第58話 さよならの席
「……気をつけてな」
拓弥が笑って言った。夏樹も笑顔で返す。
「ありがと。いつも来てる電車だから、平気」
「そっか」
「……。」
沈黙が降りる。奏七太、樹音、花音、拓弥、勇人、早苗。いつものメンバーだ。それに珠子、純、靖治、千鶴子まで来ている。それだけじゃない。奏七太の隣に住んでいるおじいさん、おばあさん。いつも新聞配達をしているお兄さんまでいる。
「やだなぁ〜、ホント盛大でなんか」
夏樹は照れ笑いをした。千鶴子が豪快に笑った。
「ホントだねぇ! ちょっと帰るくらいなのにねぇ!」
千鶴子にもちゃんと帰る旨は伝えておいた。ちょっと、と言った覚えはない。でも、帰ってこないとは言わなかった。きっと帰る。そう、夏樹は信じている。だからこそ、千鶴子は「ちょっと」と言ったのかもしれない。ちょっとでないことは、千鶴子もわかっている。
「気をつけろよ」
靖治がいつものように優しい声で言った。
「はい。短い間でしたけど、ありがとうございました」
「夏休みが明けたら、向こうの小学校に通うのかい?」
おばあさんが聞いてきた。そんなことは考えてもなかったが、おそらくそうなる可能性は低い。夏樹はもう一度、あの学校に祥夫が戻してくれるとは考えていなかった。そうした話は、すべて七海へ帰ってからだ。
「まだ……わからないです」
事情を知るメンバーだけが黙り込んでいた。
「ねぇ、ナツ」
早苗が樹音と花音と一緒に何かを差し出した。
「これね、ひまわりの花で作ったの。押し花」
「押し花……」
綺麗で鮮やかな黄色。夏樹の好きな黄色だ。
「ナツの名前、夏樹でしょ。ちょうど今の季節じゃん? そんなナツにピッタリの花って考えたら……ひまわりが一番かなって思って」
「……。」
夏樹は思わず涙が溢れ出そうになった。しかし、泣かないと決めたのだから、涙をグッと堪える。その代わり、高ぶる感情が抑えきれず、気づけば早苗を抱きしめていた。
「ナ……ツ……」
(ゴメン、明日香。今だけ……許して)
「ありがと」
そして、次に樹音を抱いた。この稲賀沢にいる間に、夏樹は5センチも背が伸びた。来た当時はあまり身長の変わらなかった樹音が、今は少し小さく感じる。
「頑張れよ、樹音」
「……言われなくてもわかってる」
樹音の声が震えた。樹音も強がりだ。きっと、泣かないと決めていることは夏樹にもすぐわかった。続いて、花音を抱きしめた。彼女はまだ小さい。だから、高ぶる感情を押さえ込むなんて無理だった。
「なづきにいぢゃん……ヒグッ、エグッ」
「泣くな。な? 泣くと俺まで泣きたくなるだろ?」
「エグッ……ック、ウウック……」
「な? 花音、いい子だろ?」
「ウエック……わがっだ」
無理やり自分を納得させるように、花音はうなずいた。
「おばさん……本当にお世話に」
「まだ言わないでよ、そんなこと! あたしはねぇ、まだまだこれから夏樹も陽乃もお世話する気マンマンでいるんだから!」
珠子がバシバシと夏樹の肩を叩いた。
「おばさん……」
純が間から顔を出す。
「そうだぞ! また冬休みにも遊びに来い! いや、その前に稲刈りがあるだろ。それにも来ないと承知しないぞ。ちゃあんと、陽乃ちゃんと明日香ちゃん、未咲ちゃんと未華乃ちゃんも連れてくること! わかったな?」
「アンタ! それはアンタが若い子好きなだけでしょうが!」
「バレたか」
ドッと笑いが起きる。夏樹もおかしくて笑いが止まらない。
「16時48分発、秋田新幹線、東京行きがまもなく入ります」
「……!」
奏七太の顔があからさまに悲しそうになるのを、夏樹は見てしまった。思わず目を逸らしてしまう。やがて、新幹線が滑り込んできた。風が起きて、早苗と樹音の髪の毛が舞い上がった。
「……行くね」
「あぁ……」
拓弥と奏七太とはあえて何も話さず、乗り込んだ。昨日の約束がある。「じゃあな」とか言わないつもりでいた。
「ここか……」
ホーム側の列。窓際だ。全員の顔が見える。
電車が動き出した。夏樹は笑顔で手を振る。皆も、笑顔で送ってくれる。
(大丈夫。このまま……このまま……)
しかし、夏樹の目の前を誰かが走り出した。
奏七太だった。
「夏樹!」
「奏七太!」
電車の窓は分厚い。しかも、昔のものと違って窓は開かなくなっていた。それがもどかしい。夏樹はなんとかして開けようとするが、開かない。
「奏七太!」
夏樹は目いっぱい大声を出した。
「夏樹!」
「待ってよ、ズルイ!」
そう言って走り出したのは、樹音だった。
「夏樹兄ちゃん!」
初めて叫んだ、夏樹の名前だった。夏樹には聞こえていないだろうと樹音は思った。しかし、夏樹は確かにこう言った。口の動きでわかった。
「ありがとう」
「行くぞ、花音!」
拓弥が花音を抱き上げて走り出した。メンバーの中で一番運動神経がいい拓弥はあっという間に夏樹に追いついた。しかし、電車の速さには勝てない。
「夏樹! 夏樹!」
言いたいことはいっぱいある。しかし、拓弥の頭にはそれを言葉にできる余裕がなかった。最後に、叫んだ。
「絶対、帰って来い!」
言うつもりはなかった。しかし、そう言わなければ夏樹が帰ってこない気がしたからこそ、拓弥はそう叫んだ。
「わかった!」
聞こえるはずのない声が、聞こえた。電車はやがてホームを離れていった。
「どうして……」
夏樹は電車の中で、押し花に涙をこぼしながら声を漏らした。
「どうして、大事なものはひとつじゃないんだろう……」
夕暮れを反射する窓。夏樹の頬についた、雫の跡がそれを反射させた。