連れてこようって決めたんだ」

「そっか……」

 こればかりは仕方がなかった。取り壊しは決まったこと。どれだけ大切な場所だろうと、いずれ形あるものはなくなるのだから。

「見てよ! あれが葉島中学校!」

 暗闇の中で体育館だけ電気が点いている。夜間貸し出しが行われているため、ママさんバレーなどが行われているのだ。

「うわぁ〜! ねぇ、私も病気治したら、なっちゃんと毎日あそこに通えるんだよね?」

「そうだよ! だから、明日香も頑張って病気治してくれよ?」

「もちろん!」

 二人は顔を見合わせる。ふと、沈黙が続いた。

「……。」

 夏樹はそっと目を閉じた。そして、明日香を抱き寄せ、顔を近づける。明日香もその行為が何を意味するのか理解したようで、そっと目を閉じた。

 夏樹の唇に、やわらかい明日香の唇が重なる。その瞬間、何も聞こえなくなった。聞こえるのは、自分の心臓の鼓動だけだ。

「……。」

「……えへへ」

 夏樹は恥ずかしさをごまかすため、思わず笑ってしまった。

「ありがと……」

 明日香が夏樹の胸に、顔を寄せる。少し冷たい風が吹いていたが、夏樹にはちっともそんな寒さが感じられなかった。

「ん?」

 下から誰かがすごい勢いで階段を上がってくる。足音は複数あるようだ。

「誰か来る……」

「ヤバい! 神社の人かも」

「隠れる?」

「隠れる場所がない……ワッ!?」

 パッ、と明日香と夏樹を懐中電灯が照らし出した。

「こんなところにいたぞ! 声がすると思ったら……なんてことをしてるんだ!」

「あ……」

 それは紛れもなく父・祥夫の声だった。

「と、父さ……」

 夏樹が言い終わる前に、祥夫は夏樹の頬を思い切り平手打ちした。乾いた音が響き渡る。

「きゃあ! な、なっちゃん!」

「バカが! 人様の娘さんを……病院から勝手に連れ出して! どれだけ大変なことをしたのか、わかってるのか!?」

 祥夫は見境なく夏樹の頬を何度も平手打ちする。

「やめて! おじさん、やめてください!」

 明日香が必死に止めようとするが、祥夫はやめることなく何度も平手打ちを夏樹に喰らわせた。夏樹が「ごめんなさい! ごめんなさい! 父さん、痛い! 痛いぃ!」と悲鳴を上げるが、それを無視している。

「朝倉さん! いくらなんでもやりすぎですよ! やめてあげてください!」

 玲子が無理やり祥夫を止めて、そこでようやく夏樹は解放された。

「夏樹!」

 陽乃と由利が花那や圭太と同時に姿を現した。

「姉ちゃん!」

 夏樹はすっかりおびえきった様子で陽乃に抱きついた。ガクガクと震えて、顔色があまりにも悪い。

「陽乃! 夏樹を放しなさい。まだ話が済んでいない」

「やめましょうよ、あなた! とりあえず明日香ちゃんを病院へ帰してあげないと……」

「いいや! 今すぐここで明日香ちゃんとご両親に謝りなさい! 何をしたのか、どれだけ悪いことをしたのかわかっているはずだ! 夏樹! 来なさい!」

 祥夫が強引に夏樹の襟を引っ張った。首が絞まりそうになる。そんな状態の夏樹の脳裏に、敬吾や恭輔、ちひろの顔が浮かんだ。

「ウッ……」

 祥夫を見上げると、そのときの記憶が鮮明に蘇った。

「ウゲエエエエエエッ!」

「!?」

 夏樹が顔を真っ青にして突然、嘔吐した。

「ゲェェッ! ゲホッ、ウエエッ! ゲホゴホゴホゴボゴボ!」

「キャーッ!」

 夏樹は嘔吐した場所にそのまま倒れこむ。花那と陽乃が同時に悲鳴を上げた。

「夏樹ぃ!」

 由利が慌てて夏樹を抱き起こした。

「ゴメンなさい、ゴメンなさい! もうしません、もうしません、もうしません、許してください許してください許してください許してください」

「夏樹! 大丈夫よ、お母さんよ。落ち着いて、落ち着いて……」

「……。」

 しばらくすると、夏樹はスゥスゥと寝息を立て始めた。

「……申し訳ありませんでした」

 祥夫が土下座をして明日香や玲子、登に謝罪した。

「朝倉さん、ウチの子はピンピンしてますから、そんなことなさらずに」

 登がなんと言おうと、祥夫は顔を上げようとしなかった。代わりに、夏樹が聞いてイナイのにもかかわらず、低い声でこう言ったのだ。

「もう、二度と息子を明日香さんに会わせることがないように……しますので」

「そ、そこまでなさらなくても」

 玲子もかなり戸惑っている。しかし、祥夫の意志は強かった。

「いいえ。夏樹には厳しく言っておきます。本当に、申し訳ありませんでした」


 帰り道。由利は夏樹を背負ったまま、複雑な表情で祥夫の背中を見つめていた。

「あなた……」

「何だ?」

「本気なの?」

「あぁ」

「でも、明日香ちゃんいま病気でしょ? 夏樹のような、友人の支えが必要なの」

「それが人様の娘を勝手に連れ出すような友人でもか!?」

「そ、それは……」

 由利も言葉に詰まってしまった。陽乃は何も言えず、二人のずっと後ろを歩いていた。

「とにかく、もう会わせるようなことはしない。私から明日、ちゃんと夏樹に伝えるから」

「……わかりました」

 由利は小さく答えた。陽乃は寂しそうに眠る夏樹の顔をただ、見つめることしかできなかった。

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