第59話 見てはいけない席
「……。」
夏樹が目を覚ますと、見慣れた天井が目に映った。ここは洋間だ。
「……そっか。俺、帰ってきたんだ」
下からは、久しぶりに聞く両親と陽乃の声が聞こえる。蝉が盛大に鳴いていて、少し耳障りな感じがする。夏樹は布団から出て、とりあえずパジャマから着替えた。部屋を出て階段を降りる。あの時の血痕はようやく廊下から消えた。けれど、チョコレートは相変わらず食べられないままだ。むしろ、見ると気分が悪くなる。
「考えないでおこう」
チョコレートのことを考えるだけで気分が悪くなる。ギシギシと音がしない階段を降りて、リビングに入った。
「あっ、おっはよ、夏樹!」
真っ先に声をかけてくれたのは、やはり陽乃だった。
「おはよう」
なるべく普通に振舞おうと意識してしまう。自分の家なのに、そんな感じがいまひとつしないような感覚。夏樹はこの感覚が何なのか、よくわからなかった。
「おはよ、夏樹」
由利が笑顔で夏樹に挨拶をする。
「おは……よう」
一瞬声が詰まったが、なんとか挨拶できた。
「ご飯にする? それともパン?」
「お母さん。夏樹はいつもパンだよ?」
「あ……そうだったわね」
由利が夏樹の朝食がいつも何だったか忘れるくらい、自分は家を空けていたのだと考えさせられる。それ以外に、夏樹が留守中に最も変わったことがあった。
「おや、おはよう夏樹」
それは、祥夫の母、夏樹にとって父方祖母にあたる知恵子の同居だった。夏樹が留守中に一度怪我をして、老化もあるから今後は一緒に暮らそうと由利が提案したのだそうだ。
「おはよう。おばあちゃん」
いつもニコニコとしている知恵子が、夏樹は大好きだ。彼女がいるからこそ、家へ帰ってもなんとなく落ち着けるのだろう。それに、陽乃が以前よりもずっと頻繁に夏樹を気に掛けてくれる。それも大きかった。
「はぁ〜……」
朝食後、夏樹はクチャクチャになった布団の上で寝転がっていた。小学校のことはまだ何も聞かされていない。しかし、夏樹は冨樫小学校に戻るつもりなど、あまりなかった。帰宅後、祥夫ともあまり話はしていないが、それだけはきちんと伝えておいた。秋田にいる間、いい友人に恵まれただけにあんなことがあった冨樫小学校に戻る気など、ほとんどない。
おそらく、校区が少し違うが家から歩いて20分程度のところにある北七海小学校に通うことになるだろう、と祥夫は夏樹に言った。夏樹にしてみれば、冨樫小学校でなければどこでもいい、という感じだった。
ノックが聞こえた。
「なに?」
「あたし。陽乃」
「どーぞ」
陽乃はウキウキ気分で夏樹の部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
「夏樹さ、ちゃんと帰ってきた挨拶した?」
「え? したじゃん」
「違うわよ。あたしたちじゃなくって!」
「……。」
夏樹の顔がみるみる赤くなる。それから小さい声で「まだ」と呟いた。
「ダメじゃん! ちゃんと、無事帰ってきたことを伝えなきゃ!」
「……恥ずかしい」
夏樹は顔を真っ赤にして俯く。陽乃はクスッと笑ってから続けた。
「恥ずかしがってる場合じゃないよ? せっかく、好き同士なんでしょ? ほら、仲良くなっとかないと」
「でも……」
「あたしもついていってあげるから! ね?」
「……わかった」
昼食後。陽乃と夏樹は外へ出かける格好をして、玄関にいた。
「あら? どこか行くの?」
「岡本さんの家」
「あ、帰って来たんだもんね。ご挨拶行かなきゃね。いろいろお世話になってるし」
「そういうこと! ま、夕飯までには帰るから」
「よろしく言っておいてね」
「いってきまーす!」
陽乃に続いて夏樹が黙って家を出る。
「夏樹。ほら、いってきますは?」
陽乃が無理やり夏樹を回れ右させた。
「え?」
「家を出るときは、いってきます! ほら!」
「……。」
由利がにこやかに夏樹を見つめる。恥ずかしくなったが、言わないまま陽乃が出させてくれそうにもなかったので、小声で言った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
由利の笑顔に、夏樹は少し安心感を覚えた。
「暑いな〜」
陽乃は帽子を深く被って恨めしそうに太陽を見上げる。夏樹も秋田の涼しさに慣れていただけに、こちらの暑さが辛い。自然と息が荒くなる。
「水飲む?」
「ありがと」
ずいぶん体力が落ちているのを感じさせられた。
「夏樹、向こうじゃ都会っ子って言われておちょくられてたんでしょ?」
「な、なんでそんなこと知ってるのさ!?」
夏樹が暑さによるのとは違う意味で、顔を真っ赤にした。
「残念〜! 実はね、樹音ちゃんにいろいろ手紙で報告してもらってたんだよ? あの子、夏樹に素っ気ないふりして実は一番夏樹のことを見てたんだから」
「ウソだぁ!」
そう笑う夏樹だが、顔が引きつっている。
「ウソじゃないわよ? ほら、誰だっけ? 奏七太でもなくって勇人くんでもない」
「拓弥?」
「そうそう! 拓弥くん! その子と一緒に樹音ちゃん、夏樹のことよく見てくれてたんだよ? ほら、これが証拠の品」
陽乃はカバンからたくさんの写真を取り出した。どうやら夏樹が気づいていないうちに、すべて撮られたようだった。
「げっ!? これ、野菜植えのとき?」
5月の中旬に、夏野菜を植えたときの写真だ。土で頬を汚しながらも、一所懸命ピーマンの苗を植えている自分の姿が写っていた。
「そうよ。これは放課後、水まきしてる写真」
ホースが思うように伸びず、無理やり引っ張ったらホースが抜けて水道から噴水のように水が噴き出たことがあった。そのシーンをこれは樹音が収めたようだ。端のほうに笑っている拓弥と勇人、慌てている早苗と花音が写っていた。
「それに、これは田植え」
陽乃、未華乃、未咲、夏樹、奏七太で綺麗に並んで植えているときの写真だった。
「いつのまにこんなの……」
「夏樹にバレないように、バレないようにやってくれてたみたい」
「そうなんだ……」
あくまで想像だが、ひょっとしたら樹音が素っ気なかったのはこのためだったのだろうか。夏樹はそう思うと嬉しくなり、自然と笑みがこぼれた。
「久しぶりね〜!」
明日香の家に到着した。今日は定休日らしく、シャッターは閉まっている。
「裏から行かないとね」
「うん」
夏樹は緊張と嬉しさでいっぱいだった。久しぶりに明日香に会えるのだから、喜びもひとしおだ。
ドアをノックする。しかし、応答がない。
「あれ? 留守なのかな」
「え〜……」
陽乃はドアに耳を当ててみた。
「……ホ。……ガ……」
「あ、声がするわ」
陽乃は勝手にドアを開けた。
「ダメだよ、姉ちゃん」
「いいじゃない。おばさん、用があるときは自由に入ってって言ってくれてるから平気よ」
陽乃は靴を脱いで部屋へ上がる。夏樹も渋々ついていった。
「あ……上から声がするわ」
「え?」
「明日香ちゃんかも! ねぇ、夏樹。上へ行っておどかしてきなよ」
陽乃がグイグイ夏樹の背中を押した。
「い、いいよそんなの!」
「ホーラ、照れるな! 行ってこい!」
夏樹は仕方なく、2階へ上がる。心臓が飛び出しそうなほど鳴っている。そして、とうとう明日香の部屋の前に着いた。
「んんっ!」
軽く咳払いをして、ドアをノックする。しかし、やはり応答はなかった。
「……?」
すると、奥のほうから声と水の流れる音がする。
「あっちか」
夏樹は奥へと向かった。すると、トイレのドアが全開になっていた。
(わ!? ヤバいじゃん!)
危うく覗いてしまうところだった。夏樹は戻ろうとして、妙なことに気づいた。
(……なんで? ふつう、開けっ放しでするか?)
そもそも、水が流れっぱなしということ自体、妙だった。
「……。」
夏樹はおそるおそる、トイレを覗き込んだ。
「ゲボッ……ゲホ……ウッ……エェエェッ!」
喉に指を突っ込み、何度も何度も戻す女の子。
それは――。
「明日……香……?」
間違いなく、明日香だった。