幽世の小唄
夕焼けに照らされた緑の木々が、風に煽られてさわさわと鳴っていた。
古びた神社の境内には、幾つかの小さな影がある。
遠ざかっていく草履の足音。親に言いつけられた門限を守るため、名残惜しげな子供たちの姿が三々五々に散っていった。
一番仲の良い女の子が、ばいばーい、と手を振りながら遠ざかっていくのを見送って、最後に残った一人の少女は振り返していた手を下ろした。
撒き散らしてしまった遊び道具の団栗を拾い終え、赤く染まった空を見上げて眉尻を下げる。
お手玉、影踏み、鬼ごっこ。この境内が近所の子供たちの遊び場に使われるのはいつものことだが、今日は最後にやった隠れ鬼に存外夢中になってしまい、いつもより少しばかり遅くなってしまった。
手伝いは良いからと急かして先に帰らせてしまったが、一人くらい残ってもらうべきだったかと、寂しい境内に少しだけ背筋を震わせる。
――良い子は夜になる前におうちに帰るのよ。十束様の護りがあるうちに。
いつも母に言い聞かせられている言葉を思い出し、少女は身を翻す。
紺色の小袖がひらりと揺れて、境内に小さな影を落とし――
『――ねえ』
誰かの声が聞こえて、少女は反射的に振り返った。
ゆらゆらと揺れる木の下に、見知らぬ女の子が佇んでいた。
少女と同じ黒髪の、おかっぱ頭の女の子だ。繕った跡一つない、綺麗な赤い着物を着ている。小さな白い顔を少し俯きぎみにして、こちらを向いて立っていた。
誰だろう。
こんな子は、今日来ていた中にはいなかったはずだと思って、少女は少し、怯えたように後ずさった。
『楽しそうだったね』
少女が振り返るのを待っていたように、女の子がゆるりと顔を上げる。
さわさわ、ざわざわ。木の葉が揺れる。
濃く茂った木々の葉が、女の子の体に影を作った。
白い顔に浮き上がるような、大きな真っ黒い瞳が、少女をじいっと見つめてきた。
『私も混ぜてよ』
遊びに誘う、可愛らしい声に――けれど少女はまた一歩、足を後ろに下がらせた。
何故だか、目の前にいる女の子が恐ろしくてならなかった。
今日はもう遅いから、別の日に遊ぼう。そんなことも言えないくらい、怖くて怖くて声が出ない。
心臓の音が早くなっているのが分かる。小さく手が震えていた。
――にんまりと、女の子の目が弓形に歪んだ。
『――――もーいいかい?』
「――――っ……!」
歌うようなその言葉に、けれど少女は一気に顔を恐怖に染め上げて。
けらけらと頭を左右に揺らして笑う女の子に背を向け、転がるように境内を飛び出していた。
人けのない神社を駆け抜けて、鳥居をくぐって走る。
ここから家に帰るには、薄暗い路地を通らなければならない。板塀に挟まれた狭い道は、日の落ちた今の時刻、何もなくたって恐ろしいけれど、遠回りして道に迷う方がもっと恐ろしかった。
息を荒げて必死に逃げる少女の後ろから、笑い声が追いかけてくる。
きゃはははは、きゃはははは。
甲高い笑声は何処までも付いて来て、少女はがちがちと震える歯を食いしばった。
角の多い路地を駆けながら、一度だけ肩越しに振り返る。少し離れた道の上、真っ黒い目玉と真っ赤な唇を歪めてけらけら笑いながら追いかけてくる女の子の姿が見えて、泣きそうになりながら前を見た。
日が落ちる前に帰るのよ。母の言葉が何度も何度も繰り返されて、ひうひうと細い息が洩れた。
――永遠に続くかと思えるほどに長い路地を抜ける頃には、あの笑い声は聞こえなくなっていた。
放たれた矢のように表通りへと飛び出してきた少女を、通りがかりの大人たちが何人か、驚いたように見送った。
すっかり暗くなった通りには、もうあちこちで灯りが灯されている。
田楽を扱う屋台や、牡丹鍋を名物にする料理屋、土産を買っていく夜の客を当て込んだ、遅くまでやっている甘味の店。
白い提灯をかけている居酒屋は、中で早々に仕事上がりの一杯を始めている客たちの声がする。
気の利いた料理を出すと噂の二階建ての小料理屋は、もう席が埋まり始めているようで、食事を楽しみにやって来た客たちがちらほらと吸い込まれていくのが見えた。
沢山の灯りと行き交う人に囲まれて、少女はようやく足を止めた。
ざわざわとざわめく音は境内の木々のそれと違って、賑やかな喧騒と生活感に溢れている。
もう一度後ろを振り向いて、それからきょろきょろと周りを見回す。
女の子の姿はどこにも無くて、ようやく安心して息が出来た。
「――……もう、」
行き交う大人たちの真ん中で、少女の唇が小さく開く。
ほっと顔を緩ませながら、全ての不安を吐き出すように、いつも隠れ鬼で遊ぶ時の、慣れた返答を呟いた。
「もう、い――」
――――細い手が、少女の口を塞いだ。
「――――!!!」
零れそうなほど目を見開き、少女の体が凍り付いた。
左肩に手が置かれている。鎖に雁字搦めにされたかのように、指の一本たりとも動かせなかった。
がたがたと体が震え出す。背後にいる誰かの正体が分からなくて、引きつったような息だけがひゅうひゅうと洩れた。
――人波の中にぽっかりと隙間を開けたような小さな異常な空間の中、背後の誰かはそのまましばらく動かなかった。
棒立ちになったまま何もされず、何分が過ぎただろうか。
自分の肩を掴む力が存外優しいことに気付いて、少女は少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
錆び付いたような目と首をぎしぎしと動かして、恐る恐る後ろに視線を送る。
そこにいたのは、神社で見た女の子ではない。少女より大分背の高い、細身の少年だった。
この町の住民ではないだろう。近辺では見かけたことのない顔で、町人らしくない服装をしている。
幾分土埃に汚れた外套を羽織っているから、恐らく旅人だろう。自分の口を塞ぐ手が確かな温度を持っていることに今更気付いて、少女は肩の力を無意識に抜いた。
黙って少女を見下ろす少年は無表情だが、落ち着きのある小綺麗な相貌をしていた。
茶色がかった柔らかな黒髪は首筋にも触れないくらいに短くて、風に合わせてさらりと静かに揺れている。
肩越しに振り向いた少女と目が合って、少年はゆっくりと口を開いた。
「一抜けた、だよ」
「……?」
何を言われたのか分からずに、少女はぱちりと目を瞬いた。
眉を顰める様子もなく、少年は淡々と同じ言葉を繰り返す。
「一抜けた、って言うんだよ」
短く告げて、少年は少女の口を塞いでいた手を離す。
左肩があっさりと解放され、背中の温もりが一歩下がったのを理解してから、少女はそろりと教えられた言葉を繰り返してみた。
「――いち、ぬけた……?」
『――――――――チッ』
ぞわっ!と、一瞬で寒気が背中を駆け抜けた。
すぐ耳元で響いた忌々しげな舌打ちに、少女の肩が跳ね上がる。
咄嗟に飛び退こうとした少女の肩を、少年の手がもう一度押さえた。
追いつかれていた。あの女の子は、もうすぐ傍まで来ていたのだ。
がくがくと震えながら、少女は縋るように背後の少年を見やる。もういいよ。隠れる時間の終わりを告げるその言葉を止めてくれた少年の手を、命綱のように握り締めた。
「家は近い?」
静かな声で聞かれて、半ば無意識に何度も頷く。
そう、と呟いて、少年は少女の手を優しく外させた。
「なら、真っ直ぐ走って帰りなさい。決して喋ってはいけないよ。振り向いてもいけない。誰に呼ばれても無視して、そのまま走り抜けなさい。
家に入って、玄関の戸を閉めたらもう大丈夫だよ。ご両親の顔を見てただいまを言ったら、今日は早く眠ってしまいなさい。でも、明日の朝日が昇るまで、家を出てはいけないよ」
ぽつぽつと告げられる言葉を必死で頭に入れながら、少女はこくこくと頷き続ける。
なら、行きなさい。背中を押されて、咄嗟に振り向きそうになる。けれど言われたことを思い出して、ぎゅっと拳を握って前を見た。
走り出した少女を、笑い声も足音も、もう追ってはこなかった。
※※※
雑踏の中に消えていく、少女の背中を見送って。
少年は身を翻し、大通りを歩き始めた。
宵の口の店先は、客入りや呼び込みで忙しない。
袖を引こうとする宿屋の女中や、早々にうろつき始めた酔客を避けて、少年はするすると歩みを進める。
一軒の店の前を横切った時、ふわりと漂う細い煙が少年の足を止めさせた。
表情を変えずにそちらを見やる。
薄い闇の中、そこだけ浮き上がるような空気を纏って壁に凭れていたのは、背の高い異装の男だった。
痩躯ではあるがよく見れば綺麗に筋肉のついた、均整の取れた体格の青年だ。
梔子色の目に、若草色の頭髪。額が露わなほどに短く切ったベリーショートは前髪の一房だけが長く伸ばされた奇妙なもので、頭部にはカラフルな長布がぐるりと巻き付けられている。
原色で彩られた羽織は、不思議と彼の地の色を殺すことなく、ふわりと無造作に纏われて。
のんびりとくゆらせる瀟洒な造りの煙管が、細い煙の筋を立ち昇らせていた。
「――どうだった?」
手にした煙管から薄い唇を放しながら、青年はそう問うてきた。
少年は表情を動かさないまま、「大丈夫だと思いますよ」とあっさり答える。
「あの子は、真面目に自分の言いつけを守ってくれそうでしたので。ちゃんと逃げ切れると思います」
「いやいやそっちのことじゃねぇよ。コッチだコッチ」
梔子の瞳の青年が、顔を顰めて否定し、親指と人差し指で丸を作ってみせた。
なかなか下品な仕草である。一人で煙管を吹かしていた時には奇妙に浮き世離れして見えた青年の雰囲気が一気に俗物のそれになり、少年はイヤそうに顔を歪めた。
「お金なんか貰ってるわけないでしょう。七、八歳程度の子供相手に、何を毟り取る気でいやがるんですか」
「マジでか。一銭もかよ」
「当たり前ですよ。自分、依頼契約なんか結んでませんし」
「事後交渉ってもんがあるだろ。ガキが駄目なら親に請求しろや。俺ならたとえ仕事失敗しようが、前金だけは確保する」
「罪もない一般市民からどんだけボる気だあんた」
溜め息混じりに言い捨てると、青年はチッと舌打ちして、煙管の灰をぽんと落とした。
「おいおいコータ、そうやって損得無視してホイホイ首突っ込んでると、いつかどでかい貧乏籤引くぞ。ただでさえ化生相手の仕事は危険が多いんだからよぉ」
「『十束』に目を付けられてる時点で、最初から特大の貧乏籤引いてますよ。今更遅いです」
「つまり貧乏籤は体質か、救いようがねえな。くそ、いきなり走ってくから、儲け話でも見つけたかと思って期待して待ってたのに」
「梧桐さんは煙草吸ってただけでしょう。祓師のあんたと違って自分の本業は普通に商いなんですから、旅費ならそっちで稼ぎます。そんなことより、早く今日の宿を探しに行きましょう」
「けっ、お人好しめ。――おい、コータ」
さっさと通りを歩き出そうとした少年に、梧桐と呼ばれた青年は小さな何かを投げつけた。
呼ばれて振り向いた少年が、風を切って飛んできたそれをぱしりと危なげなく受け止める。
手のひらの中を覗き込んで、彼はぱちりと目を瞬いた。
「……何ですか、これ」
提灯の灯りを受けてきらりと輝いたのは、蜻蛉玉の根付だった。
深い赤色の石を光に翳すと、羽を広げた蝶の細工が透けて見える。
高級品というほどでもなさそうだが、充分に上質な代物だ。
怪訝そうに見上げてくる少年に、青年はニヤッと笑って親指で近くの店を指した。
「そこの小物屋で売ってた」
「……珍しいですね、あんたが女物の装身具にお金使うなんて」
「ちぃと玉の色がくすんでるとかで、棚で埃被ってたんだよ。安かったのを更に値切って買ってみた」
「ああそうですよね、あんたそういう人でした」
納得したように頷いた少年の頭を、伸びてきた長い手がぐしゃぐしゃと撫でた。
唇を尖らせつつもそれを許容する少年に、目を細めた青年が小さく囁く。
「お前、女物は身につけたがらねぇからな。それくらいなら違和感ねぇだろ。帯の端にでも引っ掛けとけよ――小唄」
少年は――否、小唄と呼ばれた少女は、そのまましばらく沈黙した。
ややあって黙々と袖の中に根付を収め、困惑したような、けれど不快ではなさそうな、ほんのりと頬を赤く染めた顰めっ面で、自分より頭一つ分以上高い位置にある青年の顔を見上げる。
「……ありがとうございます。頂いておきます」
「おう、そうしろ。で、宿屋の見当は付けてあんのか?」
「さっき町に着いたばかりなのに、見当も何もありませんよ。でも、良い匂いのする牡丹鍋の店を見つけましたから、宿が見つかったらそこに夕餉を食べに行きましょう」
「そりゃ良いな。お前の奢り?」
「図に乗らないでください。……お銚子一本くらいなら付けてあげても良いですけど」
「よっしゃ」
テンポの良い会話を交わしながら、二人は沢山の灯りが並ぶ通りを歩いていく。
見えないモノと、見えてはいけないモノに溢れた町の中を、知らずに生きていく人々の間。
ざくざくという足音が、喧騒の中にゆっくりと溶けていった。
〔【幽世の小唄】登場人物紹介〕
※浮橋小唄
元は極々普通で善良な、誰恥じることもない一般人だったが、うっかり和風ファンタジーな異世界に召喚されてしまい、今は男装の旅人をやっている十六歳。商いで旅費を稼ぎつつ全国行脚し、帰る手掛かりを探している、しっかり者の女子高生。
茶色がかった柔らかな黒のショートカット、機能性に優れた外套。目を引く美人ではないが、中性的で小綺麗な顔立ち。基本は敬語だが時々毒舌。好きなものは鍋料理、嫌いなものは『十束』。
イヤなことは力一杯顔に出る。しつこい同行者には肘鉄とかが出る。出先で酔い潰れるのはやめてください梧桐さん。
異世界に来てから何故か見鬼能力が付加されて、日常的に視界が幽霊や化生に満ち、割としょっぱい思いをしている。見える人だと知られた時の、幽霊たちの愚痴がうざい。
※梧桐
小唄の同行者で、金にがめついモグリの祓師。十八歳。そこらの化生や幽霊は目の前にいても見えない聞こえない触れないという、お前なんで祓師やってんのと真面目に聞きたくなるような男。
タダ働きが嫌いだが、受けた仕事には割と有能らしい。豹っぽい印象の長身痩躯。小唄の男装と見鬼のことは知っている。好きなものは金、嫌いなものは『十束』。
梔子色の目に若草色のベリーショート、前髪の一房だけが長い。派手な羽織や頭の布が非常にカラフル。
商いしながら一人旅をしていた小唄と出会い、儲け話の匂いを嗅ぎつけたからとノコノコ寄って来た。ただし金儲けへの執着には両者に若干の差違があるので、いまいち当てが外れた感はある。
※十束
国で最大の規模と歴史と信仰を誇る大御社。神社仏寺の総本山のようなもの。小唄を召喚したのがこの組織らしく、召喚されるなりさっさとトンズラこいた小唄をイライラしながら探している。
※紺色の小袖の少女
名前も出てこなかった幼い被害者A。『隠れ鬼』の怪異に遭ったが、同時に小唄に遭遇した幸運と、与えられた指示を正確に守った聡明さに命を救われた。
「一抜けた」は、「もうこの遊びは終了、離脱します」の意思表示。もしも「もういいよ」と言ってしまっていたら、「隠れ終わった」とみなされて、見つかる=捕まると同時に連れて行かれていた。
これ以降もう出番はない。彼女が残りの人生を平穏に送れることを祈る。