剣士と悪魔
剣士の勝負は一瞬で決まることもあれば、永遠と思われるほど続くこともある。剣道の試合には時間制限があるためどれだけ拮抗した対戦相手であっても、やがて決着は訪れた。紅白の旗を持った審判員が優勢劣勢を決め、優っていたほうが勝者となる。ルールは明快。だがそれは、しょせんスポーツ化されたものにすぎない。
暁とゼパルは向かい合ったまま動こうとしなかった。お互いの間合いに入るのを待っているのだ。先に動いたほうが負ける。そんな予感がしていた。
小刻みに揺れるゼパルの剣先を、無意識に追いかける。ろうそくの炎のようにとりとめのない軌道を描くそれは、静寂に満ちた空間のなかで唯一時を刻んでいるように思えた。
相手の一挙一動を注視しながら、暁は昔のことを思い出していた。完全に集中し切る前に余計な記憶がちらつくのはよくあることだった。格下との試合ならそれでいい。だが、自分と完全に互角の敵を相手にするには不満足な精神状態だ。
深く、脳の底をさらっていく。
落ちていく感覚はやがて完全な集中をもたらす。暁は過去のフラッシュバックに身を委ねた。
ヒデオと出会ったのは小学校の入学式だった。クラスが一緒だったこと、また、ヒデオが暁と同じように武道を習っていることもあって二人はすぐに打ち解け合った。
元々ヒデオは友達を極端に制限するような男ではなく、いつもクラスの中心的存在だった。男子も女子も隔たりなく彼のことが好きだった。そのなかでも特に篠田麗子とは家が近いこともあって仲がよく、周囲によく夫婦だとかカップルだとか冷やかされていたのを覚えている。
とはいえ、本人たちも満更ではなさそうで、とくに問題になることもなかった。
一方の暁はというと、剣道以外にはとくに取り柄のない少年だった。足繁く道場に通い、めきめきと頭角を現した。練習すればするだけ強くなる感覚が面白くて、次々と年上の少年たちを倒していくのが快感だった。
やがて道場にいた上級生たちを圧倒するようになり、今度は中学生を、果てには高校生にも挑戦した。さすがに小学生の間は負けてばっかりだったが四年生になって全国大会で上位に食い込むと、成長スピードはさらに加速した。
狭い地区の道場などではなく全国から集まってくる強者たちと戦えるのが楽しくてたまらなかった。剣筋を予測し、誰よりも早く自分の竹刀を打ち込む。その奥深さにとりつかれたように暁は練習に明け暮れ、しばらくは学校に行くのさえ億劫に感じていた。
ヒデオも合気道のほうでそれなりの才能を発揮していたようだがあまり詳しく詮索したことはない。違う土俵で戦っている二人が同じ戦場に立つことはない。暁が求めるのは竹刀による真剣勝負であって、武器を持たない相手にはまったく興味がわかなかった。
麗子は歳を重ねるにつれて持ち前の明るさを増し、彼女の周囲にはいつも友人達が集まって談笑していた。小学校の高学年になるとさすがに男女としての意識が芽生えてきたのか、いくらかヒデオと距離を置くようになっていた。それも一時的なもので、中学に入ってすぐ付き合いはじめたと噂を耳にした。名目上は彼氏と彼女という立場になったが、彼らにとってとくに変化はなかったようだ。交際しているというレッテルだけが張られ誰もが認めるカップルになった。
その頃になると暁は全国大会の常連になり、優勝も経験した。だが一度頂点を味わってしまうと自分のなかの熱意が急速に冷めていくのを感じた。つまらない。真剣を持ち、命のやり取りをしてみたい。強く願うようになったが、理性がそれを許さなかった。
生まれてきた時代を間違えたのだ。せめて五百年も前に誕生していれば、思う存分に剣を振れただろうに。
暁は人目につかないところで対人練習を繰り返した。素手の相手にどう勝つか。竹刀でない武器にどう立ち向かうか。複数人にどう対処するのか。そして自分が日本刀を持っていたら、どうなるか。
ありもしない状況を想定して剣を走らせるのは飽きが来なかった。何度かは実践で試してみたくなってわざと不良に絡まれに行ったこともある。結果は予想通りの圧勝だった。あとで警官に見つかってやり過ぎだと怒られたが、どう見ても不良たちに絡まれての正当防衛だということで罪にはならなかった。
道場の師匠は「武道は人の心を鍛えるものだ。強いものが弱いものを虐げてはいけない」と口を酸っぱくして暁に説教したが、そんなものに耳を貸すだけ馬鹿らしい。
強いものはその強さを誇示してこそ意味があるのだ。
戦いたい。その原始的な欲求を抑えこんで生活するのは簡単だった。日本では手軽に命のやり取りが出来る場所などないのだから、自然と諦めるほかなかったのだ。
そうして月日が経ち、麗子は死んだ。気の狂った男に殺されたのだ。不運としか言い用のない事故だった。目の前で恋人を殺されてヒデオは壊れてしまったみたいだった。かつての朗らかな面影はどこにもなく、会っても無理をして笑うか、もしくは人形のように黙っているか。
暁は心からヒデオに同情した。
だが、かける言葉も思いつかず、時間がゆっくりと彼を癒していくのを待つ他ないと考えた。剣道に対する熱意は完全に失っていたので、義理程度に練習はしていたが、もっぱらつまらない大学生活を送っていた。ヒデオと同じ大学なのは偶然だった。ときおりキャンパスで見かける友人の顔は、いつまでたっても影を残したままだ。
そんな折に肝試しに行こうという電話がかかってきた。
聞くと、明石友月というチャラ男から妹を守ってほしいという。夏休みで退屈していた暁は二つ返事で引き受けた。いざとなれば凛が危なかったという名目でその友月という軟派な男を退治できるかもしれない。
自分に霊感があるという根も葉もない噂は、どうでもよかった。大事なのは幽霊に物理的なダメージが通用するのかどうか、それだけだ。
そして魔王の心臓だった黒い石に触れた瞬間、異世界に飛ばされていた。
この世界は暁にとっても楽園のような場所だ。悪魔をいくらでも斬れる。自分の力が予想外に増しているのには驚いたが、それも好都合だ。とにかく強い悪魔と戦って、できるだけ多く刀に血を吸わせる。
暁のなかに元からあった潜在意識が開放されただけなのか、あるいはゼパルの欲求が影響したのか、いまとなってはどちらでもいい。重要なのは飢餓にも似た衝動を満たすこと。
そう、目の前の敵を叩き切ることだ。
ふと焦点が現在に戻った。ゼパルの全身を一つの流れとして把握する。
呼吸が徐々に共鳴していく。
静かに、水面さえ揺れぬように。空気の振動さえ起こさぬように。
剣士たちが踏み出すのは同時だった。
大股で駆け抜ける。
剣を一閃。
風はあとから吹いてきた。
振り向くまでもない。暁が刀を鞘に納めると、背後でゼパルの倒れる音がした。
「――エルザはもっと強い」
すでに標的は次に定められている。暗闇がふたたび視界を包んだ。




