エピローグ
持ち主のいない機械のようにエルザとヒデオの勝負は延々と続けられていた。お互いに決定機を欠き、致命傷を与えられないでいる。闇に溶け込む素早い動きを見ていると、どこか楽しげに踊っているようにも思えてきて、リエーヌは首を横に振った。
きっかけは自分が作る。
まったく同じ容姿をした悪魔を見分けるためにはヒデオの意識をほんの一瞬でも呼び覚ます必要がある。その発端を開くのがリエーヌの役割だった。
「大丈夫だ、君ならできる」
ミヒャエルが優しい口調で肩を抱く。いつもの気障ったらしい仕草だが、いまはすこしばかり嬉しい優しさに思えた。
「絆を信じるんだ。君とヒデオ殿が作り上げてきた信頼を」
「たとえ例の女性のことが忘れられなくっても、リエーヌの魅力には敵いませんわよ」
マリアも両手を握りしめて力説する。友月が来てからお嬢様っぽさがいくらか薄れただろうか。歳相応の少女らしさが出て来たような気がする。
「この場にいる全員の命をお主が預かっている。肝に命じておけよ」
筋肉質な老人は腕を組んでむすっとしている。普段と変わらぬ表情にリエーヌは微笑して、大きく息を吸い込んだ。
広々とした玉座の間の隅で待機している三人に目配せする。それぞれ力強い頷きが返ってきた。作戦の段取りは完璧だ。ヒデオの自我を呼び起こした一瞬のうちにすべてを片付ける。各自が与えられた役目を果たせば、未来は明るいはずだと言い聞かせる。
目を閉じるとヒデオとエルザの演じる死闘が音楽のように鼓膜を揺らした。
心臓が高鳴っている。様々な思い出が網膜に浮かんでは消えていく。突然現れたヒデオに助けられてから短いような長いような月日が経過した。
命を救ってもらった恩に、ここで報いる。
リエーヌは覚悟を決めるとブルーの瞳を大きく開いた。
「私が好きなら、もう一度そうと言ってくれ、この大馬鹿者!」
のどが張り裂けそうな大声で叫ぶ。
ほんのわずかに片方の悪魔がたじろいだ――ように見えた。確信が持てるかと聞かれれば、答えにためらうかもしれない。そのくらいの微細な動揺だった。
だが仲間にはわずかに振り向こうとした首の動きだけで十分だった。まずは凛があらかじめ二人の周囲に放っていた炎を盛大に爆発させ、エルザの視界を奪う。魔王の息子が腕の一振りで炎を払ったときには、すでにドラゴンに跨った友月の刀が肩口を切り裂いていた。
手が折れそうな衝撃をこらえてすれ違う。エルザの怒りに満ちた反撃がドラゴンの尻尾を捉え、悲痛な鳴き声とともにドラゴンと悪魔の鮮血が暗闇に舞った。
「くっ!」
手痛い攻撃は受けた。だが、そのおかげでエルザの注意はドラゴンに向けられている。
友月の先制は囮。
本命は頭上から迫り来る暁の斬撃だということに気付くのが遅れたのは、凛の魔法が目眩ましとして効果的に機能していたからだ。
ドラゴンライダーの負わせた傷に深々と刀を突き立てる。手応えは十分。しかし次の行動に移ろうとした暁の表情に陰りがさす。
あまりに深々と刺さってしまった故に刀が引き抜けない。竹刀の素振りでは決して経験することのできなかったアクシデント。暁はとっさに柄から手を離した。目の前に暗いものが迫っていた。とっさに顔面を防御すると、腕の骨が折れそうな重たい衝撃が襲った。
ヒビが入ったかもしれない。後方に弾き飛ばされながら暁は感じていた。しばらくは刀を握るのも無理だろう。けど、それでいい。
「後はよろしく、ヒデオ」
暁と友月が離脱したのに合わせて凛の炎がエルザを包み込んだ。
あまりに火力に肌が焼けそうになる。友月が作り、暁が抉った肩口の傷の表面が音を立てて燃える。ヒデオが振り向こうとしたほんの一瞬の出来事だ。
「ヒデオ殿……」
視線が合い、そして過ぎていった。
ヒデオは照準を燃え盛るエルザに戻すと、左胸に向かって迷いなく鉤爪による一撃を与えた。心臓を貫く生暖かい感触。最初にリエーヌを救ったときもこうして胸を貫いた。
「うおおおお!」
喉、腹、腕。
ヒデオは力の続く限り雄叫びを上げ、エルザの身体を滅多刺しにした。サンドバッグのように動こうとしない魔王の息子の命が確実に尽きるまで。凛の炎が火力を増して焼き尽くそうとする。赤い炎のなかから覗いた瞳には憎悪の色が込められていた。
ヒデオはその顔面にトドメの一撃をくらわせた。エルザの痕跡が灰になっていくのを見送って、冷たい大理石の床に倒れこむ。
「ヒデオ殿!」
駆け寄ろうとしてリエーヌは両足を怪我していたことを思い出した。体勢を崩し、這うようにしてヒデオに近づく。
「そんなに焦らなくてもいいだろう」
肩をすくめながらミヒャエルはリエーヌの腕をとって立ち上がらせた。それでもなお走ろうとする彼女を押さえながら、隠れて苦笑する。
「昔はこんな情熱的な娘ではなかったんだけど」
「ヒデオ殿!」
ミヒャエルのつぶやきは耳に入っていないようだった。
リエーヌを先頭に、戦いに参加した三人と王族たちもヒデオの元に集まった。最愛の人の名前を呼びながら胸を殴りつける彼女を止める人はいない。エルザのものと寸分たがわぬ悪魔の身体は、容赦なくリエーヌの拳を傷つけた。
「――リエーヌ」マリアが小さく漏らす。
「焦らすでない! 私はもう待ちきれんぞ! ヒデオ殿のために皆が命を賭けて戦ってくれた、それだけでは不満足か。私のすべてをくれてやってもいい、だから、目を覚ましてくれ……」
彫像のように固まったヒデオの胸板に顔を埋めて嗚咽する。
金属よりも冷たく、硬い感触は、生き物ではないように感じられた。鎧を着込んでいるみたいに外界を拒絶しているヒデオの身体を、リエーヌは強く抱きしめる。
「お願いだから……もう私の前からいなくならないでくれ……」
黒い皮膚を、涙が伝い落ちる。リエーヌのしゃくり声に消されてしまいそうなほど小さな呼吸音が聞こえてきたのを察知したのは暁だった。
「――ヒデオ?」
「兄生きてるよね! だってほら、息してるもん!」
凛もすぐさまヒデオの生命の反応を完治して明るい表情を見せる。最初は弱々しかった呼吸が徐々に戻っていくにつれて、ヒデオの体表もゆっくりと柔らかくなっていった。黒かった肌は白く健康的な血の気を取り戻し、顔の輪郭が表れていく。
リエーヌは傷だらけの手で、ヒデオの温かい頬をなぞった。
生きている。その希望は、すぐに確信に昇華した。
「……生きてるのか、おれは」
「ああ、エルザに勝って、ようやく終わったのだ……」
「ちょっと苦しい……全部覚えてるよ、悪魔になったことも、リエーヌが助けてくれたことも、皆が戦ってくれたことも……」
「喋らなくていい。私たちは勝ったのだ。時間はいくらでもある。もう焦ることなんてない」
「そっか……聞いてないんだな」
「なにを」
「たぶん、あんまり長くはいられない。最後にこうやって、君と喋ることができて、良かった」
「なにを言っているのだ。ヒデオ殿を脅かす敵はもういないのだぞ。ゆっくり城に帰って、ゆっくり怪我を癒やせばいい。そこでたくさん話をしよう。日本のことやヒデオ殿のこと、まだたくさん聞きたいことは残っているのだからな」
「……ごめん」ヒデオはいった。「エルザが教えてくれたよ。あいつを倒したら日本に戻らなくちゃいけないって……全身から力がなくなっていくみたいだ。たぶん、本当のことなんだろう」
「嘘だ、せっかく助けられたのに――これから楽しい時間を過ごすはずだったのに」
「皆も、ちゃんとお別れを言った方がいい。でないと後悔する。さよならさえ伝えられないのは、辛いからな……」
ヒデオのかすれ声にはっとしたように友月と凛は顔を見合わせた。
日本に帰らなくてはならない。突如告げられた事実を受け入れるのにはもうすこし時間がかかりそうだった。
「二人きりに、してさしあげましょう」
マリアの提案に異論は出なかった。各々のパートナーとそれぞれに最後の挨拶をかわすため、ヒデオの周りに集まっていた友月たちは一度彼のもとを離れた。
静かになった空間で、ヒデオが息を吐く。
「おれはずっと、君のなかにいる麗子を追い求めてた。あいつのことが忘れられなくて面影を重ねてたんだ」
「…………」
「リエーヌにとって気持ちのいい話じゃないと思う。許してほしい」
「私は――ヒデオ殿のなんだったのだ?」
恐る恐る尋ねる。まるで答えが知りたくないというように。
「最初は麗子の生まれ変わりだと思った。神様がおれにくれたチャンスなんだって。今度こそちゃんと幸せにしてあげなくちゃいけないんだって」
「……やはりそうか」
「恥ずかしいけど、ついさっきまでそう思ってたんだ。気付いてなかった。君がおれのなかでどれほど大切な存在になっていたか……」
「もういい。聞きたくない」リエーヌはかき消すように声を張り上げて耳をふさいだ。「ヒデオ殿となんか出会わなければよかった。こんなつらい思いをするくらいなら、最初からなければよかった」
「麗子のことは一生忘れられないと思う。忘れるつもりもない。でも、リエーヌ。君と会えたことで、ひとつの区切りができた。おれは自分さえ強ければ麗子を守れたって、ずっと思ってた。違ってたんだよ。いくら強くても無意味だ。仲間がいて、大切な人がいて、それでやっと戦えるんだ」
「しょせん私は代役なのだろう! 顔さえ同じなら、ヒデオ殿にとってそれでよかったくせに!」
「もしそうだったら、リエーヌの声で正気に戻ったりしないさ」
ヒデオは顔を埋めて泣き臥せっている王女の背中に手を伸ばした。小刻みに震えている。
「おれは君のことが好きなんだ。サフランのお姫様で、勝ち気だけど実は弱くて、支えてあげたくなるリエーヌのことが――顔をあげて」
「いやだ」リエーヌは即答した。「ヒデオ殿に、こんな顔を見られたくない」
「時間がもうないんだ。あとすこしで、おれは帰らなくちゃ」
遠くのほうから歓声が聞こえてきたような気がした。予想よりもかなり早く残った軍が進んでいるらしい。魔王の城が制圧されるのも時間の問題だろう。
「わかった。目をつぶってるよ。それでいい?」
「――絶対だぞ。約束を破ったら今度こそ許さぬからな」
「わかってるって」
ヒデオは静かに目を閉じた。リエーヌが顔を上げた感触がある。柔らかな感触が唇に触れたとわかった瞬間、彼は目を開けた。
「ありがとう、リエーヌ」
「嘘つき」
彼女の笑っている顔を網膜に焼き付けて、ヒデオは暗いトンネルへと引き込まれた。
今度は誰ともすれ違うことなく、異世界での思い出だけを連れて日本に流されていく。自然と涙がこぼれてきた。リエーヌとはもう会えないが、彼女は生きている。これからきっと新たな人生を歩んで、立派な主君として国を再建することだろう。
どこかの王子と――もしかしたらミヒャエルと――結ばれるのは考えただけで腹立たしいが、ヒデオのことを想って孤独に生涯を終えるよりはずっといい。彼もまた、日本で新たな相手を見つけるかもしれない。過去は悲しむべきものじゃない。すべて自分の糧にして、未来を行くべきだ。
トンネルの出口が見えてきた。
気付けば、青空が頭上に広がっていた。
「帰ってきたな」
ヒデオがつぶやく。隣で、ああ、と暁がうなずいた。
凛と友月は恥じらいもなく号泣している。それぞれの別れを済ませてきたのだろう。ヒデオはふっと微笑むと怪我だらけの身体をうんと伸ばした。
「さて、これからどうしようか」
場所はよく覚えている。前に訪れたときは暗かったが、間違えようがない。友月が封を剥がした小さな祠にはもうなにも入っておらず、禍々しい雰囲気も消え去っていた。
「ひとまず帰ろう、僕らの家へ。ヒデオ、歩けるか?」
「車があればいいんだけど、さすがにないだろうな。まあ、いい。久々の日本だ。すこしばかり散歩するのも悪くない。携帯の電波が入るところまでは頑張るさ」
泣きはらしている友月と凛の肩を抱いて歩きだす。
どれほどの時間が日本で経過したのかはわからない。けれども長い夜はいつの間にか明けていた。
これにて完結となります。
最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました
活動報告にあとがきのようなものを掲載しているので、もし興味があったらご覧ください




