第50話 君のいる席
「ナツ?」
ハッと夏樹が気づくと、勇人と早苗が心配そうに覗き込んでいた。
「どうしたん? 顔色悪い」
噴き出た汗を早苗が優しくハンカチで拭き取ってくれた。
「ありがと……。もう、平気だから」
「そうか? 体調悪いなら早めに言えよ」
「うん。ありがと」
勇人は安心したように再び、拓弥と楽しそうに話を始めた。早苗も樹音と話を再開しだした。夏樹は呆然と前を流れていく車窓に目を取られていた。見たことのある建物が増えるにしたがって、落ち着かなくなってくる。
「まもなく、七海〜、七海です」
グッと気持ちを堪える。ここで堪えないと、きっと歯止めが利かなくなると夏樹は思った。
電車はブレーキを掛けてゆっくりと七海駅構内へ進入した。ドアが開くと同時に外の新鮮な空気が入り込んできた。
「七海〜、七海です」
懐かしい音がする。七海の空気は味があっただろうか。空気に味がある気がしたのは、生まれて初めてだった。
「……。」
開いたドアの向こうに広がる町並みを見つめた。学校、家、公園、駄菓子屋、スーパー……。今まで当たり前だった、今までのいつもの生活が今、目の前にある。
「まもなく、ドアが閉まります。ご乗車のお客様はお急ぎください」
ウズウズする。気持ちが落ち着かない。
「ドアが閉まります」
そして、「ご注意ください」のアナウンスが掛かる直前、夏樹は立ち上がってまるでスライディングをするように駅のホームへ飛び出した。
バタン!とドアが閉じる音と同時に早苗や勇人が「ナツ!」と叫ぶ声が聞こえた。
「ナツっ!」
拓弥も驚いて立ち上がるが、既にドアが閉まって電車は動き出している。もう遅すぎだった。
靖治も驚いて立ち上がるが、駅名を見て動きを止めた。これは必然だったのかもしれないと、靖治は思ったのだ。
「朝倉!」
靖治は窓を開け、夏樹に呼びかけた。
「お前、泊まるホテルの名前と場所は知ってるな!?」
「はい!」
教育者として、担任として許されざる発言だったかもしれない。しかし、靖治はそれを承知で叫んだ。
「後悔だけはするな!」
「……先生」
「わかったな!?」
遠ざかる夏樹に向かってもう一度大声で聞いた。夏樹は両手で大きく丸の字を描いた。
「先生! なんで!?」
早苗が驚いて靖治に聞いた。
「後で……後でちゃんとみんなに説明するから」
夏樹は両手や膝についたゴミを払って急いで階段を駆け上がった。途中下車だったので、切符は駅員に半ば強引に手渡して外へ出る。駅員はつっこむヒマもなく夏樹が出て行ったので、唖然としていた。
「うわっ!?」
駅舎を出てすぐ、誰かにぶつかった。
「ご、ごめんなさい……あっ!」
ぶつかったのは、嘉村恭輔だった。
「あ……朝倉?」
夏樹はすぐ顔を隠して走り出した。恭輔は後を追っては来なかった。
「なんで……ここにいるんだ?」
恭輔は唖然としたまま、小さくなる夏樹の背中を見つめた。
夏樹は夢中で走り続けた。見覚えのある家、公園、商店、コンビニ――。懐かしさと嬉しさがこみ上げてきて、走っていると自然に笑みがこぼれた。今、自分は間違いなく七海にいる。そして、明日香の元へ向かっている。
「……あれ?」
ちひろは目を擦った。もう一度目を凝らして見るが、やはりあの後姿は夏樹だ。
「な、なんでいるんだろ……」
ちひろはドキドキしながらゆっくり近づく。すると夏樹はすぐに気配を察知したようで、ちひろのほうを振り向いた。
「!」
ちひろは思わず動きを止めてしまった。目が合う。沈黙が続いて、ちひろは心臓が飛び出しそうなほど鳴っていた。
小学校6年生。ちひろも、体つきが大人へ最近近づいてきていた。夏樹はまだまだだろうと思っていただけに、少し面食らった。
ちひろもちひろで、夏樹が急に大人びた顔になったので驚いて声を失った。
「……。」
夏樹は信号が青になったのを確認して走り出した。
「あっ……ま、待って!」
ちひろは慌てて後を追うが、サッカーで鍛えた夏樹の足に追いつけるはずもなく、あっという間に見失ってしまった。
明日香の家まであと少し。夏樹はただ、一目散に明日香の家を目指した。そしてようやく着いた明日香の家は、今日は定休日なのかシャッターが下りていた。
「……。」
夏樹はとりあえず、シャッターをノックした。しかし、中から返事はない。
「留守だろな……」
シャッターにもたれて夏樹は誰か来ないか待つことにした。やがて日が暮れて、買い物客らしいおばさんが増え始めた。汗をかきながら座ったままの夏樹を奇異の目で見るおばさんたち。夏樹は気にしないままでいたが、そろそろ由利が買い物に来たり陽乃が下校中に通ったりするのではないかと思い、商店街から離れることにした。
「会いたかったけど……急には無理か」
夏樹はフゥッとため息をついて八百屋を離れた。もう一度振り返り、明日香の部屋を見上げる。
「またな」
夏祭りの日。明日香と夏樹で帰り道、無言でここを歩いたのを今でも鮮明に覚えている。二人きりの座席だと約束した、あの日。
何がいけなかったのだろう。
自分だろうか。
優翔?
ちひろ……。
恭輔?
お父さん。
お母さん?
姉ちゃん?
敬吾。
明日香が悪いはずはないと思う。
夏樹の中で、誰が悪くてこんなことになったのかわからなかった。
「……!」
気づけば、いつのまにかあの火の見櫓の前にいた。無意識のうちに来ていたのだ。強い風が吹き、砂埃が舞う。
目に砂が入ったのか、自分の目から自然と出てきたのかわからない。頬を幾筋もの涙がこぼれていく。
「俺……七海にいたいんじゃん」
そっと扉を開けた。鍵はかかっていない。ゆっくり階段を歩き、櫓の最上部へ上がった。
「あ……れ?」
夏樹の目に、懐かしい後姿が見えた。その見慣れた姿が振り返るときに、風に吹かれた髪の毛が綺麗に揺れた。
「……待ってたよ」
「ウソ……だ」
夏樹は目を何度も擦る。しかし、ウソではないようだ。その姿は、ずっと夏樹の目に映っている。
「待ってたって……言ったでしょ?」
「……マジ、だよな」
「マジ、ですよ」
夏樹の目から、一気に涙がこぼれ落ちた。悲しいのではない。嬉しいのだ。嬉しいのに、涙が出る。こんなことは、夏樹にとって初めての経験だった。
「明日香……!」
夏樹は大きくなって少し筋肉質になった腕で明日香を抱いた。声変わりしたのか、少し低い声のように明日香は感じた。
「なっちゃん……待ってたよ」
明日香がそっと夏樹を抱きしめる。しばらく見つめあい、お互いに目をつむった。そして、そっと、その唇を重ね合った。
やわらかい、温かい唇。
二人は夕陽が沈んでいく中、お互いの温もりを感じていた。