第10話 昔の席
2時間目。算数。
明日香はノートは開いていたものの、大迫先生の授業はほとんど聞こえていなかった。隣のみのりは欠席だし、右隣の男子もうつらうつらしている。大迫先生はいつもほぼ正面の子たちを見ながら授業をするので、明日香が視界に入ることはほとんどなかった。
明日香がみんなから見えない位置で見ていたのは、さっきちひろに渡された夏樹への手紙だった。何が書かれているか、気になって仕方がなかった。
『朝倉くんへ♪(*゜∀゜*)ノシ
朝倉くん、今日の放課後時間ある?
ぁたし、朝倉くんに話したぃことがぁるんだ♪ 日直の仕事、終わったらランチルームの前の廊下で待ってます。
☆和田ちひろ☆(´ω`)☆』
ムカツク。
そう思う自分が怖かった。でも、ムカツク。
何が具体的にどうと言われるとわからない。字がムカツク気がする。顔文字がムカツク気もする。何より、こんな手紙を明日香伝いに渡させるちひろがムカツク。
でも、これを渡さなかったら夏樹がどう思うかを考えるともっと怖くて、渡さないわけにはいかなかった。
「朝倉くん」
明日香に突然呼ばれて夏樹は黒板を消す手を止めた。途端に教室中が静まり返る。
「これ」
そう言って夏樹に手渡されたのは、小さい手紙。
「え……」
「和田さんから」
そう言うなり、ちひろが怒った口調で叫んだ。
「ちょっと! そういうのは、ふつうわからないように渡すもんでしょ! なんで……なんでこんな静かなときに言うのよ!」
「えっ……」
思いっきり静かになってしまった。その直後、ワァッと声が上がる。
「和田って朝倉のこと好きだったの!?」
「やっだー! どうりでやたらと仲良くするわけよね」
「朝倉、モッテモテ〜」
「っていうか、これっていわゆる……」
「三角関係〜!?」
ガタン!
音がしたときには、ちひろが外へ飛び出していった。
「待てって! ちぃ!」
「ちぃ、だって! ヒュー!」
そんなクラスメイトの声を無視して、夏樹はちひろの後を追った。慌てて明日香も後を追った。
黒板消しが床に落ちて、白い粉が舞い上がった。
「ちぃ!」
ハァハァと息切れがする。ちひろはもっと苦しそうにしていた。
「……ヒドいよ。なんであんなタイミングで……」
半泣きなのだろうか、声が震えている。
「しょうがないだろ。休憩時間中に渡すしかなかったんだよ、岡本だって」
「だからって、あたしの名前出すことないじゃん!」
「じゃあ、なんでお前から渡さなかったんだよ!」
当然のことを聞かれて、ちひろは黙り込んだ。
「だって、だって……」
ちひろはグスグスしてばかりで、なかなか答えを出さない。
「なぁ、なんなの? はっきり言ってくんないとわかんないじゃ……」
突然、夏樹の声が遮られた。
喋れなくなった、のほうが適切だったかもしれない。
「どこ行ったんだろ……」
明日香は理科室の前でキョロキョロと辺りを見渡した。すると、そこへ優翔がやってきた。
「あれ? 君、岡本さんだっけ?」
「え? はい、そうですけど……」
不審そうにしている明日香に優翔は軽く自己紹介をした。
「あ、ごめん。俺、夏樹の友達で坂上優翔っていいます。岡本さんのこと、ちょっと知ってて」
「今朝のこと?」
優翔はばつが悪そうに小さくうなずいた。
「別にいいよ。坂上くんは直接、関係ないもん。それより、ヨロシクね」
「うん。で、どうしたの?」
優翔に聞かれて小さく耳打ちした。
(朝倉くんと和田さん、見なかった?)
優翔も小さい声で返す。
(なんで?)
(私、ひどいことしちゃったの。謝りたくて)
(あ、そうなんだ。俺は男女が二人、すぐそこのトイレ裏行くの、見たよ。一緒に行ってみる?)
(お願いしていい?)
(OK)
そういうと、優翔は二人が駆けて行ったほうへと明日香を連れて行った。
「あ、いたいた」
優翔が裏玄関のドアを出ると、ちひろと夏樹が立っている。なにやら大声でもめているようだ。
「なんかケンカしてるよ。ほら、謝りに行きなよ」
「ありがとう」
そう言って振り向いた優翔と駆け出そうとした明日香は言葉を失い、立ち止まってしまった。
「……?」
夏樹もわけがわからない。
(な……に? これ、やわらか……)
目を開けると、ちひろの唇が自分の唇に重なっている。
気づいたときには、思い切りちひろを突き飛ばしていた。
「キャッ!」
思わず派手に転ぶちひろ。
「痛いっ……ひどいよ、急に」
「ひどいのはそっちだろ! なんだよ、急に! わけわかんねぇ!」
ガシャンッ――!
驚いて夏樹とちひろが振り向くと、呆然とした様子で筆箱を落としたまま立ち尽くす優翔とその隣で同じく呆然とした様子の明日香がいた。
「み……見た?」
夏樹が不安げに聞く。
仕方なく、二人は小さくうなずいた。
次の瞬間ちひろはその場から逃げ出そうとしたが、辛うじて夏樹が止めた。
「待てよ! 意味わかんねぇだろ! ちゃんと説明してけよ!」
ちひろは振り向きざまに大声で言い放った。
「男の子にキスするような理由なんて、好き以外の何でもないじゃん!」
「うわっと!」
優翔と明日香を突き飛ばしてちひろは教室へと駆け戻っていった。
「……なんだよ。前だってしたクセに」
夏樹が呟く。
「は?」
優翔が聞き返そうとすると、夏樹は口をゴシゴシと袖で拭いてそのまま教室へと戻っていった。
「……岡本さんも、戻ったほうがいいよ」
優翔に促されて、明日香は力なく歩き出した。
「坂上くん」
「なに?」
「ゴメン。私のせいで……」
優翔は苦笑いして「いいよ。俺が案内したんだし。気にすんな」と返した。
そのまま明日香の背中を見送ったが、優翔が一番複雑な気分だった。
「なんだよ、アイツ」
夏樹は階段を上がりながら昔のことを思い出していた。
ちひろと優翔とは、幼稚園からの付き合いだ。昔、幼稚園でちひろと同じクラスになったとき、隣の席になったことがある。
たわいもない、幼稚園児の会話だ。
「あたし、あちゃくらくんのことちゅき」
年少組。まだ3歳になったばかり(と由利から聞いた)だったちひろは舌足らずだったようで、「さしすせそ」が言えず、あさくらをあちゃくらと言っていた。こっちのほうが発音は難しいのに。
「僕はちひろちゃんのこと、ふつう」
かわいくない幼稚園児だった。夏樹は自分でもよく覚えている。
「ねぇ、あちゃくらくん」
夏樹が呼ばれて振り向くと、突然キスをされた。
あのときはキスの意味もよくわかっていなかった。ただ、父親が仕事に行く前によくしていたのは知っているくらいだった。
だから、夏樹のファーストキスは幼稚園の頃になるのかもしれない。
「昔のことなのに……」
夏樹の頭をあのときの席に座ったちひろと自分の姿がまるでドラマのワンシーンのように蘇ってくる。
もう一度、唇を擦ってから夏樹は教室へと入っていった。
キスしたちひろ。キスをされた夏樹。見た優翔。すべてのキッカケを作った明日香。友達関係が、少しずつ変わっていく。ちひろの思わぬ告白に、夏樹は……。




