第17話 即席
チリンチリン……と風鈴が風流な音を立てる。といっても、その風鈴の音色は夏樹の寝ている部屋から聞こえているのではない。隣にいる姉・陽乃の寝ている部屋から聞こえている。昨日の晩のお祭り(といっても、5時間ほどしか経っていない)で友達とおそろいのを買ったと嬉しそうに言っていた。
あのケンカの後、夏樹はとりあえず土で汚れた明日香を知恵子の家へ連れて帰った。知恵子はかなり驚いて「いい浴衣なのに転んだんだね。人が多かったのかい?」と聞いたので夏樹は「多すぎて押されて転んじゃったんだ」と説明しておいた。ケンカしただなんて、とても言えなかった。
それから明日香が自宅へ電話し、彼女がお風呂に入っている間におばさんが服を持って迎えに来た。
「あら、あなたが朝倉くん?」
「え……はい」
突然話しかけられたので夏樹も戸惑ったが、明日香の母親であるおばさんが挨拶をしてくれた。
「あたし、明日香の母で岡本玲子と申します。おばあさんにもお世話になっちゃって……何かお礼しないといけないね」
「あ……そんな。俺のせいで転んじゃったようなもんですし」
「またまた〜! 君は紳士だね、朝倉くん」
夏樹は玲子の手でクシャクシャと頭を撫でられた。知恵子の撫で方とはまったく違う撫で方だったが、嫌ではなかった。
「あ、お母さん!」
「ほらー、明日香! アンタはまた転んで。どれだけ転んだらおしとやかになるんだろうねぇ」
玲子は呆れた様子で明日香の頭をパンパンと叩いた。
「痛いよ〜、お母さん」
「それより、朝倉くんにお母さん、新幹線で会ったときにご挨拶できてなかったから、しておいたよ?」
「さっすがお母さん!」
明日香がニッコリ笑うと玲子もニッコリ笑った。やっぱり親子だ。笑った顔がそっくりだった。けれども、夏樹がドキッとしたのは当然ながら明日香の笑顔だった。
それからドキドキが収まらず、夏樹は寝付けずに今に至っていた。午前2時。いつもなら起きているはずのない時間だっただけに、余計に焦ってイライラする。そのうち蚊が入り込んできたらしく、耳元でプゥゥン、プゥゥンと言われるのでますます寝付けないようになっていた。
「お茶飲んでこよ……」
夏樹が寝ている部屋のドアを開けると、ギィィィと音がした。知恵子の家はかなり古いので、1回1回の動作でも大きな音が立ってしまう。
「夏樹?」
陽乃が起きてきた。
「姉ちゃん」
「どうしたの?」
心配そうに夏樹を見つめる。きっと陽乃の目には“あの時”のことがよぎっているのだろうと夏樹は感じていた。
「眠れなくって。お茶飲みに行くだけだよ。お菓子は食べない」
「そう……。それならいいけど」
「まだ2時だし、姉ちゃん寝てなよ」
「うん。それじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
陽乃がドアを閉めたのを確認してから夏樹は下へ降りた。真っ暗の居間に街灯の青い灯かりが差し込んでいるので、電気を点けるほどでもない。
「汗かいちゃった……」
夏樹は汗を拭おうと洗面所へ向かう。足元に何か、ちょうどタオルらしいものが当たったのでそれを手にして額の汗や胸のあたりの汗を拭った。
「タオルにしてはなんか穴があって変なの」
夏樹は凝視するが、それがタオルであるようにしか見えない。とにかく電気を点けて確認してみることにした。
「!?」
電気を点けると目に映ったのは、花柄のパンツ。そして、内側に「岡本明日香」の名前。
「うひゃああああああああ〜!」
「ちょ、何よ今の声!?」
陽乃が驚いてバタバタと下へ降りてきた。知恵子も同じように1階の和室から驚いて出てきた。
「夏樹!?」
陽乃の視線の先には洗面所で顔を真っ赤にしてひっくり返っている夏樹がいた。
「やだ! おばあちゃん! 夏樹ったら女の子のパンツ持ってひっくり返ってるよ」
「えぇ!? やだねぇ、破廉恥な子だよ」
知恵子はパンツを夏樹の手から取って明日香の名前を確認してから、彼女の忘れ物であることに気づいた。
「ん……」
夏樹が気づくと、見たことがない場所に寝かされていた。
「あ、気づいた?」
陽乃が夏樹の額に当てていたタオルを取り除いた。
「姉ちゃん」
「アンタ、洗面所でひっくり返ってたよ」
「……。」
間違いなく、夏樹の手には明日香のパンツの感触が残っていたのでまた赤くなってしまう。しかし、陽乃に説明できるはずもない。
「おばあちゃんが暑さでひっくり返ってるアンタを見つけたんだよ。もう、スゴい音がしたんだから」
「え?」
声を上げた覚えはあっても、物音を立てた覚えはなかっただけに夏樹は違和感が残った。
「まったく、心配かけすぎ」
陽乃は夏樹にデコピンを喰らわせた。
「姉ちゃん」
「なに?」
「それより、ここどこ?」
「おばあちゃん家のロフトを上がって出た屋根の上」
「ロフト? おばあちゃん家にそんなシャレたものあったの?」
「おじいちゃんが作ったんだって。定年後……仕事辞めた後に業者に頼んで」
夏樹はそんなことはまったく知らなかった。サッカーに忙しく、知恵子たちを訪ねる機会も減っていたからだろうか。
「なんていうのかな、即席の展望台?とかっておじいちゃんは言ってたよ」
「即席の?」
「うん」
陽乃はゴロンと瓦屋根に寝転んだ。真っ暗な空が陽乃の視界に映る。
「ロフトを作りたいっていうよりは、屋上への出入り口が欲しかったんだって。それでこんなロフト作って、定年後はここで楽しむんだって言ってたんだってさ」
「ふぅん……」
知恵子は夫である公俊を2年前に肺ガンで亡くしていた。それ以来、この家で一人で暮らしている。時々知恵子も屋上へ上がって空を見ていたそうだが、年を取ってきて危なくなったために由利や祥夫から禁止されてしまって以来、陽乃と夏樹を上がらせるようにしていた。
「夏樹さぁ」
「なに?」
「神社の火の見櫓に明日香ちゃんと二人きりで上がってたでしょ?」
「……なんで知ってるの」
「未華乃が見たって言ってたわ。スゴくお似合いで悔しいくらいだったって」
「……そう」
「やっぱさ」
陽乃は夏樹と目を合わさずに続けた。
「夏樹、明日香ちゃんのこと好きなんでしょ?」
「……。」
夏樹はいきなり核心を突かれて黙り込んでしまった。
「言っちゃいなよ。好きだって」
「言ってどうするのさ」
「結果はわからないよね。フラれるかもしれないし、逆に明日香ちゃんだって夏樹のことが好きかもしれない」
「……。」
「言わないと今のままだけどね。でも、明日香ちゃんとずーっと一緒にいれるって保障もないし」
夏樹にはホショウという言葉の意味がよくわからなかったが、確かにずっと一緒にいれるわけではないのは彼も十分理解していた。
「おじいちゃんだって……そうだったじゃん?」
陽乃は公俊のことを思い出した。彼女は公俊が本当に口うるさかったので大嫌いだと両親にも公言していた。しかし、公俊は陽乃以外の家族が揃って祖父母宅を訪れるのが本当に寂しいのだと夏樹によく漏らしていた。
間もなくして、公俊が倒れた。突然のことだった。病院ではずいぶんと前から指摘されていたそうだが、適切な治療もせずガンは末期症状にまで進行し、結局亡くなるまで時間はかからなかった。
それから陽乃が心変わりしたかのように毎日、公俊のいる病院へ通いだしたのだ。夏樹もよく覚えている。学校をサボッてまで病院へ行っていたのだ。公俊が亡くなるまでの2ヶ月間。小学校側から何度も連絡を受けた両親は彼女を探すことはしても、叱りはしなかった。もちろん、初めはキツく叱ったが、小学生だったにも関わらず陽乃はこう言ったのだという。
今までの罪滅ぼしをするの。
あたし、おじいちゃんにヒドいことをした。
おじいちゃんはあたしを好きでいてくれたのに。
あたし、その気持ち無視した。
だから、あたしが今度はおじいちゃんに優しくする番。
そして、それから毎日陽乃は公俊の元に通った。学校へはきちんと通うと両親と約束して、放課後から面会可能な午後7時まで。日に日に痩せていく公俊を目にしても、逃げずに陽乃は毎日彼の元へ行き、学校であったこと、家であったこと、いろんなことを公俊に話した。
亡くなった日。
陽乃はずっと泣きっぱなしで目が真っ赤だった。夏樹は当時9歳。人の死という感覚がまだよくわからなかった。でも、公俊がいなくなったことくらいはわかっていた。だから、涙は出たが陽乃があんなに泣いていた理由はよくわからなかった。
「あたしが気づいた頃にはもう手遅れ。どんなに気持ちを伝えても……おじいちゃんに伝わったかなぁ、あのときの気持ち。説明しろって言われても無理だけど……でも、とりあえず、おじいちゃんが本当は好きだった。反抗期だったのかな。かわいくないな、あたし」
陽乃の声が震えだした。夏樹はあえて陽乃の顔を見ず、空を見上げたままだった。
「もう5年生も半分終わるよ。6年生に、明日香ちゃんと同じクラスになれるっていう保障はないよ?」
夏樹はなんとなく、ホショウの意味がわかった気がした。
「……ま、後は夏樹次第だけどね」
陽乃はスッと立ち上がってロフトのほうへ歩き出した。
「あたし、部屋に戻るね。夏樹も風邪引かないようにホドホドにして戻りなよ?」
「わかった」
「じゃ……おやすみ」
陽乃は静かにロフトへ降りていった。
「……。」
夏樹もしばらく空を見上げた後、すぐにロフトへ降りていった。
「後悔はしないよ。姉ちゃん」
夏樹はそう呟き、屋上への戸を閉めた。
陽乃の言葉をきっかけに何かを決意した夏樹。夏休みが過ぎ行く中、夏樹の周りが劇的に動き始める……。