第64話 日向の席
「こんにちは〜」
翌日、夏樹が明日香の病室に入るとベッドはもぬけの殻だった。
「あれ?」
驚いて夏樹は周囲を見渡すが、明日香の姿はない。すると、看護師さんがやってきて夏樹に声をかけた。
「あら、夏樹くん。こんにちは」
「あ、こんにちは! あの……岡本さんは?」
「あぁ、今日はちょっと検査でね。あと30分ほどしたら戻ると思うわ」
「そうなんですか。わかりました」
看護師さんはそれだけ説明すると、すぐに別の部屋へ巡回に向かった。夏樹は病室の奥にある明日香のベッドの横に置かれた椅子に座った。明日香の病室は日当たりが良く、春の日差しがサンサンと降り注いでいる。暖かくて気持ちいい。窓際に顔を乗せて、ボーッと外を見つめる。
「あーあ。明日香が元気だったら……外へ行って遊ぶのになぁ」
しかし、明日香をここまで追い込んだのは自分だと夏樹は確信していたので、そういうことを考えるたびに胸が痛む。
「ゴメンな……明日香」
夏樹は日差しをジーッと見つめながらそう呟いた。
「……あれ?」
どれくらい時間が経ったのか、夏樹はふと目を覚ました。
「あれ? ヤバい! いま何時だ!?」
夏樹が腕時計を見ると、既に時計は5時半を指していた。この病院の面会時間は午後5時までなのにも関わらず、夏樹はまだ病室に残っている。間違いなく違反なのだ。
「うえっ!?」
隣を見ると、同じような姿勢で眠っている明日香がいた。
「うわわわ! い、いつのまに……っていうか、あぁ! いつのまに帰ってきてんだよ!」
夏樹がワタワタと焦っていると、音に気づいて明日香が目を覚ました。
「あぁ……おはよ〜、なっちゃん」
これほど落ち着いた様子の明日香を見るのは久しぶりだった。かなり痩せているが、それでもカワイイものはカワイイ。夏樹は思わずジッと明日香を見つめてしまった。
「どうしたの?」
「うっ、ううん! なんでもな……」
突然明日香がグイッと夏樹の腕を引っ張った。
「え? 何、どうしたの?」
ギューッと夏樹の腕に顔を寄せる明日香。夏樹は真っ赤になって取り乱してしまった。
「わーわわわわ、ちょ、ホントどしたの明日香!?」
「久しぶりだよね〜、なっちゃんと二人きりでいるの」
「……。」
明日香の一言に、ようやく夏樹も気づいた。こんなに落ち着いた時間を送るのは、本当に久しぶりだったのだ。
「そうだな……。どれくらいだろう?」
「もう忘れちゃった」
夏樹も正確には覚えていない。かなり長い時間が過ぎたように思う。
「あの場所にも……長い間行ってないね」
「うん……」
二人きりの座席。明日香が入院してから、ずっと行けていない。夏樹も明日香と一緒でないと、あの場所へは足が向かなかった。
「ゴメンね」
急に明日香が震える声でそう言った。夏樹は驚いて明日香のほうを見る。明日香は夏樹と目を合わせずに続けた。
「私……本当になっちゃんにヒドいことしてる」
「……そんなことないよ」
すぐに違うと答えられなかった自分に嫌気が差した。しかし、明日香は気にせず続ける。
「胸……昨日、お盆ぶつけちゃて本当にゴメン」
「あんなの平気だよ! 全然問題な……」
バッと明日香が夏樹の制服をめくり上げた。お盆をぶつけられた場所が青く痣になって残っている。
「ウソつき……」
「……ゴメン」
沈黙が降りた。時計の秒針が二人の耳に小さく聞こえる。
「あーあ。何やってんだろ、私」
ゴロンと明日香は寝転がった。夕陽が明日香の寝るベッドに差し込み、明日香の顔がオレンジ色に染まる。
「せっかくの中学校生活、ちーっとも満喫できてない!」
「……。」
「なんだっけ? 野外学習?」
「あぁ、宿泊訓練だろ?」
「そう、それ! 私も行きたかったな〜。そしたら友達だっていっぱいできたのに」
「そうかな〜。俺、あんまりできなかったよ」
「それはなっちゃんがおとなしいからだよ。もっと動き回ればいいのに」
「初対面の人ばっかなのに、はっちゃけたりするのは俺には無理だ」
「なっちゃんらしい」
明日香はククッと笑った。こうして落ち着いていれば、何ら今までと変わらない明日香の姿がある。
「ね! 葉島中学校ってさ、今度6月に文化祭あるんでしょ?」
「あ〜、そんなこと言ってたっけな」
「その頃には、病気治して絶対行くようにするよ!」
「ホントか!?」
夏樹はついつい嬉しくなって、面会時間が過ぎていることも忘れて大声を出してしまった。
「シーッ!」
「あ……ゴメンゴメン」
明日香は人差し指を夏樹の口元に当てた。
「バレたら怒られちゃうから」
夏樹は苦笑いして明日香の指をそっと放した。冷静を装っているが、実は心臓がバクバク鳴っている。
(なんで急に唇に……)
「あーあ。でも、長い間外に出てないもんな〜。平気で出られるなっちゃんが羨ましい」
春になっているのに、未だに病室から出られない明日香。せいぜい、院内にある中庭で散歩できるくらいだといつか聞いた。
「……!」
夏樹の頭にふと、考えが浮かんだ。
「明日香明日香! 耳貸して……」
「なに?」
「いいコトいいコト。あのな……」
夏樹は顔が赤くなりそうになるのを我慢しながら、明日香に耳打ちした。
「大丈夫なの?」
「平気だよ。俺がうまくするから」
「嬉しい! 楽しみにしてるね!」
「うん!」
夏樹はこのとき、純粋に明日香を喜ばせたいだけだった。それが、あんなことになるとは思ってもみなかったのだ。