第19話 消えた席
新学期。夏樹はご機嫌で家を出て学校へ向かった。今日からまた学校だと思うと、楽しみで仕方がない。
体育も頑張りたいし、ちょっと最近わかるようになってきた算数も頑張りたい。体育大会もある。張り切ってリレーにでも出ようか。
夏樹はそんなことを考えながら教室へ勢い良く入った。
「おっはよー!」
しかし、その夏樹を見つめるクラスメイトの視線はかなり冷たいものがあった。女子がヒソヒソと話す声も聞こえる。
「え……。何? みんなどうし……」
夏樹は黒板を見て愕然とした。
『衝撃! 朝倉夏希と岡本明日香はデキてた! 図書館前のバス停でイチャつく二人☆ チュー☆』
「……なんだよ。なんだよこれぇ!」
夏樹が悲鳴に近い声を上げてクラスメイトのほうを見た。
夏樹は冷静になって黒板の字を見つめる。よく見れば、夏樹の「樹」の字が「希」になっている。こんな間違いをするのは一人しかいなかった。
「嘉村ぁ!」
夏樹は思い切り恭輔の胸倉を掴んだ。
「んだよ! 俺がやったって証拠でもあって?」
「お前、オレの字いっつも間違えるだろ!」
「……チッ」
恭輔は開き直った様子で舌打ちをした。
「何でだよ! 早く消せ!」
「うるせーなぁ。そんな必死になって。バス停でお前らが仲良くしてるの見たから書いてみただけじゃん」
「……!」
夏樹は掴んでいた手を放し、黒板消しを握って書かれた落書きを必死に消し始めた。
「それにしても、そんな必死になって……やっぱお前らデキてんじゃねーの!?」
それに反応して男子が笑い出した。女子もクスクス笑っている。すると、夏樹の目の前に何かが飛んだ。
「へ?」
黒板消しだ。それがフワリと夏樹の頭上へ浮いて、あっという間に夏樹の足元へ落ちてきたかと思うと夏樹はそれを蹴り飛ばし、見事なコントロールで恭輔の腹部に黒板消しを直撃させた。
「うっひゃあ!」
恭輔の赤いTシャツが真っ白になってしまった。まるで日本の国旗の色が逆転したみたいな色になってしまった。
「消せ」
「何すんだよ! シャツ汚れたじゃんか!」
恭輔は半泣きになっている。すると、周りから夏樹を非難する声が聞こえてきた。
「ヒドいよな。何も黒板消し投げつけなくても」
「だいたい、ちぃちゃんのことフッといてよくも付き合えるね」
「デキてるのを否定するのも、岡本がかわいそうだよなぁ」
夏樹は泣きたくなってきた。しかし、泣くわけにはいかない。
蹴り飛ばした黒板消しを拾い、夏樹は残った落書きを無言で消し続けた。
その日から、夏樹を露骨にクラスメイトは避け始めた。男子は給食の時間以外はまるで夏樹がいないかのような扱いをする。体育の時間でも仕方なくペアを組んでいるが、口は利いてくれない。授業中も一応先生にバレないようにするために皆それなりに夏樹に接するが、先生がいないところでは無視を続けた。
あろうことか、ちひろまで夏樹を避けるようになったのだ。もうクラスの中で夏樹と普通に接してくれるのは明日香だけになっていた。しかし、夏樹と接すれば明日香もいつかとばっちりを喰らうのではないかという不安が夏樹の中で悶々としていた。
「朝倉くん……」
初日の5時間目でもうすっかり体力も精神力も消耗した夏樹はゆっくりと顔を上げた。
「なんか……皆の様子が変だけど、ケンカでもしたの?」
「ううん! そんなんじゃないよ……」
ヒソヒソと女子がこちらを見て話をしているのを感じた夏樹は慌てて立ち上がった。
「ちょっと、どこ行くの?」
「ゴメン……トイレ行ってくるよ」
「あ……うん」
夏樹は明日香の返事を聞く前に走り出していた。
次の日、夏樹が登校してくると机一面に赤いチョークで落書きがされていた。相合傘の左側に朝倉夏樹、右に朝倉明日香と書かれていた。その隣には女たらし。小悪ま(魔が難しくて書けないらしい)なんてのも書いてあった。
夏樹は恭輔や敬吾が既に登校していたので、きっと彼らの仕業だろうと思ったが特に反応もせず、雑巾を持ってきてゴシゴシとそれを落として席に着こうとして、背筋が凍る感じがした。
椅子にまでビッシリ落書きがされていたのだ。
学校へ来るな
女たらしが伝染る!笑
アスちゃんチューしてー!
「……。」
夏樹はもう一度雑巾を取りにランドセルを置いて廊下へ出た。出ている間に何かが落ちた音がして、教室へ帰ると筆箱がひっくり返されて中身が全部飛び出していた。
翌日。図書室へ本を借りに行くと夏樹のクラスが図書担当だった。
「あの……これ、借ります」
夏樹がそっと本を差し出すと、二人の女子は目配せし始めた。
「ねぇ、マリちゃんが判子押してよ」
「やぁよ。メグが押して」
「やだ。なんか伝染りそうじゃん」
「ちょっと、聞こえるってば」
「聞こえるように言ってるんじゃん」
信じたくなかった。その子たち――中塚麻里と新庄萌は去年のバレンタインデーにチョコレートを夏樹にくれたのだ。もちろん、夏樹だってホワイトデーにお返しをした。
「……ありがと。もういいよ」
夏樹は表情を変えず、その本を元へ戻しに本棚へ行った。
教室へ帰ると、給食の時にはあったはずの夏樹の机がなくなっていた。
「あれ?」
明らかにおかしい空席。机も椅子もない。
「あれ?」
キョロキョロと周囲を見渡す。すると廊下から声が聞こえてきた。ちひろたちの声だ。
「やっだー! 大きなゴミだね、ちひろちゃん!」
「アッハハハ! ホント、チョー邪魔だよね!」
夏樹が廊下へ出ると、放り出されて引き出しの中身がグチャグチャになった夏樹の机があった。
「……。」
夏樹は無言で机に近寄り、グチャグチャになった引き出しを片付け始めた。そこへ、明日香が戻ってきた。
「ど、どうしたの……これ」
「なんでもないよ」
夏樹は努めて笑顔で答える。
「なんでもないハズないじゃん。こんなになって……」
明日香が片づけを手伝おうとして手を差し伸べた瞬間、夏樹がそれを思い切り払い除けた。
パシッ!と乾いた音がして、明日香の持っていた自由帳と筆箱が宙を舞い、廊下へ落ちた。
「……朝倉くん?」
「……。」
「ねぇ、どうしたの? 変だよ、絶対変!」
「うるせぇな!」
夏樹の大声に明日香もちひろもビクッと体を震わせた。
「俺に関わるな」
明日香は呆然と夏樹を見つめていた。
「なんで……なんで急にそんなこと言うの?」
「……。」
「ねぇ!」
「俺、お前なんか嫌いだもん」
「へ?」
夏樹は少し間を空けて、ハッキリと言った。
「岡本なんか、嫌いだから」
ちひろ、恭輔、敬吾、図書室から帰ってきた麻里、萌――。誰もが呆然と立ち尽くしていた。
「……そう」
明日香は表情ひとつ変えず教室へ入り、夏樹も表情ひとつ変えず机を元へ戻しに教室へ入った。
5時間目は算数。眠たくなるハズなのに、今日は全然だ。誰とも目を合わせず、夏樹はなんとなくボーッとしながら算数の授業を受けていた。美智子の声が聞こえるけど、何を言っていたか繰り返せ、と聞かれたらきっと答えられない。
明日香のほうを見た。席替えで、夏樹は窓際一番後ろの席。明日香は廊下側一番前の席。端と端になってしまい、目が合うこともない。合わせることも無理だ。しかし、夏樹は明日香の背中をジッと見ることはできた。
やっぱり髪が綺麗だな。麻里や萌、ちひろとは比べ物にならないぐらい、綺麗な艶のある髪をしている明日香は、夏樹にとって胸をドキドキさせるものだった。それに、他の女子クラスメイトと比べると、陽乃と一緒ぐらい胸元がふっくらしているのも夏樹をドキドキさせた。
その時だった。
グラッと明日香の体が傾いたように見えた。
(え?)
頭を抱える明日香。明らかに様子がおかしい。
「先生」
夏樹は思わず手を挙げてしまった。
「はい、なぁに、朝倉くん」
美智子が振り向いた瞬間だった。ドサッと音がして、明日香が横様に倒れた。
「キャーッ!?」
隣の席にいた飯沼水穂が悲鳴をあげた。
「岡本さん! どうしたの!? 岡本さん!」
夏樹は鉛筆も放り出して明日香の元へ駆け寄っていた。
「岡本! 岡本!」
「頭……痛い」
「大変……! 朝倉くん、保健室へ連れて行くわよ!」
「え? 俺も?」
「あなた、保健委員でしょ! しっかり、ホラ、岡本さん支えて!」
「あ、はい!」
夏樹は明日香の体を支えて歩き出した。
「飯沼さん! あなたも手伝って!」
「は、はい!」
「他の子たちは自習をしてて! いいわね!」
クラスが急にざわめく中、夏樹たちは急いでそこを出て保健室へ向かった。
「……熱はないわね」
保健の高田先生が体温計を見て不思議そうな顔をした。
「岡本さん、最近夜は何時くらいに寝てる?」
「9時半には……」
「5年生にしては早いほうね。ってことは、寝不足ではないみたいね」
高田先生は夏樹のほうを見て困惑したが、仕方がないといった様子で聞いた。
「岡本さん、アレはもうなった?」
「え……言わないとダメですか?」
「なってるか、そうでないかだけ教えてくれればいいの」
「な……なりました」
カァッと明日香は顔を赤らめた。隣で水穂も少し赤くなっている。
「そう。いいの。それは普通だからね」
「アレってなんですか?」
夏樹が大声で聞いてきたので、高田先生はこう返した。
「男の子は知らなくっていいの」
「そうそう」
水穂が隣でうなずく。
「女の子同士の話なんだから」
明日香が笑った。
「わかったよ」
夏樹は少し不服そうに、けれども少し嬉しそうに笑った。
「……。」
水穂が複雑な顔をする。
「どした? 飯沼」
夏樹がいつもの笑顔で水穂に問い掛けると、一気に水穂は泣き始めた。
「うわわわ、ど、どしたんだよ、飯沼!」
美智子も高田先生もただただ驚くばかりだ。
「ゴメンね、ゴメンね」
「どうしたの? 飯沼さん」
美智子が優しく問い掛ける。
「先生……朝倉くんが……」
ドキッとした。それを言うと、間違いなく水穂もイジメられる。明日香もその対象になりかねない。
「お、俺も頭痛がします!」
「へ?」
水穂が唖然とした。
「ウソおっしゃい! そんな風には見えないわね!」
美智子がトントンと軽く夏樹の頭を叩いた。
(言うな)
夏樹は人差し指を水穂のほうへ向けた。
「ほら、飯沼さんもいつまでも泣いてないで。そろそろ教室へ帰ってなさい。先生もすぐに戻るから」
「だってさ、飯沼。先行こうぜ」
「で、でも……」
「ほーら! 行くぞ!」
夏樹は強引に水穂の手を引いて保健室を出ようとして、最後に明日香にこう言った。
「岡本。ゴメンな。さっきの、ウソ」
夏樹が手を合わせて謝った。
「……わかってるよ」
明日香は優しく微笑んで、手を軽く振った。
「朝倉くん……なんで言わないの?」
水穂が半泣きで夏樹に聞いた。
「何を?」
「イジメられてるって」
それっきり、夏樹は黙り込んだ。水穂も口を開かない。
「ねぇ、なんで?」
「イジメられてるって、俺が思ってないから」
「……そんな風には見えないよ」
「いいんだ。俺がそう思ってるんだから」
「でも私、見てるだけなんてできない」
「大丈夫だよ。俺は、負けない」
夏樹はグッと強く右手を握り締めた。
「飯沼は……普通に過ごしてればそれでいいよ」
「そんなのできない」
「できるさ」
夏樹は優しく水穂の頭を撫でた。
「耐えられなくなったら、俺のほうから先生に言うさ」
「……絶対だよ?」
「あぁ」
夏樹は階段を上がりきったところで、水穂に先に行くよう指示した。
「なんで?」
「イジメられてんだろ? 俺。一緒に帰ってきたら変だし」
「そんな……」
「いいから、行って」
水穂が寂しそうに、先に歩き出した。その後を、夏樹が追う。
「俺は、負けない」
夏樹はそう誓った。
突然始まった夏樹へのイジメ。明日香を巻き添えにしたくないがゆえに言い放った言葉。イジメを訴えようとする水穂。それぞれの気持ちが交錯していく中、ますます混迷を極めるようになり……。




