幸福のひととき
慰問に行ってからというもの、あの人の事が、思い出されてならない。
カーラ・グレイ。
気にしすぎだとは思うけれど、他のどの令嬢達と比べるよりも彼女と自分だと劣っているように思えてならない。
けれど、彼女はここにいない。彼の隣に立っていいのは今はフェリシア只一人のはず。エリアルドの言うように、彼は穏やかにフェリシアとの間にどんな関係とも表現しがたい何らかの“情”をこの秋から冬にかけて少しずつ構築してきていた。
朝の散歩や乗馬は、社交界に属する貴族なら毎日の習慣であるが、フェリシアもまたそれをサイクルの中にいれていた。
前の反省から、きちんと前夜に乗馬を望めばエリアルドは付き合うようになっていて、約束の明朝には乗馬をたのしめる。緩やかな速度で並走させれば、時おりフェリシアの方を見ては気遣うように微笑む彼に心を奪われずにはいられるはずもなく...。
二人との距離を開けて、近衛騎士たちがいてもこの瞬間だけは王太子とその妃でない、ただの男女のような自由な気持ちだった。
緩やかな速度で二人は上手く夫婦としてやっていけている...そう思えていた。
いつものように湖の側で馬を降りて、水を飲ませて休憩をする。
自然の景色に、人工的に手を加えられた景色でも、その景色は生まれ育った領地を少し思い出させてくれる。
そうして同じように馬を撫で時間を共有すればまるで本当に恋人同士になれたような気持ちになった。
これといった言葉を交わさなくても、風にそよぐ鬣を眺めながら白い息を吐くエリアルドの美しい顔を垣間見る。
笑みがなければ冷たくも見えるその顔立ちはどこか簡単に人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。
「朝の乗馬は心地いいね」
しかし、口を開けばその声は柔らかく、微笑は優しげに感じられる。
「そうですね」
フェリシアはそう笑みを浮かべて答えた。
朝のわずかながらの解放感のあるそのひととき。
心は穏やかに凪ぎ、冷たい風さえも全く気にならない。
なのに、フェリシアは見えてしまった。
ポケットから懐中時計を出して、時間を見た彼に僅かに失望してしまう。彼はいつだってやはり完璧な王子様なのだ。
ここで不機嫌になったとしてもきっとエリアルドは原因に思い当たる事はないだろう。そして予想通りに言葉が紡ぎだされる。
「そろそろ戻ろう」
一つ、失望の息を吐いてフェリシアも答えを言うしかない。
「はい、殿下」
短い返事の中の秘められた棘にきづくだろうか?
女というのはなんて厄介なのだろう…。
単純な事で浮き沈みしてしまう。
「さあ、フェリシア」
手を貸そうと差し出された腕に任せて、騎乗する。
(忙しいなら、わざわざ付き合わなくて良いのに)
半ば八つ当たりのような気持ちがフェリシアに沸き起こる。
「いつも、付き合わなくても大丈夫です。騎士たちも付いてきてくれますから」
「…私がいたら楽しめない?」
「いいえ、お忙しいのかと」
「妻の気晴らしに付き合えないほど忙しい訳がない」
「いつも時間を気にされていては、私といるのはつまらないのかと思えてなりません。それなら独りの方が楽しめます」
「そんなつもりはなかった。すまない、だが」
「わかっています。たくさんのメイドや従者たちが朝食に向けて準備をしていることも」
そう言うとフェリシアはさっさと馬首を岐路に向けた。
(こんな…私…自分でも嫌い…)
エリアルドを少しも見ずに道を駆け抜けて、厩舎に馬を預けフェリシアは足早に冬の棟へと歩む。
主の微妙な不機嫌を感じ取ったのか、アミナとユーリエは手早く朝のドレスに身支度を整えていく。
「今朝は寒うございましたから、すっかり冷えてしまいましたわね妃殿下」
「ええ、そうね」
朝食の席に先に着いていたエリアルドは、いつものように新聞に目を通していて先程のフェリシアの苛立ちなど気にもしていない風でその余裕ある態度がまた腹立たしい。
フェリシアは彼の少しの言動に、これほど惑わされるというのに。
ダイニングに来たことに気づいた彼は完璧な紳士ぶりで椅子を引いてくれる。
出された朝食はいつも通り美味しいのだろうけれど、自己嫌悪に苛まれたフェリシアには全く味が分からずそして喉を通らなかった。
「どうした?少しも進んでいない」
フォークを置いてしまったフェリシアにエリアルドが気づき声をかける
「今朝はあまり食欲がないみたいです」
「何か別なものを作らせよう」
「それには及びません」
「そう?」
「はい」
フェリシアが従者に目配せすると、椅子を引きに近づいてくる。
「お食事途中で申し訳ありません、失礼します」
エリアルドは何か言いたげだが、頷いただけだった
もうすぐ、社交シーズンが始まる。
そうすれば、忙しくなって些細な事に苛立ちを感じてしまう事もなくなるだろう。
こんなことではあの人とはかけ離れていくばかり。あんな風に清らかな笑みは浮かべられない。
その日からフェリシアは、乗馬をやめた。散歩なら侍女で充分だし、前日に伝える必要も無いからだ。
苛立ちたいわけでも、彼を困らせたいわけでもない。
またこんな気持ちになるなら、多少の我慢をした方がましだった。
「最近、乗馬をされませんね」
ジェインがフェリシアに声をかけた。
「ええ、そうね」
「妃殿下は、乗馬がお好きですのに。いかがされました?」
側にいることの多いジェインは、アミナとユーリエに続いて親しみを感じている。
「必要以上に一緒にいては…いけないの」
「それは殿下のことですか?」
「そうよ」
「お互いに節度ある距離が…丁度いいの」
「一緒にいるからこそ、わかり合える事もあるのでは?」
「こちらを見ない人と一緒にいても辛いだけ」
「妃殿下…」
ジェインだとて噂は王宮で働く以上は知っているだろう。
「彼女には私は敵わないのよ」
「彼女とは…」
「レディ カーラよ。噂くらい貴女も知っているでしょう」
表立っては皆言わない。けれど、それは密やかな声となりフェリシアの元へも届いている。
「それは…すでに遠い過去のことです」
「いいえ、違うわ。今も殿下はレディ カーラに花を贈っている。わざわざ香りのよい花を作らせて」
「まさか…」
「私はなにも、ここに来るまでは知らなかった」
父 ラファエルは知っていただろうか…。
「よくある、話よ」
政略結婚なのだから仕方ない。
『よくある話』
自分に言い聞かせるようにフェリシアは呟いた。
それでも…表面上は夫婦としてやっていっている。それで充分。やはり少しの距離は開けなければ…辛くなるだけ、そう言い聞かせるように、言葉を紡ぎだした。




