村崎姉弟の「ノンマルタス伝説」宣伝
灯りのついていない昇降口で、リュックを背に、里美は下駄箱のロッカーへ手を伸ばす。指先が小さな灰色の扉に触れたとき、ふと、視界のすみに自分のことを見つめている人の存在に気づいた。振り向いてその顔をたしかめた里美は、頬をゆるませる。
「あら、弓子……」
里美と同じ中学の制服を着ている女子が下駄箱のすみにぽつんと、影のように立っていた。両の腕は力なくだらりと下げている。里美をものいいたげに見る目のまぶたは重たそうである。
「里美、漱石の中編はもう読んだのか?」
「ええ……」
「感想は? 聞かせてくれないか?」
尋ねつづける弓子も、リュックを背負っている。そのリュックの片隅に黄色のぬいぐるみが下がっていて、里美は質問を耳に入れながらもそれにちらりと目が行く。けれど、弓子の、ねじれた前髪で隠れぎみな求める目も気になる。
「そうね……本当の主人公と言われている男性の心情がひっかかるわね」
「なるほど……エゴイズムと評されているところか?」
「いえ、わたしはちょっと違うの。女性をとかく怖がっていることを、織りまぜた描写があって印象に残ったの。心中を計り知れない、異世界から現れた生き物のように見て……」
「そこに注目したのか?」
「ただ、楽しんで読んでいたらふとそう感じたの。それだけよ」
「……うむ……」
応えた里美に、うかない顔で返す弓子の声は、たとえるなら、用意したメモを起伏なく読んでいるといった口調ばかりで愛想のある面持ちすらない。
それでも里美から優しい表情が消える気配はうかがえない。
「里美のその読み解き方、男子ならできるものなのかな。たぶんそう受け取らないかもな……」
「気づく人もいるとは思うけど……彼ならどうかしら」
「トオルのことか? 文芸部の?」
「そうそう……」
「男子にも少数派でいろいろいるからな。私は嫌いではない。でも平均すると、“男らしさ”に囚われた視点から“繊細だな”と一笑にふしたり見下すことがたまに」
「うん、私の父ぐらいの男性だとプライドが許さなくて口に出すのをためらいそうね」
「ううむ。里美は、大人たちの作った流れに安心しない、横ならび論法に従わないということか?」
「そんな理屈っぽいことではなくて。ぎりぎりひねくれているのかしら」
「里美はステレオタイプの男性と距離をとっているようにも感じる」
「……そうかしら?」
里美と言葉を交える弓子は、どんな感情で受け止めているのか知られたくはないという表情でまぶたを閉じたり開いたり。そのつぎ、里美より先にロッカーをひらき、だるそうに靴を足下に落とす。履き替える両の足は、けれど、コンクリートに敷き詰めたタイルを蹴る靴の軽快な音をたてて、ここにいるのが楽しいというしぐさ。それでも、重たいまぶたを痒いように手でこする弓子である。
「弓子、今日は調子が悪いの?」
「……うむ、寝不足なだけ」
「またゲーム?」
「いや違う、漫画を読んでいた。それと文章を書いていた。書いてみたものの思うように書けない。レトリックをまだ使いこなせない」
「普段から良い文章を読むといいって何かの本に書いてあったわね」
「朝から言葉の塵にまみれているが、それで洗い流せるなら……」
ガラスの向こう側、おだやかな陽射しが昇降口の外におちている。地面が乾いているのも見えた。すでに靴をはきおえた弓子がじっとして里美を待っている。
「いつのまにか追い越されちゃった。ちょっと待ってね」
下駄箱から靴を取り出し急いで履き替える里美。
「弓子、眠そうだね。早く帰えってやすむといいわ。聞こえてる?」
「う……うん」
弓子は里美のあとにつく歩き方。昇降口を出たとたん、弓子のまぶたは光りを痛がるように閉じる。
前を歩く里美は肩ごし気にかけて眺めている。
「気にするな里美。そういう心配な目で見つめられるのは苦手だ」
「そう、じゃまた、あとでね」
弓子とは別の方向へ歩きはじめようとした里美の足がふと止まった。
「そうそう、聞こうと思って忘れていたの。そのリュックに下げている新しいぬいぐるみはどこで買ったの?」
「ああこれか、クレーンゲームの戦果だよ。一回で取れたんだよね」
「あなたはそういうの得意だったわね」
「まあそうだな」
「明日でもいいから私も誘ってくれない?」
「いつでもどうぞ。だが今日は眠い。それにお腹もへっている」
「明日を楽しみにしているわよ。あなたの技術に是非あやかりたいから」
「……ずるいぞ。自分の実力でとれ。でもまあいいか。ところでトオルに会うのか?」
「うん、たぶんいつものとこかしら……」
「外庭か?」
「そうだね。縦笛の練習もしているでしょうね。本も読んでいるのかも」
「そういえば、昼休み、トオルが花壇にいるところを見かけたぞ」
「きっとデージーのお手入れをしていたのね。彼は土を作るところから始めたのよ。デージーは酸性の土を嫌うから」
「ひたむきな人だなトオルは。綺麗な細い指なのに、泥まみれの手は似合わない」
「細やかな指だからこそ小さな花を育てるのに向いているんじゃないかしら?」
「わたしならジャガイモを育てて“じゃがバター”を食べたい心境だ。季節は過ぎたが“シミイモ”も食べてみたい。しっているか? 南米のアンデスでジャガイモを乾燥させたチューニョと似ている」
「よほどお腹をすかせているのね」
「うん、あ、デージーといえば、思い出した。アーサー・C・クラークとキューブリックが制作した映画で人工知能が断末魔に歌っていたな」
「わたしも観たことある。思いをつのらせ過ぎて、どうにかなってしまったあげく破滅するのは、漱石の小説に登場する人物みたいね」
「人工知能は男性という設定だったのかな?」
「声の感じはそうね」
「女性でも同じ道筋をたどるのかな?」
「まず作品を作る側から女性にしてみたら違う答えはでるかもね」
「トオルのような人ならどんなことを書くかな? 物語を書かせてみたい。繊細であることを否定する頭では書けないもの」
「話はそこに落ち着くのね。一緒に会いにいく?」
弓子の視線は里美から離れて一瞬だけおよぐ。
「うん……いや、遠慮しておく」
「そうね、寝不足だったのよね」
なにか含めたように唇を結びなおした弓子は、ハイソックスをはいている里美の脚を悩ましげに見おろした。
「うむ、トオルは文芸部に入ってよかったよね。会ったらよろしくと……」
「うん。じゃ、バイバイ」
二人は互いに手をたのしげに振って別れの挨拶をかわした。
※
校舎を背後に歩く中、リュックを背負いなおした里美は、芝生に挟まれた幅の狭い舗装路を歩いていく。
首の見えないほどに重ね巻いたマフラー。除かせた唇は楽しそうに。けれどハイソックスをはいている白い足は流れる空気の中に冷たさの名残を感じとる。それで唇につい力が入ってしまう。
小鳥が笛のように鳴いて頭の上を飛びすぎていく。
方向を変えて芝生に足を踏み入れた。足下の芝生よりも濃い緑のしげる樹木が目の前。
はじめはクチナシとアジサイ。少し遠くの一角にクロマツ。すでにドングリは地面に落ちたコナラとクヌギ。ケヤキも新しいギザギザの葉。まだ冬枯れの名残で木の形をみせるものもある。
別のところに様々な緑色が入り雑じり、モミジに似た葉のプラタナス、枝々を上にまっすぐ伸ばしたポプラ、その近くにエンジュなど、そして眠たげに枝をしなだらせている柳も。
次の季節を待つまでもなく緑のかおりが鼻先をかすめ、かと思うと鼻の奥へとあらがう気を起こす間もなく流れ入ってくる。
別の散策できる細い道がとおっている。里美はブレザーのポケットに手をしまい新たな彩色の中へと入った。
小道をたどって茂みを通りぬける。すると奥に木製のベンチが見えてきた。
アオギリやサンショウなどが見えるひそめた空間の中、コートを着て腰かけている人の姿。ただそれは一人だけ。寂しそうだと勝手に決めつけてしまいそうだ。
近づくとその人はコートの下に男子中学生の制服も着ている。髪は木漏れ陽にひたり麦穂のようにきらめく。
里美は、彼の肩に手を置こうとした。ところが、せっかく出した手は、半ばに止まりふたたびポケットの中へ。
「トオルくん、なんの本を読んでいるの?」
尋ねられた男の子は振り向いた。まつ毛の影をおとす瞳は緑が小さな雫としてうつり込んでいる。髪は風にふかれたように揺れた。
少年の顔色に驚いたふうはないが。
「あ……里美さん。ディケンズです」
「ふーん」
「縦笛の練習もしていました。ここなら、人の迷惑にならないから」
「そうね。でもまだ私には寒いかな……」
そのとき、ベンチのはしに小さな影が飛び乗ってきた。鼻先を上につき出してくる。臭いを嗅いでるのかと思わせて深い色合いのまなこをじっと里美へ向けてきた。
里美は、知り合いとあったように眼を大きくしてかえす。
「こんにちは、リスさん。あなたはもうトオルくんの親友ね」
リスは聞こえていないというそぶり、後ろ足で前足の脇を気持ちよさそうにかきはじめた。そして長いふわりとした尻尾を前足でつかまえて、鼻先でこするように毛繕いをはじめる。
里美の手は、ポケットの中で動き、生地の表面が波たつ。顔の方は何かを考えつづけたいそぶりで視線を宙に止めたりも。靴のつま先は、はき直すふるまいをとり地面をける。
「わたしも、あなたと誘われたから歌の練習をしているけれど、発表会に間に合うかどうか……」
「サリー・ガーデンははじめてですか?」
「そうね。聴くばかりで……」
「里美さんなら、うまく歌えると思います」
「そう? よかった。でも今はここでは歌わないわ。トオルくんとリスさんに聞いてもらうにはまだ下手だから」
里美は、肩をすくめて射し降りている陽のカーテンにちらっと目を向ける。
「さっき弓子と話したのだけれど、彼女、花壇でトオルくんの手が汚れてしまうって気にしていたわ」
トオルは本を閉じて、自分の指先を見下ろす。
「そうかな……」
「わたしが思うに、デージーと笛の効果で一部の熱烈なファンができてしまうわね」
「園芸部を手伝っただけですけれど」
「そしてアイルランド民謡の音楽会もね。トオルくんは頼まれると断れない性格だから、ほどほどにしなさいよ」
「文芸部は休まないですよ」
「それは安心するけど………その本、読み終わったら感想きかせてね。そろそろ帰ろうか?」
「そうですね」
トオルはベンチに置いてあるリュックに本をしまう。
「帰ったら読書のつづき?」
「家では他にやることもあります」
「宿題?」
「それもあって、今夜の献立も。きっとお姉ちゃんはお腹をすかせていますから」
「わたしは思うのだけど、あなたのお姉さんは、強いのか弱いのかよくわからないところがあるわね」
「ぼくもときどきそう思うときがあります」
「ふふ、でもそういうお姉さんが好きなんでしょ?」
声はなく頬で微笑を返すトオルに、里美は、目を閉じたような笑顔だ。
「リスさん、トオルくんを連れていくわね、またね。この次はピーナッツを持ってくるから」
リスはベンチから飛び降りて近くの木の影へ走っていく。バネのように跳ねて幹に鋭い爪をたててしがみつく、すると次に上へとはい登って太い枝に身をおちつかせた。そこで尻尾の毛繕いをまたはじめた。
「さあさあ、トオルくん、帰りましょうか。お姉さんも寂しがっているわよ。きっと」
「うん」
うれしそうに返事したトオルの目は、細くなった。睫毛の影が、深く彩る瞳を、やわらかく隠した。
※
「ぼくは、宿題があるのだけれど・・・・・・」
窓から居間へ入る日の光は、少年の金にもみえる茶色の髪を一本一本きらめかせる。しかし、少年の瞳はおもたく暗い。チェック柄のスカートをはいている女子高生が一人、彼の正面に立っている。白の襟つきシャツがまぶしい。
「トオル、おまえはシェルだ。その剣でわたしの一撃を受けてみろ!」
「お姉ちゃん、これはただの紙の棒だよ」
「わかっている」
「ぼくとしたいのは、わかるけれど」
姉の求めに応じかねて困った顔の弟である。介さず従わせようと威張るカザカは、模造紙を細く丸めて作った長剣を握りしめている。おなじ手製の剣を無理やり持たされるトオルである。
「困らせないでよ。ぼくは、これから宿題をやらなければならないのだから」
「今生のお願いだから」
「何回目の今生のお願いかな?」
「うっ……」
返事につまるカザカは、肩を心おののいて落とす。前髪の一束が、女子高生の勇ましそうな瞳に、影をつくって被さる。トオルは小さな肩をすくめてみせた。
「わかったよ。少しの間だけだよ」
「むふっ、ありがとう」
笑みを浮かべたカザカの手に力がはいる。
「よいかトオル、わたしはセレスだからな」
「うん・・・・・・」
他には誰もいない部屋の中、姉と弟は二歩か三歩の間で対峙する。部屋に差し込む日光はスポットライトの照りかた。座卓の花瓶に生けてある一輪の花は、力なく咲いて二人の様子を見守る。
「では、はじめよう」
姉のカザカは、どこで覚えたのか、左足を前に置く半身の体勢になり、剣は先端を天井に向けた垂直、顔の高さでグリップを握る。
中世ドイツ式の『屋根の構え』である。
仕方もないという顔のトオルは、とにかく姉の構えを消極的に真似した。束の間見つめあう。カザカは生気あふれる目で弟のどこかへ狙いを定めている。とうぜん鍛練もされず、まだ中学生で肩の小さなトオルの分が悪そうである。
ジリジリと適度な間合いにカザカがにじり寄る。
「えいっ!」
トオルが先に踏み込んで、剣を、姉の正面にまっすぐ振り下ろして切りかかった。そこへカザカは、右足を移動させながら、トオルの左側へ水平に剣身を回転させ、切りつける。トオルの剣をはたきながら、こめかみへ軽くコツンと、あたったかあたらないかのところで、切っ先を止めた。たとえ、剣を交えたとしても、紙の棒から鳴り響きはない。
「うう、やられたあ〜」
トオルは、なげやりな演技の声をあげた。頭へ剣が入ったのだが、どうでもいいような振る舞いで胸に手をあて、膝も曲げる。と、その次に、身内の創作したファンタジーゲームから問答無用でログアウトしたというように、冷めた表情へと変わった。トオルは口を結んで剣を床におく。そこから立ち去ろうと踵を返して、姉に睫毛の艶やかな目を見せた。
「じぁ、ぼくは死んだから、部屋に戻って勉強するね」
「待って、早いよ。倒れたあとにお姫さまだっこしようと思っていたのに」
「国語のレポートも書かなければならないから」
「あれ? だめかな?」
「それに、読みかけの『オリバー・ツイスト』もあるから」
「ま、まってよう!」
引き止めようとするカザカの唇は、彼女なりの嘆きにあふれて歪む。
「悲しいよ、私を一人ぼっちにするなんて・・・・・・」
「だって、そんなに面白いの? 『ノンマルタス伝説』は?」
「ああ、なんて酷いことを言うの? なんて冷たい弟なの・・・・・・」
戦いを放棄されたカザカがわざとらしく倒れかかって膝を折り曲げた。しまいに剣を持ちながら床に尻をつけて悲しい顔をあらわにした。足を止めたトオルはきめ細かい素肌の顔に、ためらいを浮かべる。
「お姉ちゃん・・・・・・わ、わかったよ。泣かないで・・・・・・読んでみるよ」
「読んでみる、だって?」
「・・・・・・ぜひ読んでみたいよ。読ませていただきます」
「うう、ありがとう」
なぐさめるトオルを前に、流れる涙を袖で拭き取りながら感謝するカザカの口はしに、邪悪な笑みが。
―了―
参考文献:長田龍太(著)『中世ヨーロッパの武術』新紀元社。