第16話 俺の特別席
「食べ終わっちゃったね」
明日香は食べ終わったチョコバナナの棒を寂しそうに見つめている。夏樹はというと、さっきから間接キスのことばかり考えていてちっとも話に集中できない。
「ねぇ、これからどうする?」
「えっ?」
夏樹は明日香に覗き込まれて初めて自分が話を聞いていなかったことに気づいた。
「もう。さっきからなっちゃん、ずっと話聞いてくれてないんだもん」
「ご、ごめん……」
「別にいいけど。もしかして、チョコレート食べられなくなったの、ショックだった?」
「それはあんまり関係ないかな」
「そう。なら、いいんだけどね」
また沈黙。
せっかくのお祭りなのに、ギクシャクする理由が夏樹にはよくわからなかった。
(ひょっとして……楽しくないとか)
夏樹はそう思うと何か行動しないといけないのではないかと考えてしまった。今度はソワソワ落ち着かなくなってくる。
一方の明日香はただボーッと前を見つめているだけ。会話もなく、ただただ時間が過ぎていく。
(よく考えたら……バナナもらったのにお返ししないとまずいよな)
ふと夏樹はそう考えた。明日香へお返しをするには何がいいか。
食べ物はもういいだろう。夕食は多分、明日香のことだから食べている。だからおやつみたいなチョコバナナを買ったのだろうし、太ったら嫌だろう。なのに食べ物をおごるのは嫌がらせみたいで、夏樹も嫌だった。
スーパーボールすくいや金魚すくい。小さい子どもたちでいっぱいだからなかなか男女二人きりだとやりにくいものがあった。それになにか、恥ずかしい気もしていた。
射的や輪投げもあったけど、夏樹は超がつくぐらいの下手くそだった。明日香の前だとかっこ悪すぎてできやしない。
ふと夏樹がどうしようかと空を見上げると、綺麗な夜空が見えた。
「これだ……」
「え? 何?」
「岡本、高い所は平気?」
「うん。大丈夫だけど」
「さっきのチョコバナナのお返し、させて!」
「え? お返し?」
「ついて来てくれる?」
夏樹はそっと明日香の前に手を差し伸べた。
「……わかった」
明日香がその手を握り返した。夏樹の手は、少し男の子らしい大きな手をしていた。
夏樹がギュッとその手を握り締め、ゆっくりと雑踏の中、明日香をしっかりと引いてくれた。
「着いた」
そこは神社から少し離れた森の中にある火の見櫓だった。
「なに? これ」
「おばあちゃんが言ってたんだけど、昔はこの神社にあるこの火の見櫓っていうヤツで火事が起こったら場所を調べたらしいんだ。今は使われてないけどね」
夏樹はガサガサと背の低い木や草を掻き分けて中へ入っていく。
「大丈夫なの?」
明日香は心配そうに後を追いながら聞いた。
「何が?」
「勝手に入って」
「心配いらないよ。俺、神主さんと知り合いだし、いつも入ってるとこも見られてる。暗黙の了解ってところかな」
「難しい言葉知ってるね」
明日香がクスクスと笑った。思わず赤くなる。
「バカにすんなよ」
恥ずかしさを押し隠すようにしてそう言うのがやっとだった。
夏樹はグイッと明日香の手を引いて火の見櫓の前に立った。さっきまで聞こえていた雑踏や祭り太鼓の音が遠くへ行ってしまった。
ようやく深い草を掻き分けて到着すると、もう明かりも届かないくらいの場所まで来ていた。
「入るよ」
すると明日香が少し、ためらっているのがわかった。無理もない。夏で、夜で、火の見櫓の中は真っ暗。しかも、古びている。いかにも出そうだ。
「大丈夫だよ。何も出ないって」
夏樹が笑いながら明日香の手を引いた。
「誰もそんなこと言ってないじゃない」
「でも、手が言ってる」
「は?」
「見ろよ」
明日香の手をよく見れば、ブルブル震えている。
「……。」
「バレバレだよ。大丈夫だって。俺がいるし」
明日香のことだから、また何か反抗的な態度をとったりしてきそうだと夏樹は思いながらもそんな照れくさくなるセリフを言ってしまった。しかし、明日香は小さくうなずいてこう続けた。
「わかってる」
「え……。」
ザワザワとわざとらしく、周りの木が風で音を立てた。どこかの家にぶら下がっているらしい風鈴の音が聞こえてきた。
「なっちゃんがいれば、大丈夫って思ってる」
明日香はニコッと笑ってそう言った。
「……なんか照れる」
夏樹は素直にそう言った。
「行こう」
明日香が手を引いてくれた。夏樹は小さくうなずき、もう一度明日香の前に立って櫓の中に入っていった。
「足元気をつけて」
「うん」
暗い中、夏樹と明日香の足音だけが聞こえる。靴の音と、草履の音。風が通る少し不気味な音が聞こえる。夏樹も少し怖かったけど、明日香がいる手前だからそういう雰囲気を出さないように頑張った。
「あ……明るくなってきたね」
上へ上がると不思議と明るくなってきた。櫓には電気も何もなかったはずだ。夏樹は不審に思いながらも階段を上がり続ける。
「もうすぐだよ」
木製の扉を開けると、ギィィッと古めかしい音がした。ブワッと風が吹き抜けて少し怯んだ。明日香の浴衣の裾が舞い上がって夏樹は声を上げてしまった。
「うおっ!」
「ヤダッ! 見ないでよ!」
ドン!と明日香は思い切り夏樹を突き飛ばした。
「うわわわっ!?」
階段側によろけた夏樹はもう少しで落ちそうになった。それを慌てて明日香が右手を引いてくれたので何とか落ちずに済んだ。
「……!?」
「!!」
戻った拍子に夏樹が明日香を抱き締める形になってしまった。
「……。」
夏樹の目の前に、少し背の低い明日香の顔がある。やわらかそうな唇。思わず衝動に駆られそうになったが、壊してはいけない気もして夏樹はその衝動を何とか押さえ込んだ。
「ゴ、ゴメン……」
夏樹はそっと明日香の体を離した。明日香は少し乱れた浴衣をそっと直し「いいの。気にしないでよ。事故だし」とサラッと流してしまった。
「それより、お返しって何?」
明日香はさっきまでの空気を気にしないかのように夏樹のお返しを求めてきた。
「そこを出て、目ぇつぶって待ってて」
「目? つぶるの?」
「うん。つぶらないと、意味がないから」
「わかった」
明日香はそっと目を閉じて、それから一抹の不安を感じた。
(さっきの雰囲気って……それこそキスされそうな雰囲気だったな。でもまさかなっちゃん、そんなことしないよね……。うん、大丈夫。でも、なんでこんな暗いところに連れてきたんだろ。やっぱりキス……まさかそれ以上!? いや、でもまだ私たち小学生だし……でも……あぁ〜わかんない!)
そんな不毛な考えをしているうちに、夏樹の手が明日香の右手を握り締めた。そしてゆっくりと手を引く。そのまま何十秒か歩かされ、ようやく立ち止まった。
「座って」
夏樹の声がようやく聞こえて少し安心したが、まだドキドキと心臓は鳴りっぱなしだ。そっとコンクリートの床に座る。裾を少し気にしながらだったので非常にゆっくりとだったが、その間にも夏樹は特に何もしてこなかった。
「ゴメン。ちょっと草履脱いでくれる?」
「え? 何で」
「危ないから」
明日香にしてみれば今のこの状況のほうが彼女にとっては危ない気がしたが、とりあえずそれには触れず夏樹の言うとおりにしておいた。
「そのまま、足を前に伸ばして」
明日香はますます嫌な予感がする。急に足元に何もなくなったような感覚すらしてきていた。
「よいしょっと」
夏樹の声。すぐ隣に座ったようだった。
「いいよ。目を開けて」
そっと明日香は目を開けた。
「うわぁ……」
明日香の目の前に広がるのは、一面の夜景だった。
「いま俺たちが座っているのは、東京の方向。あっちが新宿副都心。あれが官庁街で、こっちは東京タワー。あそこに見えてるのは……建設中だけど、六本木ヒルズだよ」
夏樹はすぐに立って南の方向を指した。
「あれが冨樫小学校。それから、俺の姉ちゃんが通ってる葉島中学校がすぐ近くにある。俺の家はつくし野川沿いだから、冨樫小の少し西側になるかな」
夏樹は嬉しそうに説明を続けた。明日香は輝いて見える夏樹の表情全てが初めてみるものばかりで、景色よりも彼の表情を見るのに夢中になっていた。
「あ……ゴメン。俺ばっか喋って」
夏樹は慌てて明日香の横に戻ってチョコンと座った。
「いいよ。それよりなっちゃん、よくどこに何があるか知ってるんだね」
「うん。ここ、俺の特別席だから」
「特別席? なっちゃんの?」
「うん。2年生のときだけど、たまたま友達とこの神社の探検してたらここに迷い込んで。前から建ってた背の高いこの櫓が気になってて、ついつい探検気分で入り込んじゃってさ。そしたらしこたま神主さんに怒られたけど……上へ景色を見に連れて行ってもらったんだ。それ以来、俺の特別席ってとこかな」
夏樹が自慢げにヘヘッと笑った。
「じゃあ、私も知っちゃったから、今日から私の特別席にもしてほしいな〜なんてね」
明日香は冗談半分で言ったのだが、夏樹はすぐに「うん。いいよ」と返してきた。
「え?」
明日香は唖然としてしまう。
「だって、俺そのつもりで岡本をここへ連れて来たんだから」
「ほ、本当……?」
「うん。俺だけ独り占めにするのはもったいない場所だしね」
「……ありがとう」
しばらく会話が途切れ、風の音とそれに乗ってやってくる街中の音や祭り太鼓の音が聞こえてきた。電車の走る音もする。
「もう、俺の特別席じゃないな」
急に夏樹が口を開いた。
「え? じゃあ誰の特別席?」
明日香が不思議そうに聞くと、夏樹はニコッと笑って明日香の手を握り、こう続けた。
「今日からここは、俺と岡本の特別席――二人きりの座席だよ」
「二人きりの座席……」
「うん。嬉しいことがあったり、悲しいことがあったり。いろいろあるけど、そんなとき、俺も岡本もここへ来て、この景色を見て、お互いのことを思い出して、また頑張れるといいなって思うからさ。だから、二人きりの座席にするんだ」
明日香は少し夏樹の手を握る力を強くした。
「わかった。ありがとう。なっちゃん」
「いーえ。どういたしまして」
夏樹はニッと無邪気な笑顔を明日香に向けた。
「そろそろ、降りて帰ろうか」
夏樹がそう声をかけると、明日香は少し俯きながらも小さくうなずいた。
相変わらず暗い階段を慎重に二人で降りて行く。3分ほどかけてようやく森の中へ出た。すると、そこで待っていたのは優翔とちひろだった。
「ちぃ……優翔……」
しかし、二人とも顔が暗いように見える。というより、怖いというほうが正しいだろう。
「どこ行ってたの?」
ちひろがきつく明日香を睨んだ。
「こ、この火の見櫓の上」
「そんな上で二人きりで何してたの?」
「景色を見てただけ」
ちひろは急に明日香の近くへより、思い切り彼女を突き飛ばした。明日香は急なことと浴衣だったことが重なってそのまま思い切り尻餅をついた。淡いピンク色の浴衣に土が付いて汚れてしまった。
「何すんだよ!」
夏樹が今度は思い切りちひろを突き飛ばした。同じようにちひろも転び、土が付いてしまった。
「何やってんだよ! お前、ちひろの気持ち考えてやれよ!」
優翔が思い切り夏樹の胸倉を掴んだ。
「知ってるよ! ちぃが俺のことを好きなぐらい! でも、俺の気持ちだって考えてくれよ! 俺だって想う人くらいいるんだ!」
「お前……! じゃあなんだよ、その人にその気持ちを伝える勇気はあんのかよ!?」
「そ、それは……」
「そんな勇気もないヘタレなヤツにそんなこと言う資格ねぇよ!」
夏樹の目が怒りに満ちていつもの優しい眼差しでなくなる瞬間を、初めて三人は目にした。
「んじゃーお前は好きなヤツいるのかよ!? そいつにすぐ、気持ちを伝えられるのかよ!」
「……。」
優翔は黙ったままだ。夏樹は負けじと続けた。
「どうなんだよ!」
すると優翔は胸倉を掴んでいた手を離し、それを今度はそのまま夏樹の左斜め前にいる人物へと差し向け、そのまま顔を覆いかぶさるような形で――ちひろの顔へ、正確には唇を重ね合わせた。
夏樹も明日香も、何も音がしなくなる感覚がした。
ドン!と強い音がしてちひろが優翔を突き飛ばした。
「俺は、ちひろが、好きだ」
一言ずつ、ハッキリと優翔は言った。
「ウソ……」
ちひろは小さく呟いた。夏樹も明日香も呆然としている。
「ウソだよ! だって、前に私が好きって言ったとき、ゴメンって……言ったじゃない」
ちひろは泣きながら答えた。
「恥ずかしかったから……ウソついた。ゴメン、ちぃ」
「私は信じない……だって、優翔のこと忘れるの……大変だったのに!」
そのままちひろは走り去り、すぐに人混みに埋もれてその姿が見えなくなった。
「伝える勇気もないヤツに、ちぃを任せたりできないし」
そう言い残し、すぐに優翔も人混みの中へ姿を消した。
しばらく無言のままで夏樹と明日香は立ち尽くした。
「帰ろうか」
5分ほどしてようやく、夏樹が呟いた。
「うん……」
明日香も小さくうなずき、二人は人混みの中とは逆の方向へ歩いて神社の裏口からそっと家へと向かった。
突然訪れた夏樹、優翔、ちひろの友情の危機。せっかくの夏祭りは後味の悪い形で終え……。これからの夏休みはどうなるのか。