第32話 血染めの席
「……!」
夏樹が靴箱を開けると、箱が転がり落ちてきた。
「あんなことあっても……俺にこんなのくれる人いるんだ」
そう思うと夏樹は少し嬉しくなった。
月曜日。ただそれだけなら、男子も女子もなんら変わらない週明けの日を過ごすだろう。しかし、今日は違う。
2月14日だ。言わずと知れた、バレンタイン。
夏樹は転がってきた箱の裏を見た。差出人の名前があるかと思ったが、残念ながら「5年5組」と書かれた字が辛うじて見えるだけで、名前の部分は油性ペンで消されていた。
「まぁ……受け取っときますか」
夏樹は少し嬉しそうに笑い、教室へ入った。
「おはよ〜」
夏樹がそう言ったところで、別に返してくれる人はいない。
教室へ入ると、予想どおり男子も女子もザワついているようだった。夏樹は黙って席に着き、その様子を見守る。
去年は萌や麻里もチョコレートをくれたが、今年は期待できそうにない。別に夏樹は期待などしていなかったが、こうした行事が好きな夏樹は少し寂しく感じていた。
「あの……」
夏樹は自分を呼んでいるのかと思い後ろを振り返った。すると、水穂が箱を片手に立っているのだ。
「おはよ! どした?」
「あの……これ。手作りなんだけど……その、バレンタインだし……」
「えっ……」
嬉しかった。けれど、夏樹には先ほどのチョコも合わせてもらったところで食べられない理由があった。
チョコレートアレルギーだ。
「あ、ありがとな! でも……」
「……?」
「あーっ! 飯沼が朝倉にチョコあげてるー!」
二人が驚いて振り返ると、男子生徒がよってたかって夏樹の周りに集まっていた。
「やー、こーんなクラスでもチョコもらえるなんてうらやましぃ〜!」
「飯沼も物好きだよなぁ」
それを聞いているクラスメイトたちがクスクス笑う。水穂は慌てて箱をしまって言った。
「ゴメン……。迷惑だよね」
その表情は、夏樹の胸が痛むほど悲しげだった。
「そ、そんなこと……!」
動いた拍子にランドセルにしまったはずの靴箱に入っていたチョコレートが落ちてきた。
「あっ!」
「うわぁ! 見ろよ、朝倉のヤツ! もうチョコレートもらってるのに飯沼のチョコは断る気だぞ!」
「やー! 飯沼と仲いいのになぁ。なんでもらってあげないの〜?」
夏樹は真っ赤になってしまった。水穂は「やめてよ。やめて!」と叫ぶが、男子生徒たちは茶化すのをやめようとはしない。
「あ! わかった、そのチョコ絶対岡本からのんだぜ!」
「あー、なるほどね! 本命からチョコもらったんだから、他の女子からはもらえないよなぁ」
夏樹の周りをないことばかり言い続ける男子生徒たちの言葉が飛ぶ。我慢しきれず、半ば強引に夏樹は水穂の持ってきたチョコレートの箱を開け、しばらく見つめた後そのチョコレートを頬張った。
「なっちゃん……!」
明日香が同時に教室へ入ってきた。
「なんで!? なんで! ダメじゃん! お姉さんと約束したんじゃ……」
「平気だよ」
優しい目で、夏樹は明日香にそう言った。
「俺なら、大丈夫だから。な?」
「……ホントだよね?」
明日香はもう一度、聞き返した。
「あぁ」
水穂や男子たちは意味がわからず、ただ呆然と二人の会話を聞くしかなかった。ちひろは、少し離れたところからその様子を見守っていた。
「それで、こういう言葉を接続詞って言うんだけれども……」
1時間目、国語。まだ元気な生徒たちは熱心に授業を聴いていたのだが、夏樹はもうそれどころではなかった。
腹痛がスゴいのだ。ただ食べ過ぎたときの腹痛ではない。ズキン、ズキンと全身に響くような腹痛。脂汗も出てきている。
(やっぱ……やばかったかな)
夏樹はおなかを押さえながらなんとか腹痛が収まるのを待っていた。
「え――?」
夏樹のノートに赤い斑点がポタポタとこぼれてきた。
「ウグッ……」
夏樹の右隣には麻里が座っている。その耳に聞いたことのない夏樹の声が聞こえた。それに反応して左を向くと、夏樹が激しく嘔吐してノートが嘔吐物で汚れた瞬間が見えた。それからすぐに真っ赤な何かが口から吐き出された。
「ゲボォッ! グエエエエッ!」
激しく嘔吐し、血も混じってあっという間にノートや教科書、筆箱が汚れていった。
「きゃあああああああああ〜!」
麻里と夏樹の左にいた女子が悲鳴を上げた。美智子が振り向くと、床と机一面に夏樹の血と嘔吐物がぶちまけられた後だった。
「朝倉くん!?」
「ゲオゲホゲホッ! オエエエッ……ゲボッ!」
美智子が近寄るより前にさらに嘔吐し、夏樹は椅子ごと倒れてしまった。吐き出された血が麻里のスカートを汚した。
「イヤアアアアアアアアッ!」
水穂、明日香、萌。ほとんどの女子生徒が悲鳴をあげ、青ざめている。男子生徒は呆然と立ち尽くすばかりだ。
「あぁ……あぁ! 朝倉くん、どうしたの! しっかりして! 朝倉くん! ど、どうしよう。どうしよう……!」
美智子もオロオロしてすっかり平常心を失っている。
「ゼェー……ゼェー……」
息が苦しいのか、喘息のような症状も出てきた。鼻、口と両方から血がしきりに出ている。
「先生、どうしま……ウッ!?」
4組の担任である山藤先生が悲鳴を聞きつけて教室内に入ると、血に染まった夏樹の服、机、椅子や床が目に入った。
「先生! 先生! しっかりして! すぐに救急車を呼びに行ってください!」
「……。」
「大迫先生!」
「あぁ……救急車……そうですね、はい!」
それからようやく、美智子は職員室へ向かって走り出した。
(あぁ……またか。怒られるかな……姉ちゃんに父さんに……母さんに……)
夏樹はクスッと笑った。家族の顔が頭をよぎる。
(でも……最期に食べたのが水穂のチョコで……うれしか……)
そこで、夏樹の意識は途切れた。
「なっちゃん……」
明日香がヨロヨロと水穂と一緒に夏樹の近くへ寄った。返事がない。さっきまで起きていた痙攣も、嘔吐もない。
「なっちゃん……返事して、お願い!」
「飯沼さん、岡本さん! 下がって、寄っちゃダメだ!」
山藤先生が制止するが、二人は言うことをきかない。
「なっちゃん!」
「夏樹くん!」
「起きて!」
「返事して!」
「なっちゃ――ん!」
明日香の声が教室中に響き渡ったが、その声が夏樹の耳に届くことはなかった。
再び襲った悪夢。二度目のアレルギーを引き起こした夏樹は……。




