第51話 汚れた席
修学旅行から帰ってから、夏樹はいまひとつ勉強にも体育にも集中できずにいた。何かとボーッとすることが増え、気づけば唇に鉛筆を当てたりしている。
靖治は夏樹が家族に会いに行ったのだと勇人たちに説明したようだった。実際、靖治もそう思っていた。夏樹に好きな人がいて、その人に会いに行ったなど知る由もない。
あの時、夏樹は七海の誰にもほとんど会わず、明日香との再会を果たすことができた。あの日交わしたキスのおかげで、夏樹と明日香の絆は深まった。間違いなく、夏樹はそう思っていた。
しかし、それは夏樹だけの思い過ごしだった。
「アスちゃん……食べないの?」
水穂がボーッとした様子の明日香に声をかけた。
「え?」
「早く食べないと、冷めちゃうよ?」
今は給食の時間。いただきますの挨拶をしてから10分経つというのに、明日香はほとんど給食に手をつけられずにいた。
「あぁ……うん、食べるよ」
「ミネストローネ、おいしいよ」
「うん」
水穂はすっかり明るくなった。以前よりずっと積極的になったし、何より女の子らしさにますます磨きが掛かった。一度恋を経験したからだと、いつか恭輔が言っていた。恋をすると、女の子は綺麗になるそうだ。
(私も……綺麗になれるかな。なっちゃんに相応しい女の子にならなきゃ)
そう思うと、あまり食べずにいようと考えてしまう。だから、あまり食が進まなかった。
結局、給食はほとんど口にせず終わってしまった。「食べないと体に良くないよ?」と水穂や麻里が心配するが、明日香は「ホント、平気だから」と返しておいた。
家へ帰ってからもそれは同じだった。圭太や花菜と夕食を摂ることがほとんどなので、玲子や登は知ることはまったくないまま、どんどん明日香の食べる量は減っていった。一度、圭太が心配して「姉ちゃん、ゴハンの量増やしてあげる」と言って勝手にゴハンをよそったとき、明日香は今までに見せないほど怒ったことがあった。
あまりの激昂ぶりに圭太は泣いてしまい、なんとか花菜がなだめることで事は収まった。それ以来、圭太も花菜もどこか明日香の様子がおかしいとは思っているが、それを指摘すると怒るため、両親にも言えないままでいた。
「ただいま」
家へ帰ると、珍しく玲子が台所で料理に励んでいた。
「どうしたの?」
「えぇ? あー、今日はね、ちょっとお父さんの体調が芳しくなくってさぁ。お客さんには申し訳ないんだけど、臨時休業にしたんだよ」
「そうなの……」
「それはそうと明日香〜、最近アンタ、ご飯いっぱい残してるでしょ?」
「あ……うん」
「体の具合でも悪いのかい?」
「ううん。そんなことないの」
「そう? ならいいけど……まぁ、時期的なものもあって食欲ない時もあるかもしれないけどね、しっかり食べないと大きくなれないからね!」
「うん。わかってる」
「それならいいわ。ご飯になったら呼ぶからね」
「わかった」
明日香は微笑んですぐに二階の自分の部屋へ上がった。ご飯が嫌いなわけではない。むしろ、最近は料理の雑誌を買ったり、インターネットでいろんな料理番組の情報を集めたりしているくらいだ。
しかし、どうしても食べる気にはなれなかった。食べたい気持ちになれない。
「明日香〜! ご飯だよ!」
料理の本を読みふけっているうちに、時計は午後6時になっていた。あまり食欲はないが、親がいる手前、食べないわけにはいかない。
居間へ入ると、山盛りのトンカツがテーブルの中央に盛られていた。圭太と花菜が心配そうに見守る中、明日香は静かに椅子に座り、トンカツを食べ始めた。
「どうだい?」
玲子が聞くと、明日香はニッコリ笑って「おいしい!」と答え、どんどんトンカツを食べ始めた。それを見た花菜と圭太も安心して、トンカツを食べ始めた。
1時間後には、すっかりトンカツはなくなってしまった。明日香も普段からは考えられないほどたくさん食べたので、圭太も花菜も驚くばかり。
「そんなにおいしかったかい!?」
玲子は心底嬉しそうだ。
「うん! おいしかったよ。お母さん、料理上手だもんね! うらやましいよ」
「あらあら! 普段は何も言わないのに、今日はどうしたんだろうねぇ」
玲子がワシャワシャと明日香の頭を撫でるので、明日香は恥ずかしくて赤くなってしまった。
「ごちそうさまでした!」
明日香は食器を片付け終えてから二階へ上がろうとした。
「はいよ! お風呂はいつ入る?」
玲子も嬉しそうに食器を片付けながら、明日香に聞く。
「1時間くらいしたら入るよ」
「じゃあ沸いたら呼ぶから、それまで宿題でもやっといで」
「はぁ〜い」
明日香が上がったのを確認してから、花菜に言った。
「そんなに普段は食べないのかい?」
「うん……今日は不気味なくらい食べてたわ。ねぇ、圭ちゃん」
圭太も不安そうな顔で答える。
「うん……姉ちゃん、なんか普段とテンション違ってた」
「そうかい……。でも、普段どおりに見えるからねぇ。もうちょっと様子を見たらどう?」
「そうだね。そうするしかないみたいだし……」
花菜はため息をついた。
その頃、明日香は二階のトイレにいた。
「ウエッ……ゲホッ、ゲホゲホゲホッ! エグッ……ゲェッ!」
右手の人差し指と中指を喉の奥に突っ込んで何度も戻していた。食べたばかりのトンカツやご飯がほとんどそのままになって戻っていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
ようやく落ち着いたので水を流し、戻した物を綺麗に流しておいた。それから手を入念に洗い、何事もなかったかのようにトイレを出た。
「これで……いいよね、なっちゃん」
明日香は安心したように部屋へ戻り、夏樹の写真を見つめる。再会したあの日、夏樹が言った言葉が明日香の頭から離れずにいた。
――ちょっと、ふっくらしたね。
何気ない夏樹の一言が、明日香の頭を巡って巡って、止まらなかった。それ以来、明日香はほとんど毎日このような行為を繰り返していた。
夏樹も家族も、誰も知らないまま、月日だけが過ぎていった。




