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第37話 窓際の席

「忘れ物……ない?」

「うん」

 2月23日(日)。朝倉陽乃と夏樹の姉弟(きょうだい)は小田急電鉄七海駅のホームにいた。いつになく厳しい寒波がやって来たこの日、七海市内は元より関東全域で大雪が降っていた。その影響で小田急電鉄にも遅れが出ている。

 陽乃と夏樹はホームで待っていては寒いので、待合室に入って体を寄り添いあって電車が来るのを待っていた。

「メルアドちゃんとメモしたよね?」

 陽乃が笑顔で聞く。

「うん」

 それとは対照的に、夏樹は緊張した面持ちで答える。

 一昨日の金曜日。夏樹は無事に救急医療センターを退院した。それと同時に、秋田へ転校する日がやってきたのだ。しかし、夏樹は祥夫と由利が見送りに来ることを断固拒否した。あまりにも激しく拒絶されたので、由利は思わず泣いてしまったがそれでも夏樹が了承することはなかった。

 そして今、夏樹の傍には現時点で最も信頼を寄せる人物――陽乃がいた。

「七海でこうだから……きっと秋田はもっと雪スゴいだろうね」

「だね……」

 あまり乗客もいないホーム。こんな寒い日は家でジッとしている人がほとんどだろう。陽乃は待合室にいても寒かったので、手袋を付けた。

「姉ちゃん……寒いの?」

 夏樹が心配そうに陽乃に聞く。

「うん。ちょっとね。でも、手袋したら平気よ」

「ゴメンね? 俺なんかの見送りのせいで……」

「やぁだ! 大事な弟のためなら、秋田にだって行くんだから」

 陽乃がニッコリ笑ってそう言うと、夏樹の顔が曇った。それから急に夏樹がギュッと陽乃を抱きしめた。

「ちょ、ちょ!? 夏樹!?」

「……。」

 夏樹は黙ったまま、しっかりと陽乃を抱きしめる。陽乃は驚きながらもしっかりと夏樹を抱いた。

「どうしたの?」

「……。」

 グスッという音。泣いているのだろうか。陽乃が覗き込むと、陽乃のセーターに夏樹の涙がこぼれ落ちていた。

「泣かないでよ……夏樹」

 そう言う陽乃の声も震えた。やがて、彼女の目からも涙が流れて夏樹の髪を濡らした。

「姉ちゃん……姉ちゃんも一緒に来てよ」

「行けるもんなら行きたいわよ」

 二人とも声が震える。やがて二人は何も喋らず、ただ抱き合って泣き続けた。

 5分ほどそうし続け、夏樹が涙を拭って立ち上がった。

「もう……姉ちゃん、帰っていいよ」

「え……でも」

「お願い……俺、これ以上姉ちゃんと一緒にいたら……秋田に行けなく……なるか……ら」

 夏樹の声が震え始めた。もう、大泣きする直前だと陽乃は察知した。

「わかった……行くね」

 陽乃は立ち上がり、待合室の戸を開けた。雪と冷たい風が吹き込む。

「また……あたしも秋田に行くからね」

「うん……待ってるね」

「じゃ……」

「ん。バイバイ」

 夏樹は笑顔で手を振る。陽乃も笑顔で手を振る。涙は見せない。そう誓った。夏樹も陽乃もそうするつもりだった。

 それにも関わらず、次から次へと涙が溢れ出る。これ以上、夏樹も陽乃もお互いを見ることができなかった。

 陽乃は我慢できず、走り出した。雪が目に入って余計に涙が溢れる。もう絶対に振り返らないと思い、陽乃は階段を駆け下りた。

「キャッ!?」

 前を見ずに走り続けたものだから、陽乃は階段を上がる人に気づかずぶつかってしまった。

「ゴメンなさ……あっ!」


「まもなく、各駅停車新宿行きが参ります。15分遅れで到着しており、皆様にはご迷惑をおかけいたします」

 見慣れたブルーのラインの列車が滑り込む。夏樹はようやく治まり始めた涙をもう一度軽く拭い、ホームへ出た。

 優翔の顔が浮かぶ。

(最後に……会えてよかった)

 次に水穂の顔が浮かぶ。

(ゴメンな。黙って行っちゃって)

 さらに、陽乃の顔が浮かぶ。

(絶対、会いに来てね)

 そして、最後は――。

「なっちゃんっ――!」

(え……?)

 夏樹はいつもの聞きなれた声に振り向いた。そして、その方向には見慣れた髪型の少女。そのまま夏樹は、慣れた口調でその少女を呼んだ。

「おか……」

 いったん口を開いて、夏樹は再び口を閉じた。そして、改めて口を開き、大声で彼女の名を叫んだ。

「明日香っ!」

 明日香がそれに答えるように、夏樹に飛びついた。

「なっちゃん!」

「明日香……明日香……」

 列車が停車した。数少ない乗客が列車に乗り込む。明日香が口を開いた。

「帰ってくるよね?」

「あぁ」

「連絡ちょうだいね。これ、私のメルアド」

「あぁ」

「元気に……なって帰ってくるよね?」

「あぁ」

「私のこと……忘れないでくれるよね?」

「あぁ」

 発車のベルが鳴る。

「行かなきゃ……」

「うん……」

 夏樹が列車に乗り込む。明日香も思わず一緒に乗り込みそうになった。しかし、なんとか直前で思い留まる。

「絶対……メール送るよ」

「うん」

「七海に笑顔で帰ってくる」

「うん」

「明日香のこと、絶対忘れない」

「うん」

「明日香……俺……」

 その時、非情にも「ドアが閉まります。ご注意ください」のアナウンスと共にドアが閉まった。

 夏樹はすぐに窓際の席に座った。窓は最新式の車両のために、開かない。夏樹はそれが歯がゆく、わかっていても何度も開けようとした。

 列車が走り始める。明日香が滑りやすい雪の積もったホームを走り始めた。

「明日香!」

 聞こえないとわかっていても、夏樹は声を大にして彼女の名前を呼んだ。

「なっちゃん……なっちゃん!」

 明日香も答えるように叫び、列車を追いかける。

「明日香……俺」

 明日香の姿が離れていく。涙が溢れ出してきて、目の前が見えなくなる。その涙を拭い、夏樹はしっかりと明日香の姿を目に焼き付ける。

「なっちゃあああ――ん!」

 明日香は最後に声を振り絞って夏樹に向かって手を振った。やがて、夏樹の乗った列車はカーブを曲がり、姿を消した。

 夏樹は窓際の席に座りこみ、震えながら呟いた。

「明日香……俺、明日香のこと……好きだ」

 その座席に、涙がいくつもこぼれ落ちていった。

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