第15話 屋台の席
「それじゃあおばあちゃん、行ってきま〜す!」
陽乃と夏樹は浴衣を着て勢いよく祖母・知恵子の家の玄関から飛び出した。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
知恵子は二人の背中をしばらく見送り、ゆっくりと玄関の戸を閉めた。
「夏樹は明日香ちゃんたちと行くの?」
「うん! 優翔とちひろと、岡本の3人と」
「ふぅん……」
陽乃はしばらく黙り込んだ。
「どうしたの?」
夏樹が不審に思い、聞いた。
「いや、ちょっと気になることがあってさ」
「何?」
「夏樹、いま、坂上くんと和田さんは名前で呼んだよね」
「うん」
「岡本さんはどうして苗字なの?」
「え……」
「みんな友達なら名前で呼べばいいのに」
そんなこと、夏樹は考えたこともなかった。ただ、明日香のことを名前で呼ぶのはどうしてもはばかられた。理由はよくわからないけれども。
「ん……そだね。なんでだろ。俺もよくわかんない」
「岡本さん、きっと違和感っていうか、寂しいっていうか、そんな風に思ってるかもよ?」
陽乃は小走りを止めて、ゆっくりと歩き出した。夏樹もその横を歩く。
「でも、どうやって呼べばいいのさ」
「明日香ちゃんでもアスちゃんでもいいんじゃない?」
「えー!?」
陽乃が夏樹の顔を見ると真っ赤になっている。
「な、なに赤くなってんの?」
「え!? 俺赤くなってる!?」
「真っ赤だよ」
「……。」
夏樹は最近、明日香のことを考えるとなんだか顔が火照る気がしていた。時々、胸がドキドキ鳴っているのもわかる。
「ひょっとして夏樹、岡本さんのこと……」
「や、やだなー! 秋田で偶然会って、クラスが一緒になったくらいじゃ好きになるはずないじゃん!」
しどろもどろになって、自分でも何を言ったのかよく覚えていない。
陽乃は不思議そうな顔をした。
「そうかなぁ……」
「な、なにが?」
「あたしだったら、運命感じて一人ときめいちゃうけどな!」
ドクン!と夏樹の胸が高鳴った。
「あ、ただしイケメンじゃないとダメだけどね。あと、マッチョもNG」
「そ、そうなんだ。姉ちゃんって割と単純なんだね」
「あ、知らなかった? 何年、姉弟やってると思ってんの? それぐらい知っときなさい!」
バシン!と陽乃は夏樹の背中を思い切り叩いた。
「痛って〜」
夏樹が背中をさすっていると、後ろから陽乃を呼ぶ声がした。陽乃の友人、志田未咲と多部未華乃だった。二人とも名前がキレイでうらやましいと陽乃は何度も口にすることがある。
「あ! 多部ちゃん! 志田ちゃん! 夏樹、ゴメン! あたし、先に行くね」
「あ、うん。またばあちゃん家でね」
夏樹は友人たちのほうへ駆けて行く陽乃をしばらく見送っていたが、その目の前が急に真っ暗になった。
「わっ!?」
「だーれだ!?」
聞き覚えのある声。
「……岡本だろ?」
そう言うとパッと目の前が明るくなった。
「スッゴーイ! どうしてわかっちゃったの?」
「当たり前じゃん。声でわかる。何ヶ月同じ教室にいると思ってんだよ」
「まだ3ヶ月ちょっとじゃん」
「まぁ、そんなもんでしたね……」
夏樹は明日香のほうを見て思わず言葉を失った。
「ん? どうかした?」
見慣れない服装。明日香も当然だが、浴衣を着ていた。淡いピンク色に黄色の帯。サイズもピッタリ。
「いや……キレイだなと思って……」
「え?」
明日香も予想外の夏樹の言葉に顔を赤くする。
「岡本が」
自分でもビックリするくらい、すんなりと言葉が出てきた。
「やだ……なんか、なっちゃんらしくない」
明日香が困った顔をしている。沈黙が続いて、周りの雑踏や太鼓の音だけが二人を包んでいる。
「おーい! 夏樹! 岡本さん!」
後ろから優翔の声が聞こえてハッと二人は気づいた。優翔の後をちひろが追う。
「ウッス!」
夏樹は平静を取り戻して優翔とちひろに手を振った。明日香の胸だけがまだドキドキしている。
「今年もさぁ、塾ばっかでホントやんなっちゃうよ俺」
優翔がため息をついた。優翔の家は姉がいて、進学校で有名な中学へ進んだらしい。優翔も男の子だから期待されているとかなんとか難しいことを聞いたが、夏樹はよく覚えていない。
「俺ん家も父さんがうるさいから、そのうち言われるかもなぁ」
夏樹もウンザリした様子で声を上げた。
男子二人がそんな会話をする中、ちひろと明日香は黙々と後ろについていった。ずっと前のこととはいえ、二人の頭からちひろが夏樹にキスをした日のことが離れない。
「ねぇ、岡本さん」
ちひろが立ち止まって明日香の手を引きながら名前を呼んだ。
「なに?」
明日香は振り返らずに、返事だけする。
「聞いていい?」
「……どうぞ」
祭り太鼓の音や人々の声だけが聞こえる。
「岡本さんは……夏樹のこと、好きなの?」
「……。」
明日香は答えずに前を向いたままだ。
「ねぇ! どうなの?」
「私は……」
「あれ?」
夏樹が振り向くと、ちひろと明日香の姿が見当たらなかった。
「どした?」
優翔も振り返って、二人がいないことに気づいた。
「はぐれたな」
夏樹が参ったなという表情をする。こういう混雑した場所ではぐれるとややこしいことこのうえない。
「探しに行こうぜ」
いま来た方向へ夏樹が戻ろうとすると、優翔がグイッと手を引いた。
「へ? 行かないわけ?」
「その前に……」
優翔の表情が真剣になった。
「夏樹に聞きたいことあるんだけど」
「あぁ……どした?」
「あのさ……」
そこからなかなか先の言葉を優翔は出せずにいた。心臓が嫌でも高鳴る。
「夏樹は、ちひろのこと、どう思ってる!?」
「……どうって」
「好きか、そうでないか」
「……。」
夏樹はしばらく考えた。
「好き」
途端に優翔の表情が固まる。そう言ってから夏樹は補った。
「Likeの意味としてね」
それを聞いた途端、今度は笑い出した。
「なんだよー! 焦るじゃん!」
ケラケラと笑い合った後、夏樹は少し出た汗を服の袖で拭いながら小さく呟いた。
「俺は……優翔とちひろ、いいと思うよ」
優翔の顔が少し赤くなって、嬉しそうに見えた。
「行ってくる?」
夏樹はいま来た方向を指差した。
「うん……」
優翔が小さくうなずいた。それから勢いよく走り出した。明日香とちひろは恐らく一緒にいるだろう。けれども、明日香は鋭いと夏樹は思っている。空気を読んでその場を離れてくれることを祈るしか夏樹にはできなかった。
「あーあ。結局一人かぁ……」
夏樹は苦笑いしながら優翔の背中を見送り、屋台が並んでいるほうへと歩き出した。
たこ焼き。
お好み焼き。
りんごあめ。
ベビーカステラ。
輪投げ。
金魚すくい。
くじ引き。
スーパーボールすくい。
いろんな屋台が出ている。夏樹は屋台で何かしたり何か食べるというよりも、こういうお祭りの雰囲気を味わうのが好きだ。
しかし、ふとある屋台の前で足が止まった。
「……。」
思わず唾が増えた。
「100円かぁ……安いね! 買おう!」
夏樹は財布を左ポケットから取り出し、屋台のほうへと近寄った。
「おじちゃん! ひとつください!」
「おっ、いらっしゃい。ひとつでいいのかい?」
「え?」
「ほら、後ろのお嬢ちゃんの分は?」
後ろを振り向くと、明日香が立っていた。息が荒い。
「わ! いつのまに……」
夏樹は驚いて転びそうになった。
「ごめん! やっと見つけたよ〜。急にいなくなっちゃうんだもん」
明日香は笑いながら夏樹の肩をバンバン叩いた。
「参ったわ〜。なっちゃんと坂上くんとはぐれてすぐに和田さんともはぐれちゃうんだもん。私って方向音痴だよね」
明日香はひたすら一人で喋っている。
「と、とりあえずさ、これ食べる?」
「あ、うん! 私もお金出すよ」
「いいよ、これくらい。俺がおごる」
「いいの?」
「いいのいいの。おっちゃん、二つに変更」
「あいよ! ありがとさん!」
おじさんからそれを受け取ると、夏樹と明日香は座る場所を探してしばらく歩き回った。
「あ、あそこはどう?」
屋台のすぐ横、お客さんが座るスペースが用意されている。
「いいね。涼しそうだし、だんじりが通るのも見えそう」
「じゃ、決定! 行こうぜ!」
夏樹は明日香の手を握って走り出した。
「ちょっとちょっと! 落ちちゃうじゃん」
明日香が慌ててよろけそうになった。
「平気平気。落ちたら俺が何本でも買ってやるよ」
「ホント? じゃ、わざと落としちゃおうかな?」
明日香が意地悪く笑った。
「嫌味なヤツ!」
夏樹も思わず笑ってしまった。
「あ、あれ。夏樹くんじゃないの?」
未咲の声に反応して陽乃が指された方向を見ると、女の子と座っている夏樹を見つけた。
「あれー! ホントだ。女の子といるじゃない。陽乃よりモテるんじゃないの? 夏樹くん」
未華乃がからかうように肩を突いてきた。
「バカ言わないでよ。きっとあれ、同級生よ」
陽乃はチラッと二人のほうを見た。わりとカワイイ女の子だ。これは帰ってから尋問決定だな、と思った。
「ほら、邪魔しちゃ悪いから行こうよ」
未咲がグイグイと未華乃と陽乃の背中を押した。
「わーかったわかった。ほら、行くよ、陽乃」
「うん!」
未華乃に手を引かれながらもう一度、夏樹のほうを見て陽乃は背中が凍りつくような感覚に襲われた。
夏樹が右手に持っていて、いままさに口に入れようとしているもの――。
「陽乃!?」
それに気づいた瞬間、陽乃は必死に走っていた。こんな時に浴衣だなんてタイミングが悪すぎる。それでも陽乃は必死だった。
「待ってよ陽乃! どうしたの!?」
(やめて! 食べないで! 食べちゃダメ! 今度はどうなるかわかんない……! 間に合って!)
陽乃は必死に走った。死ぬかと思ったが、いま頑張らなければ夏樹が死んでしまうかもしれないと本気で思った。
もうすぐ口に入ってしまう。
あと2メートルで夏樹の手に届く。
陽乃の視界がスローモーションのように動き出した。音は聞こえなくなる。明日香が驚いた顔をして、それに気づいた夏樹がそれ以上に驚いた顔をしている。姉ちゃん、どうしたの?とでも言いたそうな顔。でも、答えている暇はない。
バシッ――!
陽乃は思い切り、夏樹の右手を叩いてそれを弾き飛ばした。
夏樹の持っていたチョコバナナが、地面に叩きつけられた。
「陽乃! どうしたの!?」
思わず未華乃が陽乃を押さえ込んだ。
「なにすんだよー! ヒドいよ、姉ちゃん!? 何の嫌がらせ!?」
陽乃は半泣きになりながら思い切りまくし立てた。
「それはこっちのセリフよ! どういうつもり!? また死にたい!?」
「え……?」
全員の表情が固まった。
「な、何言ってんの、姉ちゃん」
「アンタは! お父さんとお母さんから何も聞いてないの!?」
「き、聞いてないよ。なんなのさ、さっきから」
「きっとお母さんのことだから、アンタがかわいそうだからって思って言ってないんだ……」
陽乃はガクンと膝を突いて涙をこぼし始めた。
「な、夏樹くんのお姉さん。とりあえず、座りませんか?」
明日香が気を使って自分の座っていた場所を空けてくれた。優しい子だな、と思った。
「ありがとう……」
陽乃はそこでようやく、夏樹のことについて話し始めた。
「アンタ、春休みの終わりに倒れたの、覚えてるでしょ?」
「う、うん……」
それを聞いて、未咲と未華乃、明日香の3人はかなり驚いた顔をした。それでも陽乃は続ける。
「あれ、原因が……チョコレートなの」
「え?」
「アンタの好きなチョコレートが原因で……倒れたの」
一気に静まり返った。誰も喋らない。祭りの広場から雑踏や太鼓の音だけが響く。
「チョコレートアレルギーっていうんだって」
「そ、そんなのあるの?」
未華乃が聞き返した。
「お医者さんが言ってた。間違いないよ」
また静かになる。夏樹が今度は口を開いた。
「……ホント? それ」
陽乃は小さくうなずいた。
「俺、二度とチョコレート、食べらんないの?」
またうなずく。
「そんなぁ……。バレンタインデー、楽しくなくなるなぁ」
思わぬ夏樹のマヌケな返答に、全員が転びそうになった。
「ア、アンタ、それでいいの?」
「うん。だって、チョコレート食べなきゃそれでオールオッケーっしょ?」
「た、確かにそうだけど……例えばよ!?」
陽乃はグイッと明日香の手を引いた。
「岡本さんが夏樹にバレンタインデーで本命チョコをくれても、アンタは食べらんないの! いいの!? そんなので?」
「いいじゃん」
また転びそうになった。朝倉夏樹という弟はとことん天然系だ。
「だって、本命チョコもらえたってことは俺のこと、好きなんでしょ? それだけでおなかいっぱい」
夏樹はニコッと笑顔で陽乃の質問に答えた。すると途端に目の前にいた女性陣全員の顔が赤くなった。
「ど、どうしたの?」
未咲と未華乃はうちわを取り出して扇ぎだした。
「いや……それならいいんじゃない?」
陽乃も同じようにして扇ぎ始める。それからもう一度念を押した。
「とにかく、チョコレートはそういうわけで食べられないの。これから。わかった?」
「チョコボールは?」
「だめ」
「ポッキー」
「だめ」
「チョコケーキ」
「だめ」
「明治チョコレート」
「論外」
「ちぇっ。全部ダメじゃん」
「死にたければ食べなさいよ」
陽乃は不機嫌そうに呟いた。
「死ぬとか簡単に言うなよ、姉ちゃん」
夏樹は少し機嫌悪そうに言い返した。
「あぁ……ごめん。悪かった」
それから沈黙が続いて、未華乃が切り出した。
「じゃあ、あたしたち、行こうよ」
陽乃はなんとなく、夏樹と明日香の雰囲気を読み取ってすぐに未咲たちと歩き出した。
「じゃあ、気をつけて帰るのよ、夏樹」
「わかってる。姉ちゃんもね」
チョイチョイっと軽く手を振った。それから明日香のほうを振り向く。
「ゴメンな、変な姉ちゃんで」
「ううん。すっごい優しいお姉さんだよ」
クスッと明日香が笑ったので、夏樹もつられて笑った。
「これ……食べていい?」
明日香は手に持っていたチョコバナナを口にくわえるフリをした。
「うん。俺は食べらんないけど、食べて」
明日香はうなずくと、チョコバナナをおいしそうに頬張った。
「なっちゃん」
「ん?」
「はい、これ」
チョコバナナの、チョコレートのかかっていないバナナを渡された。
「あげる」
「いいの?」
「中途半端だけど、食べて。チョコの香り、なんとなくするから」
「ありがと……」
もらったバナナを手にしてから、これって間接キスだよな、とくだらないことを考えてしまうと赤くなった。
「おいし……」
二人はしばらく、屋台の隣に設けられた座席から動かなかった。陽乃に弾き飛ばされたチョコバナナに、アリが群がっていた。
思わぬ形で夏樹のアレルギーを伝えてしまった陽乃。夏樹は至って冷静に受け入れたけれども、実際のところはどうなのか……。わからぬまま、夏休みはどんどん進んでいくのでした。