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第9話 空席

 あの騒ぎからだいぶ経った。

 

 季節は新緑の季節――5月だ。


 夏樹と明日香は程よい距離を置きながら毎日を同じ教室で過ごしていた。最初は何かとおちょくってきたクラスメイトもあまりに素っ気ない二人の様子に飽き飽きしたのか、茶化すようなことはなくなっていた。

 夏樹はゴールデンウィーク中に家族で静岡の熱海まで遊びに行った。春休みに体調を崩した(崩したレベルではなかった)けれども、ゴールデンウィーク中はそういったこともなく楽しく過ごせた。ただ、あのとき何が原因だったか夏樹自身は聞かされていなかった。

 日直はグルリと全員を一周して再び苗字が「あ」行の人たちに割り当てられていった。夏樹の前3人は全員「あ」で始まる苗字。夏樹も「あ」。このクラス、あ行は全員「あ」で終わってしまう苗字だ。珍しい。

 ガラガラと教室の戸を開ける。夏樹は登校する時間が早いほうだ。鍵を一番に開けることも珍しくない。ところが、今日は職員室に鍵を取りに行ったら既に鍵はなくなっていた。

「……おはよ」

 戸を開けた先にいたのは、明日香だった。途端に緊張する。

「おっ、おはよ」

 夏樹はなるべく冷静を装って静かに自分の席に着いた。日直の仕事は朝一に学校へ来たら日誌を取っておくこと、掃除当番表と給食当番表をその日の担当に変えておくこと、日付と日直の名前を書き換えることだ。日直は二人ずつ割り当てられるので、仕事が偏ったりすることはなかなかない。

 ところが、どう見ても明日香の姿しか見当たらない。

「岡本」

「なに?」

 夏樹が声をかけても明日香は顔をそちらに向けたりせず、静かに鉛筆で日誌に何かを書き込みながら答えた。

「阿賀は?」

「わかんない。まだ来てないもん」

「……そっか」

 それだけで会話が途切れてしまった。気まずい時間が流れていく。時計の針の音だけが教室に響く。

「ねぇ」

「なぁ」

 同時だった。思わず顔を見合わせてしまう。

「あ、どうぞ」

「ううん。なっ……朝倉くんからどうぞ」

 夏樹は少し寂しそうな顔をする。

「なっちゃんでいいんじゃね?」

「え……。でも、嫌かなって思って」

「いいじゃん。二人きりのときくらい」

「えっ……」

 教室にはまた時計の針の音だけが響く。しかし、夏樹と明日香は自分たちの心臓の鼓動が外まで聞こえているんじゃないかというくらい大きく鳴っていた。

「あーっ! 見ろよ、二人でなんかしてるぞ!」

 驚いて二人が振り返ると、クラスメイトの男子二人がドア越しに大声を上げていた。

「ちっ、違う……」

 夏樹がカァッと顔を赤くする。

「うそー? どれどれ!」

「うぉ、マジで! 朝から熱いなぁ」

 他のクラスからも見物するように生徒たちがやってきた。

「違うし……違う……」

 夏樹が下を向きながら首を振る。

「あのさぁ」

 明日香が立ち上がって野次馬のほうを向いた。

「朝から二人で教室にいたらアツアツってことになるの?」

 一気に周囲は静まり返った。

「じゃあ男の子二人でいても熱いんだ。女の子二人でいても熱いんだ。そういうことなんだ」

「はぁ? それとこれとは別だろ。男と女二人で教室にいたら熱いだろ」

「じゃあ大迫先生と校長先生が二人でいたら熱いね」

 それを聞いて夏樹は思わず吹き出した。気持ち悪い。

「んだよ、屁理屈ばっかこねて。それとこれとは関係ないし」

 男子がスネた声で反論するが、明日香も負けていない。

「別に、私と朝倉くんが二人でいたってアンタたちには関係ないでしょ?」

「……それは」

「関係ある?」

 誰も答えられなかった。そのうちに野次馬はバラバラと解散し、いつのまにか始業時間が近づいてきていた。

「くだんない。本当にくだんないね」

 明日香は日誌をパタンとたたんで引き出しにしまった。

「ゴメン……なんか……ゴメン」

「いいよ。私も悪かったし」

 それっきり、会話は途切れてしまった。


 朝の会が始まった。大迫先生が少し遅れ気味で慌てて入ってくる。

「はい、それじゃ今日の日直。号令かけて」

 明日香が「起立」と声をかける。凛とした声。夏樹は思わず明日香のほうへ自然と目が行ってしまった。

「礼」

 淡々と号令をかける明日香。やっぱり前から思ってはいたけれど、明日香はきれいだ。なんていうか、日本人らしい長い黒味髪の毛とか、肌とかきれい。

(こんなこと考える俺って変かも……)

 夏樹は「着席」と明日香の号令を聞き流しながら着席した。

「えーっと、それでね。もう一人の日直の阿賀さん。今日体調を崩してるから欠席なのよ。それから嘉村くんも欠席」

 よく見れば、夏樹の隣も空席になっていた。今朝からいろんなことがあって気づかなかった。

「それでね、日直一人じゃ大変だから今日は阿賀さんの代わりに朝倉くん、お願いしていい?」

「え? 俺?」

「えぇ。阿賀さんの後ろでしょ。それに、今度阿賀さんと嘉村くんが一緒にすればちょうどいいのよ」

 クラスメイトの視線が集まっているような気がする。でも、ここで変に断るのもマズいだろう。

「わかりました」

「それじゃ、今日一日お願いね」

 大迫先生はそれだけ言い残すと忙しそうにまた教室を出て行った。


 1時間目が終わった。

 明日香がサッと立ち上がり、黒板を消しに行こうとしたので夏樹が「岡本。俺がする」と呼び止めた。

「一緒にすればいいじゃん?」

「汚れるっしょ。俺がする」

「別にちょっとくらい構わないよ」

「いいから。岡本は日誌書いててよ。書く欄けっこう多いしね」

「わかった。ありがと」

 夏樹が黒板を消しに行ったのを見送ってから座席に戻ると、隣のみのりの席にちひろが座っていた。

「えっと……和田さん?」

 明日香が不安そうにちひろの名前を呼んだ。

「あ、覚えててくれたんだ。和田ちひろです」

 ちひろは嬉しそうに、けれどどこか冷たい感じで答える。

「どうしたの?」

 明日香は席に着いて次の国語の用意をしながら聞いた。

「たいしたことじゃないんだけど、ちょっとお願いがあるんだ」

「お願い?」

 ちひろはズボンの右ポケットから小さな手紙を取り出した。小さな字で「夏樹へ」と書いてある。

 チクン、と明日香の胸が痛む。

「これね、夏樹に渡してほしい」

「朝倉くんに?」

「うん」

 沈黙が続く。

「和田さんが自分で渡せばいいじゃん。朝倉くんとずっと同じクラスなんでしょ?」

 明日香は気にしない素振りを見せてその手紙を受け取らずに答えた。

「そうだけど……これはちょっと自分では渡せないっていうか」

 だったら渡さなければいい。明日香はそう思って心の中で舌打ちをしたくなった。

「だから、岡本さんに渡してほしいな」

「……。」

 明日香は俯いて答えないようにしていたが、しつこくちひろが「お願い!」と言ってくるのでとうとう折れてしまった。

「ありがとう!」

「ううん。別にいいよ」

「それじゃ、そろそろ授業始まるから私、戻るね!」

 ちひろは手を振りながら自分の席へと戻っていった。その後すぐに夏樹が戻ってきた。

「どした? ちぃ、なんだって?」

「ううん。ちょっとお話してただけ」

 明日香はそっとさっき渡された手紙を後ろに隠した。

「そ。それより、日誌ありがと」

「ううん。こちらこそ、黒板ありがと」

「いえいえ。じゃ、また次の時間もよろしく」

「うん」

 チャイムが響く。


 手紙は――渡さなかった。

欠席者が出たことで日直を一緒にすることになった二人。しかし、そこへちひろが明日香に手紙を渡しにやって来た。果たしてその手紙の内容とは……。

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