第36話 川沿いの席
「ちぃ」
呼ばれた声を聞いてちひろがそちらを振り向くと、優翔と明日香が立っていた。
「ゴメンな、遅くなって」
優翔が苦笑いしながらちひろの隣に座った。
「ううん。私のほうこそ……急に呼び出してゴメンね。あ、岡本さんもこっちに座って?」
「うん。ありがとう」
明日香もちひろに促され、そこへ座った。
3人がいるのは、七海市の中央を流れるつくし野川と呼ばれる川沿いにある河川敷公園のベンチだ。寒さの厳しいこの時期、夕方の公園に人の姿はあまり見当たらない。
「……聞いてるよね?」
明日香が話を切り出した。
「あぁ」
優翔が短く答える。ちひろも小さくうなずいた。
「いつだって言ってた?」
優翔が明日香に聞き返した。
「退院したら、すぐ」
「退院は?」
ちひろが今度は明日香に聞く。
「遅くても……あと2週間くらい」
「思ってたより早いね」
ちひろが寂しそうに呟いた。
昨日のことだった。明日香たちが、担任である大迫先生からこのことを聞いたのは。
朝のホームルームでのこと。ひととおり連絡事項を終えると、美智子は夏樹のことをクラスメイトに伝え始めたのだ。
「朝倉くんですが……」
クラスメイトが唾を飲む。夏樹の机の周りや床にはまだ生々しい血痕が残っていた。
「長くても2週間ほどで退院できることが決まりました」
生徒たちはワァッと嬉しそうな声や安心した声を上げた。明日香と水穂も手を握り合って喜んでいる。しかし、次の言葉を聞いて生徒たちは一気に黙り込んでしまう。
「それと同時に……朝倉くんはこの富樫小学校を転校することになりました」
「え……?」
明日香と水穂が声を失ってしまった。
「事情は……家庭の事情ですので皆さんには詳しくお伝えできませんが」
「教えてください!」
立ち上がったのは明日香だった。
「先生、お願いします!」
「岡本さんの気持ちはわかるわ……。でも、お父様から絶対に伝えないようにと先生も念を押されているの」
「そんな……」
明日香が呆然とした様子で座り込んだ。水穂も敬吾もちひろも恭輔も俯いたままだ。
「お別れの挨拶くらい、できないんですか?」
敬吾が手を挙げて聞いた。
「退院したらすぐ出るそうだから……残念だけど」
教室が静まり返る。麻里が泣き始めた。
「個別に朝倉くんの家へ行ったり、お見舞いに行くのもご両親から控えてほしいと言われてるから……入院先は教えられません。家にもなるべく、行かないようにしてくださいね。それじゃ、授業を始めるから……。1時間目は理科だったわね。理科室へ移動しておいてね」
美智子も堪え切れない様子で目を押さえながら教室を出て行った。
「家にも病院にも来るなってか……」
優翔はため息を漏らした。JRの列車が走る音が聞こえた。冬の空気は音を伝えやすいのだろうか。いつもより大きく聞こえる。
「もう会えないのかな」
ちひろが呟いた。
「そんなことないだろ! だって、転校するのだって夏樹だけだろ? 家族全員引越しってワケじゃなさそうだし、それに転校だから市内だろう! な? 心配いらねぇよ」
「違うの」
明日香が首を振った。
「私、先生に聞いたの。どうしても知りたいって」
「そうなのか?」
優翔が明日香の顔をジッと見つめた。
「それで、先生、夏樹はどこへ転校するって?」
「……秋田」
「あ……きた?」
明日香は小さくうなずいた。
「秋田って、秋田県?」
「うん……」
「そんな遠いところ……」
それっきり、誰も何も話さなくなった。
5時半にもなると真っ暗になってしまった。街灯が灯る。寒さがますます厳しくなってきた。
「……帰ろうか」
優翔が立ち上がる。
「もう遅いもんね」
明日香も立ち上がった。
「俺、送ってくよ」
優翔がちひろと明日香の背中を押した。
「ありがとう。助かる」
ちひろがぎこちない笑顔で笑う。その笑顔があまりにも痛々しいので、優翔も明日香もまともに見ることができなかった。
ちひろを送り、明日香も送り終えた優翔は帰路へ着いた。優翔の家の近所は住宅街で夜になるとヒッソリしているし、病院と学校が立ち並んでいて少し不気味だったので優翔自身、このあたりは夜、歩きたくないと思っていた。
「不気味だなぁ……」
そう呟いた瞬間だった。
「いやだぁ……いやだぁ〜……」
「……!?」
誰かの泣き声がする。男の子だ。
「な、なんだよ……」
優翔はおそるおそる、声のするほうへと歩み寄った。間違いない。声は救急医療センターのほうからする。
「この部屋だ……」
ハッキリと聞こえる。道路沿いの角部屋。優翔は悪いと思いながらも、中を覗き込んだ。
「大丈夫よ。心配いらないわ」
看護師さんらしい女性が少年を抱いてなだめている。少年は肩を震わせてないているようだ。年は優翔と変わらないくらいだろうか。後ろ髪は長めだ。
「……いやだよぉ、俺」
「でも、お父さんは君のためを思ってくれているんだから」
「絶対違う! 俺のことなんてホントはどうでもいいんだ……」
「ほら、そんなこと言わないで。ね?」
優翔はあまりにも痛々しい姿のその少年をジッと見つめた。どこかで見覚えのある後姿だった。
「あ……ほら。そろそろ夕食の時間よ。持ってくるから、待っててね」
そう言って看護師さんは少年の元から離れて部屋を出て行った。
「な……」
その少年は、夏樹だった。
「夏樹……」
しかし、何度も泣きはらしたその目は腫れあがっていたし、すっかり元気がなくなっているようだった。
「……!」
夏樹も視線を感じ取ったようでふと振り向いた。
「ゆ……うと?」
気まずい空気が流れる。しかし、優翔の顔を見た瞬間、夏樹の顔色がにわかに良くなって笑顔になった。
「ゆうと! どうしたの?」
「いや……夏樹の声が聞こえたから、覗いてみたら本当にいたからさ。ビックリだよ!」
「嬉しいよ、俺は。優翔に……会えて本当に」
そう言うや否や、夏樹はポロポロと涙を流し始めた。
「入っていいか?」
優翔は努めて笑顔で夏樹に問い掛けた。
「うん……ゴメンな? 急に泣きだしたりして」
「いや……全然構わないよ。じゃ、ちょっと失礼」
優翔は昨日、祥夫が座っていた椅子に座った。それから続くしばらくの沈黙。それを破ったのは優翔だった。
「夏樹……」
「なに?」
とても聞きづらいことだったけれども、聞かずにはいられなかった。優翔は意を決して夏樹に聞いた。
「お前、本当に転校するの?」
「……。」
「ホントか?」
「……ウン」
夏樹は弱々しい声で答えた。どうやら、本当のようだ。
「そっか……」
また沈黙。いつの間に夏樹と会話するときにこんなに沈黙が生まれるようになったのだろうか。昔は(といってもつい1年前だけれども)こんなことはなかった。親友だった優翔と夏樹は毎日一緒にいてピンポンダッシュのようなイタズラをしたり、近所のコンビニでガチャガチャをやって遊んだり、つくし野川で遊んだりと本当にいろんなことをした。
「秋田だろ? 転校先」
「ウン……」
「いいなぁ! 自然がいっぱいじゃん。七海みたいにゴミゴミしてないだろうし、きっと空気もおいしいよ」
「そっかな……」
「絶対そうだって。きっと楽しいぜ、秋田!」
「ウン……」
素っ気ない答え。本当は嫌だろう。けれど、きっとお父さんが許さなかったのだろうということは優翔にも容易に想像できた。
「俺、実際夏樹は秋田行ったほうがいいと思うしな」
「なんで?」
夏樹が寂しそうな顔をして聞き返した。その表情を見て優翔も胸が痛む感覚になったが、落ち着いて続ける。
「だって……夏樹、本当にいろいろあっただろ。この1年」
「ウン……」
「一回……七海を離れてゆっくりしたほうがいいって……」
「……。」
答えがない。不安そうに優翔が夏樹の顔を覗き込むと、ポロポロと涙をこぼし出した。
「わわわ、な、夏樹! どしたんだよ!?」
「行きたくない……本当は秋田なんて行きたくない! 七海にいたいんだ」
「……気持ちはわかるけど」
「みんなそう言うよ! でも、でも結局みんな秋田へ行けって言う! 誰も俺のことなんて理解してくれないんだよ!」
「違う! 違うよ、夏樹! それは……」
優翔は思わずベッドに乗りかかって夏樹の体をしっかりと握った。
「違わないよ! 絶対にそうだ。俺、みんなにいらないって思われてるから……だから……」
優翔は我慢できず、夏樹を思い切り抱きしめた。
「ゆっ……優翔?」
「そんなこと言うな」
「……でも、俺……」
「そんな辛いこと言うな。寂しいこと言うな」
「優翔は……俺がいる?」
「当たり前だろ」
そう呟く優翔の目から涙が一筋、こぼれ落ちた。夏樹の目からも涙がとめどなく溢れ出る。
「だったら……七海にいたい」
「俺は……お前に昔みたいに元気になってほしいんだ」
「……。」
その言葉を聞いて、夏樹が黙り込んだ。
「七海にいるままじゃ、きっとそれは無理なんだよ」
「やだ! やだー! やだ! 俺、離れたくない! 七海にいたい〜!」
優翔も支えきれないくらい、夏樹が暴れだした。思わずベッドから落ちそうになったが、優翔はなんとか堪えた。
「聞き分けのないこと言うなよ。別に一生の別れじゃないじゃん」
「やだ……。だって……」
「また会える。絶対、また会える……。だから、な?」
「絶対だよ?」
「うん。絶対」
「……わかった。俺、頑張る」
「待ってるね」
「うん……」
優翔はもう一度、夏樹をしっかりと抱きしめた。別に変な意味はない。そんな風に思われたっていい。優翔はただ、夏樹をしっかりと抱き続けた。
そのうち、夏樹はスゥスゥと優翔の胸の中で寝息を立て始めた。優翔はゆっくりと夏樹をベッドに寝かせ、布団を被せる。
「……。」
優翔は入ってきた窓から出て、もう一度夏樹を振り返った。
「またな……」
もうしばらく会えないかもしれない。小学校の間は、会えない気がする。優翔はそう思った。夏樹の顔を目に焼き付ける。
「また、会おうな。じゃあな……」
そういう優翔の最後のほうの声は、確かに震えていた。
「うん……絶対だよ?」
そう返事した夏樹の声は、窓を閉める音でかき消されて優翔には届いていなかった。