プロローグ
やっとでござる。
気がつけば、俺の身体は既に動かなくなっていた。何年か前に俺を担当するという医者から聞かされた話では、筋肉が萎縮していく病に俺は侵されているということらしい。
それこそ中学に上がる前までは近所の子供、というか友人たちと一緒になって遊びまわっていたけど……それも、もう叶わぬ夢になってしまった。
俺の人生が狂い始めたのは中学1年の頃だ。日に日に重くなっていく身体に違和感を感じていたがそれでも俺は気にせずに生活していた。しかし、数ヶ月が経った頃だったか……遂に俺は立てなくなった。俺は毎日見ていた為かあまり気が付かなかったことだが、俺の全身は病的なまでにやせ細っていたらしい、特に脚は酷いとかなんとか。
それからは車椅子での生活になった、その頃はまだ病気のことも知らされておらず、親からはすぐに治ると言われ、俺もその言葉を信じてやまなかった。既に満足に運動が出来る身体ではなかったため、俺は暇を潰すために本を読むようになった。そのせいで余計な知識ばかり溜め込んだ、どうやって走れば速くなるか……とか、そんな感じの本だ。
日が経つにつれて俺の行動の幅はどんどんと狭くなっていった、脚は完全に動かなくなり、腕も上がらなくなった……そして、車椅子に乗ることすら不可能になった。言ってみれば生きた人形の様なものなんだ、今の俺は。
俺が自分を蝕み続けていた病気の名前をしったのは、寝たきりになる少し前のことだった。いくらなんでも遅すぎると思うが……遅かろうが早かろうが結末は同じことだ。
――不治の病だと、そう言われた。
その名の通り、この病気は治ることはない。特効薬はもちろんなく、進行を遅らせる手段も見つかってはいないのだそうだ。
この病は全身の筋肉が重篤に萎縮させ動かなくさせる、最後には呼吸をするための筋肉すらも動かなくなり、死に至る。人工呼吸器をつければ延命はできるのだと言っていたが、そこまでして生きる気はない、なにせもう俺には未来がない。こんな身体で何をしろと言うんだ、身の周りのことすら自分一人で出来やしない。
出来れば……出来ることならば……俺はもう一度だけでいいから、自分の足で走って見たかった。
最近は、何をするにも無気力だ。
そして……どれくらいの時間が経ったのかは分からなかったが、遂に俺の生命もここまでの様だ。
息が出来ない。苦しい……苦しいが、どこか安堵する苦しみだった。
視界がぼやけ、周囲の俺の名前を呼ぶ声が遠くなっていく。そうして俺は、生命を落とした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺は差し込む光の眩しさで目が覚めた。
この感触は、ベッドか? 大分肌触りが良いような気がするけどこの感じはベッドだな。
……なんで生きているのだろうか、あの感じ……呼吸をしようと思っても出来ない感じは確かに……なんで生きているんだ? もしかしてアレか、人工呼吸器とか言う奴なのか、止めてくれと大分前にだが伝えていた筈なんだけど。
でも不思議な感じだ、人工呼吸器の機械の大きさは知っているが、装着すると自分で息をしていないのに勝手に息をしているような感覚に襲われるのだろうかと思っていたのだが、至極普通に呼吸をしているように感じる、技術が進歩したのか? それよりもまず付けるな、と言いたいけどな。
「あら? 目を覚ましたのかしら」
不意にそんな声が聞こえた。ナースだろうか、病院に勤めているナースの声は一通り覚えていた筈なんだけどな……そういえばここ数年の記憶が曖昧だ、新任とかそういうのだろうか。
ナースと思わしき声の主が俺の顔を覗きこんだ、結構な美人だな……と思ったがそれよりもその服装に目が付いた。
(ナース服じゃない)
普通の私服だった、それもセンスが良いやつ、よく似合ってますよ。
ナースから謎の美女へと俺の中での格付けが変わったあと、その謎の美女は俺から視線を逸らし誰かを呼びに何処かへ行ってしまった。
「あなた、ツキノの目が覚めたわ」
あなた……イントネーションからして相手を呼ぶときに使う“貴方”ではなさそうだな、夫婦間で妻が夫を呼ぶときよく使うような“あなた”だ。ということは謎の美女が呼びにいったのは、謎の美女の夫か。なんでまた俺は見ず知らずの夫婦に観察されてるんだ?
それに謎の美女は俺のことを“ツキノ”って呼んだぞ、誰だよ。
まぁ……どうでもいいけどな、結局は何を出来ないし。こんなに頭を回転させるのすら久しぶりだ、ほぼ無心だったからな。と言っても何かをやろうとしたところで何を出来ない訳なんだけど。
そんなことを考えている内に、謎の美女が帰ってきた。
「おぉ、ホントだ」
ヒョイ、と不意打ち気味に現れた……恐らく謎の美女の夫であろう渋いおっさんの顔に俺の身体はビクッと反射的に跳ねるような反応をとった。
(……動いた)
どういうことだ……俺の全身は既に動かない筈だ。神経が麻痺してるとかじゃなくて筋肉が萎縮してしまっている俺は、身体が反射で動くこともない。本来なら絶対に動くことのない身体が動いたことに俺は困惑していた。
そして、俺は恐る恐る身体を動かしてみることにした。まず手始めに、手だ。ちょっと手に力を入れるくらい、いつもなら動かせる筈なのに動かないという酷くもどかしい感情に襲われんだが……
(……う、動いた!?)
なんてこったい、動いた。酷く肉が付いているようにも感じたが、そこは恐らく長年動かしてなかったから感覚が麻痺してるんだろう。
脚も少し動かしてみたが、それほど自由に動くという訳ではないが、それでも動くことには動いた。それだけでも俺は感動して涙が出てくる。そういえば表情筋も動くのだろうか、もしそうなら笑顔とか作ってみたいんだけど……
どういう訳かは分からないが、兎に角俺の身体は動くみたいだ。もしかしたらこの夫婦は俺の病気に対する治療薬を開発した人達なのかもしれない、それなら感謝してもしきれない、なにせ俺はずっと瞼と眼球くらいしか動かせない毎日を過ごしていたからな。
ところで、身体が動くことに感動していて気が付かなかった……いや、よく考えればすぐに気がつくことだが……もしかしたらここは俺が入院していた病院じゃない。
というわけで、俺は首が動くことに感謝しつつ、周囲を見渡してみることにした。ちなみに例の夫婦は微笑ましいような笑顔でこちらを見つめていた、俺の回復の傾向が気になるのだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
周囲を見渡して分かったことがいくつかある。
まず始めに、俺が寝ているコレ。コレはベッドだ……いや、正確にはベビーベッドだ。周囲に木の枠組みが付いていて、動くようになった俺の落下防止用かと始めは思ったのだが……違った。ま、この時点では普通のベッドだと思っていたのだが。
次が重要だ、この部屋はタンスとかクローゼットなのがところどころに配置されている、俺が知識として知っている部屋は、ドラマに出てくるような一軒家の部屋くらいしかわからないが……まぁそんな感じだ。でだ、問題はここからだ。
この部屋の中には姿見とか言う大きな鏡が置かれていた、丁度俺が左に首を傾けた位置に立てかけてあった。そしてそこに写っていたのは小さな木製のベッドと夫婦の後ろ姿だった。
どこにも俺の姿がないことに始めは凄く焦った。しかしその疑問もすぐに解けた。鏡に写っていた小さなベッド、恐らくベビーベッドと呼ばれるような木製のベッドには、一人の赤ん坊が寝ており、こちらを向いていた。一瞬だが、かなりビビった。
その赤ん坊は、俺が怪訝そうな顔をすると怪訝そうな顔をし、モソモソと動いてみると全く同じようにモソモソと動いた。
ちょっと……どういうことなのだろうか。俺は赤ん坊になってしまったのだろうか。
「ん? どうしたんだツキノ。……鏡を見ているのか?」
「赤ちゃんが鏡に興味を持つという話を聞いたことがあるわ、もしかしてそれなのかも知れないわね」
「なるほど……姿見は無理だけど、手鏡ならあるぞ。ほぉらツキノ〜鏡だぞ〜」
「鏡に興味を抱く訳じゃないのよ……?」
美女のおっさん2人の夫婦は、そう言い合いながら俺の顔に手鏡を近づけてきた。って近い近い……あ、美女に怒られた。
いい感じの距離になってまじまじと鏡の中の自分と向き合う。やはりというか、呼吸も自発的にしているようで、声も出すことができた。声といっても「あー」とか「うー」とかそんな感じの、どちらかというと鳴き声のような声だけど。
ここまで来たら流石に認めるしかないのだろう。
俺は……赤ん坊になった。
所謂、転生とかいうやつだろうか。俺の知る話では神様に合うらしいんだけど、会ってないな。まぁいいか、身体が動くだけでも俺にとっては十分過ぎる恩恵だ。
ちょっと違和感があるが……それも直ぐに慣れるだろう。取り敢えず……歩けるようになったらそこらじゅうを歩き回ろう、そして走ろう。
夫婦……というか父さんと、母さん……と一緒に何処かへ出かけたりしたいな、あとは……そうだな彼女を作ったりとか――
「ジッと見てるな……飽きないのか、ずっと自分の顔ばっかり見つめてて」
「まだしっかりとした自我もないのだし、赤ちゃんなんてそんなものよ。でも……そうね、ツキノが女の子だからそれも関係あるのかしら」
え?
――ツキノが女の子だからそれも関係あるのかしら。
え?
“ツキノ”って要するに俺の名前ですよね、母さん。
え、ちょっと待って聞き捨てならないんですけど……もしかして俺、女の子なんです?
続きも良ければどうぞ。読了感謝です。