第55話 今、いる席
「明日香」
夏樹は朝食を終えて休憩している明日香に声をかけた。今日で田植えも終わりの予定となっている。午前10時から開始予定だ。
「なに?」
「田植えの前に、今オレがいる教室に行ってみない?」
「いいの!?」
明日香の顔がパッと明るくなった。夏樹もこの笑顔を見ると嬉しくなる。
「うん! 田植えだと学校も開いてるから、教室にも頼んだら入れると思うんだ」
「やったぁ! 行こう行こう」
明日香はすぐに行くつもりでいたらしく、夏樹の手を引いて玄関へ向かいだした。
「わわわ、ちょ、ストップストップ! ちゃんとおばさんや姉ちゃんに先に行くって言ってからいかないと」
「あ……そうだね! ゴメンゴメン!」
二人は台所にいる珠子に先に学校へ向かうことを告げ、陽乃や奏七太、樹音にも伝えてから出てきた。
「あの二人……お付き合いとかしてるの?」
樹音が陽乃に聞いた。陽乃は小さくうなずいた。
「案外お似合いじゃん」
奏七太が笑う。陽乃もそう思っている。しかし、夏樹も明日香も何か、どこか不安定な部分があるような気がしてならなかった。
「なっちゃんの学校って広い?」
明日香と夏樹は最近舗装されたばかりの歩道を並んで歩きながら他愛無い話をしていた。
「そうだな〜……。人数が少ないから、広く感じるかも」
「それいいなぁ! やっぱり、冨樫は狭いよね」
「どうしても人数が多いからなぁ」
6月。七海ならそろそろジメジメしてくる頃だが、今年はまだ梅雨が来ていない稲賀沢は過ごしやすい5月の陽気が漂っていた。
かなり長く歩いてから、ようやく信号で足止めを食らった。5月の陽気とはいえ、やはり長く歩いていると汗ばんでくる。
(喉渇いたらダメだから、ペットボトルでお茶入れて持って行きなさい)
そう言って珠子が渡してくれたペットボトルを夏樹は思い出したように取り出す。そして、いつか陽乃に言われたことを思い出して、初めに明日香の前に差し出した。差し出す直前に、夏樹と明日香で身長差が出てきていることに夏樹は気づいた。
この4月の身体測定で夏樹は164cm、48kgになった。明日香の身長はよく知らないが、夏樹より低いのは確実だ。
「どうしたの?」
夏樹は自分の目線が明日香の胸元へ行っているのに気づいて顔を赤くした。
「あ……お茶飲みなよ。喉、渇いたろ?」
「わぁ! ありがと〜」
明日香はペットボトルを受け取ると、おいしそうに飲み始めた。その様子を嬉しそうに見る夏樹。しかし、なんとなく胸元へ目が行く。
(俺って……エッチ?)
「なっちゃん?」
「へ?」
「飲まないの?」
「あ、あぁ! 飲む飲む……」
飲もうとペットボトルをもらってから、これが間接キスではないかなどという考えが夏樹の頭を巡り、手が止まった。
「なっちゃん?」
「……な、なんでもない!」
夏樹は意を決してペットボトルに口をつけた。急にボトルを顔に向けたので、一気にお茶が口へ入ってきてむせてしまった。
「ゲホッ! ゲホゲホ!」
「あーあぁ! なにやってんの、なっちゃん!」
明日香は慌ててハンカチを夏樹の頬に当てた。フワリとやわらかい感触といい香りが夏樹の五感を刺激する。
「大丈夫? 本当にさっきからどうしたの?」
「……。」
夏樹はしばらく目を逸らしてから、ボソボソと小さい声で返した。
「久しぶりに……明日香に会えるから嬉しい」
「……やだなぁ。なんか、恥ずかしい」
明日香は顔を赤くして俯いた。
「あ」
「え?」
夏樹の声に反応して明日香が見上げると、青信号がいつのまにか再び赤になっていた。
「もうちょっと待つか」
「そだね」
夏樹は苦笑いしながらペットボトルの水をグイッと飲み始めた。声変わりし始めた夏樹の喉は喉仏が出始めて、男らしくなってきている。飲むたびに上下する喉仏を明日香は気づけばジッと見つめていた。
「なに?」
夏樹がその視線に気づいたらしく、ボーッとしている明日香に声をかけた。
「なっ、なんでもないよ……」
「そう? ならいいけど」
信号が青になって二人は横断歩道を歩く。5分ほど歩くと、学校へ着いた。
「うわぁ〜! 木造なんだ!」
「うん。戦争でも地震でも壊れなかった校舎なんだって」
「スゴいねぇ〜」
明日香は物珍しそうにキョロキョロとあたりを見渡す。
「ねぇ、あれは?」
明日香が指差すのは、5月に植えた夏野菜の畑だった。
「あれはトマトとかピーマンの畑。俺たち一人ひとりの畑があって、各自で世話をするんだ」
「へぇ〜……スゴいなぁ。私たちの学校じゃ、こんなことさせてもらえないもんなぁ」
「まぁ、俺も楽しいしな。冨樫より……毎日楽しいし」
「……そっか」
明日香の顔が少し曇った。いつもの夏樹なら、この後の言葉がなかなか出ないのに、スッと次の言葉が出てきた。
「明日香がいたら……もっと楽しい」
「……ありがと」
明日香の顔が真っ赤になる。このとき、明日香の心を覗くことができたなら――。夏樹は、たくさんの言葉を後悔することになることをまだ、知らない。
「ひっろーい!」
教室に入るなり、明日香は大声を上げた。
「なっちゃんの席、どこ?」
「窓際の前から2番目……あ、それ、一番後ろって言い方もありか」
「少ないね! みんな仲良くなりそう」
明日香は夏樹の席には座らず、隣の花音の席に座った。
「どした?」
「なっちゃん、ここに座って」
「え……あぁ、うん」
夏樹はキョトンとした表情で自分の席に腰掛けた。
「そっかぁ〜」
「何が?」
「なっちゃんの隣って、こういう風に見えるんだ」
思い返してみれば、同じクラスだったのに明日香と隣同士の席になったことはなかった。もし、冨樫から転校しなければ明日香と同じクラスになり、隣同士の席になっていたかもしれない。
転校さえしなければ。
もっと自分が強ければ。
だんだんと暗い考えが頭にまとわりついてきて、夏樹の表情が曇るのが明日香からもすぐわかった。
「なっちゃん」
「……ん?」
明日香が手を握ってくれた。温かい小さな手。
「早く、七海に帰ってきてね!」
「……うん」
夏樹はギュッと明日香を抱きしめた。明日香も夏樹を抱き返す。気づけば、唇を重ね合わせていた。
「……恥ずかし」
夏樹が顔を赤くする。
「なんで?」
「いつも……みんなと勉強してるトコでキスなんて……」
「……ホントだね」
明日香も気づいたように赤くなった。
「……ゴメン!」
「え?」
明日香が急に立ち上がった。
「どしたんだよ?」
「ちょっと……お手洗い」
「あ、なぁんだ。場所わかる?」
「来るとき見たよ。大丈夫」
「なら……行ってらっしゃい?ってのも変だな」
「エヘヘ……。じゃ、ちょっと行ってくる」
「あぁ」
明日香はそっと教室のドアを閉めた。しばらく歩いて、足音が聞こえないだろうと思った場所から一気に走り出した。
吐きたい。
吐きたい。
吐きたくて仕方がない。
自分のおなかの中にモノがあるのがキモチ悪い。
吐きたい。
はきたい。
ハキタイ!
明日香は狂うようにトイレへ駆け込み、喉へ指を突っ込んで嘔吐を繰り返した。
「……長いな」
夏樹はなかなか戻ってこない明日香が心配になり、トイレのほうへ様子を見に行った。
「――!」
その足音に気づいた明日香は急いでトイレから出て、口をすすぎ手を洗った。バレてはいけない。その一心だった。
「明日香?」
応答がない。夏樹は抵抗を覚えつつ、女子トイレの戸を開けようとした瞬間だった。
「きゃっ! ちょっとぉ、女子トイレに何の用!?」
「あ……いや、明日香がなかなか帰ってこないから心配で」
「変な心配しなくていいの! ホラ、そろそろ集合時間だし、行こう?」
「あ〜、うん」
「ほぅら、早く早く!」
夏樹は押されるがままトイレを出た。出る瞬間、夜中に家のトイレで臭った酸っぱい臭いがした気がして、夏樹は足を止めた。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
「変ななっちゃん」
明日香の笑顔を見ると、不信感が消えていく。夏樹は明日香と手を繋いで、廊下を歩いていった。