第33話 待合席
午前9時。由利は朝食の片付けも終え、ようやくワイドショーをゆっくりと見れる時間になった。洗濯機をこの時間から回し始め、45分程度で終わるのでちょうど休憩に良い感じだ。
「えっと〜……今日の特集はっと」
新聞のテレビ欄を確認する。
「よし、6チャンネルがいいわね」
毎日決まったチャンネルを見るのではなく、いろんな番組を見ている。その時々で興味のある内容があればその番組を見るし、なければたいていNHKか6チャンネルを見ている。
テレビを点けた瞬間、電話がなった。
「はいはい。珍しいわね、こんな時間に」
由利は電話を取ってから一瞬、カレンダーを見た。2月14日。何か特別な日でもないのに、由利はその日に限ってカレンダーを見た。
「はぁい、朝倉でございます」
「もしもし!」
電話の相手は異様に焦った声を出していた。
「朝倉夏樹くんのお宅でよろしいでしょうか!?」
「は……はい。そうですが?」
「私、七海市立富樫小学校5年5組で夏樹くんの担任をしております、大迫美智子と申します」
「あぁ! 先生。いつもお世話になっております」
「お母さん! 申し訳ありません!」
「は? どうなさいました?」
由利はずいぶんと取り乱した美智子の電話に呆気に取られていた。その直後、信じられない言葉が由利の耳に入った。
「夏樹くんが、倒れたんです!」
「朝倉課長」
今年入社したばかりの後輩社員が祥夫を呼んだ。
「なんだ?」
「奥様からお電話です」
「なんだ。会社には電話をするなと言っているのに……。後でかけ直すと言ってくれ」
「はい」
そう伝えたようだが、すぐに「課長」と彼はまた祥夫を呼んだ。
「なんだね」
「奥様、ずいぶん取り乱されているようなんです。どうも泣かれておられるようで……」
「まったく……」
後輩社員もどうしていいかわからなさそうだったので、とりあえず祥夫は電話を取った。
「もしもし。由利か。会社には電話をかけずに携帯に連絡を取るようにとあれだけ……」
「あなた! どうしよう、どうしよう」
祥夫はいつになく取り乱した由利の声を聞いてすぐに異変を察知した。
「どうした?」
「どうしたらいいかわからないの。どうしたら……」
「泣いてばかりじゃわからんだろう。用件を言いなさい」
「夏樹が……」
「夏樹? 夏樹は今日学校じゃないか」
「その学校で、夏樹が倒れたの!」
その由利の言葉を聞いて、祥夫の頭が真っ白になった。
「おはよ〜」
午前8時20分。少しギリギリだったが陽乃は無事学校へ到着した。だが、そのカバンの中身は実は教科書とノートは普段の半分の量になっている。
「陽ちゃん!」
未華乃が嬉しそうに声を掛けてきた。
「おはよ!」
「陽ちゃんは準備してきた!?」
「もっちろん! でも……手作りじゃないんだけどね」
「あ〜……。それは家の事情だもん。手作りじゃないかとか問題じゃないよ。要は気持ちだよ、キモチ!」
未華乃はドンドン!と陽乃の肩を思い切り叩いた。
「痛いって! それより、ミカちゃんは誰にあげるの?」
「え?」
「しらばっくれようったってダメだよ?」
「えっと……」
未華乃の顔が少し赤くなる。
「誰? 誰?」
「すっ……」
「す?」
「巣鴨くん……」
「へぇ〜! ミカちゃんとお似合いだね!」
巣鴨とは1年4組にいるサッカー部1年で唯一のレギュラーを獲得した期待の新入生だそうだ。けれども、サッカー以外ではそれほど目立たないので、未華乃ならきっとOKがもらえるだろう。
「おっはよー!」
続いてやってきたのは未咲。未咲は思い切りデカい紙袋を肩にぶら下げて来ていた。
「ミサ……その袋は?」
「あぁ、これ? こっちは義理用。クラスのみんなにばら撒くの」
「ばら撒くって……」
「まぁまぁ、そんな渋い顔しないで受け取ってよ、はい!」
陽乃は強引に手渡された未咲のチョコレートを受け取った。いつもなら、これだけの量があれば夏樹にあげられたのだけれども、今年からは無理だ。
不意に夏樹のことが心配になった。でも、あんな件があった年だからきっとチョコレートの数は少ないだろうし、夏樹本人にもアレルギーの危険性は由利と祥夫から厳しく聞かされている。きっと大丈夫だ。
どこか根拠のない自信が、陽乃の中にはあった。
9時10分。1時間目は地理。日本の地理は陽乃も大好きだったので、白地図にすんなり単語が入っていく。
「京阪神工業地帯……京浜工業地帯……中京工業地帯……」
ガラガラ、とドアが開いた。遅刻した生徒だろうか、と陽乃が目をやると教頭先生が地理の先生になにやら話している。
「朝倉!」
急に自分の名前を呼ばれて陽乃はギョッとして先生二人のほうを見つめた。
「いいか、落ち着いて聞きなさい」
心臓が高鳴る。これが2月14日でなければ、そんなことは考えないのにと陽乃は嫌な思いをめぐらせていた。
「さっき、お母さんから連絡があって」
きっと違う。教科書とノートをいっぱい置いてきたから、お怒りの電話だ。陽乃はそう思うことで自分の不安を消そうとした。
「弟さんが」
「……!」
汗が出てきた。未華乃と未咲も「まさか」という表情をしている。
「学校で、倒れたそうだ」
「……っ!」
グラッとそのまま陽乃は倒れこんだ。
「陽ちゃん!」
「朝倉! おい、しっかりしろ、朝倉!」
ウソだ。
そんなの、間違いだ。
「せっ……先生」
陽乃は震えながらも聞いた。
「倒れた……原因は聞いてますか?」
「……。」
「教えてください!」
「チョコレートを食べて……倒れたと聞いている」
陽乃の顔が真っ青になった。
「失礼します!」
救急隊員が5年5組の教室に入ると、血まみれになった夏樹の座席周辺と血と汚物で汚れた夏樹の姿が目に入った。山藤先生と3組の担任の先生が夏樹の名前を何度も呼んでいるが、応答はないようだった。
「先生、後ろへ下がってください。それと、生徒さんのお名前は?」
「朝倉夏樹です」
「ナツキくん!? ナツキくん!?」
応答がない。救急隊員は今度は名前を呼びながら夏樹の体を何度も叩いた。
「ナツキくん! 聞こえるかな?」
叩きながら呼びかけても応答がない。何度も叩いたり捻ったりを繰り返す間に、突然夏樹が救急隊員の手を払い除けた。
「意識レベル100! 早急に搬送が必要!」
ようやく担架が教室へ上がってきた。クラスメイトは全員廊下へ出され、夏樹に近づくことすらできなかった。
応急処置らしいものをこなしながら、あっという間に夏樹が担架と一緒に下へ降ろされた。
「待ちなさい! 岡本さん、飯沼さん!」
明日香と水穂が手を繋いで同時に階段を駆け下りて行った。2組の先生が止めるのも聞かず、あっという間に姿が見えなくなった。
「ちぃ!」
優翔に呼びかけられて、呆然としていたちひろが優翔のほうを向いた。
「俺たちも行くぞ!」
優翔に手を引かれるがまま、ちひろは駆けていく。
「待ちなさい! こら、ちょっと!」
後に続くように恭輔、敬吾、萌、麻里が走って階段を降りていった。
玄関へ降りてすぐ、水槽の前に吐き出された物と鼻血の跡が続いていた。
「ウッ……!」
あまりの悲惨さに萌と麻里が鼻を覆った。
「夏樹!」
優翔が我慢できずに救急車の中に飛び込んだ。
「夏樹! 夏樹!」
何度呼んでも応答がない。目も閉じたままで、ピクリとも動かない。
「なぁ、なぁ! 夏樹ってば!」
優翔が半泣きで何度も夏樹の体を揺すった。
「坂上! 離れなさい!」
山藤先生がようやく追いついて、優翔の体を無理やり夏樹から離した。
「やだ! 俺も行く! 俺も救急車に乗っていく!」
「ダメだ! お前は学校にいなさい!」
「先生! お願い、あたしたちも乗せて行って!」
ちひろも泣きながら山藤先生にしがみついた。明日香、水穂も同じように請い続ける。
「今はダメだ! 早く救急車が出ないと、朝倉が……どうなるかわからないんだぞ!」
その言葉に全員が黙り込んだ。
「よろしいですか!?」
「大迫先生、急いで!」
美智子がスリッパのまま救急車に乗り込み、そのまま扉が閉められた。サイレンと共に救急車が校門を出ていく。「七海市救急医療センター」の字が書かれた救急車がどんどん小さくなっていく。サイレンの音も遠くなった。
「大丈夫だから……。きっとすぐに良くなるから、みんなは教室に戻ろう?」
3組の先生に促されて水穂たちは泣きながら教室へ向かおうとした。彼らのその耳に、ガシャン!という音が聞こえたのはすぐ後だった。
「ありがとう! 用務員さん!」
「おっ、岡本!?」
明日香が今しがた作業から戻ってきた用務員さんの自転車に跨って、校門に向かって走り出した。
「いま行くよ、なっちゃん!」
明日香は全員の声などさっぱり耳に入らず、自転車をただ必死にこぎ始めた。
待合席では合流した由利と祥夫が夏樹を搬送している救急車をジッと待っていた。
「来た!」
サイレンの音がして、看護師と医師が慌しくその周りに駆け寄る。あの時もお世話になった中島医師と三浦看護師もいた。
「夏樹ぃ!」
由利が運ばれてくる夏樹を呼びかけたが、あの時と違い反応がない。
「由利! よしなさい、今は治療が一番だ」
その夏樹の後に、美智子と山藤先生が入ってきた。由利は間髪いれず美智子に詰め寄り、大声で叫んだ。
「なんで……なんで学校にいてこんなことになるのよ! チョコレートを学校に持ってこさせるなんて、どういうこと!?」
「やめなさい、由利!」
「あなたからも何か言ってよ! あれほど気をつけてってあなた、言ったでしょ!? なのになんでよ!」
「落ち着きなさい、由利!」
「ああああ〜……!」
由利は祥夫に抱きついて大声を上げて泣き出した。
「陽乃さんのお母様ですか?」
男性の声に振り向くと、泣きながらしっかりとその人に抱きついている陽乃の姿が目に入った。
「陽乃! どうしたの?」
今度は涙もそのままに、由利は陽乃の両肩をしっかりと握った。
「弟さんの件を聞いてショックを受けて、少し取り乱していて……」
男性は陽乃の担任である岩後先生だった。わざわざ車で陽乃をこの医療センターまで連れてきてくれたのだ。
「弟さんは?」
岩後が心配そうに聞く。祥夫が「いま、集中治療室で……」とだけ返した。
「そうですか……。すいません、私、学校へ戻らなくてはならないので……」
「いえ、わざわざありがとうございました。陽乃、先生にお礼を言いなさい」
「せっ……んせい、あっ……りがとう」
岩後はニッコリ笑って「大丈夫だ。弟さん、朝倉みたいに強いだろう? きっとすぐに良くなるよ」と言ってから由利たちにもお辞儀をし、すぐに学校へ戻っていった。
「……。」
沈黙が続く。待合席の時計の針の音だけが聞こえてくる。その沈黙を破るように、表で何かがガシャン!と倒れる音がした。その音に驚いて3人が顔を上げると、自動ドアが開いて誰かが入ってきた。
「あっ……!」
「明日香ちゃん!?」
それは、泥だらけになった明日香だった。
「どうしたの!? 学校は!?」
由利が驚いて泥を払いながら明日香に聞く。
「学校なんていつでも行けます! なっちゃんのほうが私、心配なんです!」
「そうは言っても、きっと学校もご両親も心配するわよ」
「大丈夫です。いま、ケータイでお母さんに病院に向かうって連絡したので」
明日香は携帯電話の発信履歴を由利に見せた。
「なので、私もここで待たせてください」
「でも……」
「由利」
祥夫が俯いたままだったが、はっきりこう言った。
「待ってもらいなさい」
「……そうね。明日香ちゃん、隣に座って」
「はい!」
由利の隣に明日香も座って、由利、陽乃、祥夫、美智子、山藤先生の6人はただひたすら夏樹の治療が終わるのを待ち続けた。
緊急処置を受ける夏樹を待つ家族。果たして、2度目になる治療はどうなるのでしょうか……。
意識レベル:意識レベルとは『意識の明瞭度』『意識の内容』の二つを数値的に現すためのグラフみたいなものです。意識レベルを表すのにはJCSとGCSがあります。ドラマで『意識レベル300です』と言ってるのはJCSです。JCSは日本だけで使われている指標で、GCSは世界共通になります。JCSのレベルは9段階に分かれています。
意識レベル0、清明(普通の意識がしっかりしている人)
1、大体意識清明だが今ひとつはっきりしない
2、見当式障害がある(場所などがわからない)
3、自分の名前、生年月日が言えない
10、普通の呼びかけで容易に開眼する
20、大きな声または身体を揺さぶることにより開眼する
30、痛み刺激を加えつつ呼びかけを繰り返しかろうじて開眼する
100、痛み刺激に対して、払い除けるような動作をする
200、痛み刺激で少し手足を動かしたり、顔をしかめる
300、痛み刺激に反応しない
となっております。