黒い右腕
すこしばかり残酷な表現があります
「助けて……」
震える声は街の雑踏のなかでは聞き取れなかっただろう。
最初に目に入ったのはあの男と同じ美しい銀髪だった。月光を受けて絹のように浮かび上がっている。毛先まで完全に銀色に染まった前髪の間から覗いた顔はまるで運命のイタズラのようだった。ヒデオは思わず息を呑んだ。
助けて、ともう一度命を振り絞るように懇願する。
先ほどの男にやられたのだろう。女はひどく衰弱していてすぐにでも治療を施さなければ生命が危ない。
それ以上にヒデオには彼女を救わなければならない理由があった。拳を握りしめる。背後に迫る風音を冷静に感じとる。剣を構えた男が大振りになった瞬間、ヒデオはがら空きになった顎へアッパーを見舞った。
風に舞う木の葉のように男の細い体躯が吹き飛ばされる。
タイミングさえ合わせればカウンターパンチを放つのは難しくなかったが、ここまで見事に決まったのは初めてだった。ざっと数メートルはあろう距離に男は落下した。
どうやらヒデオたちが戦っているのは森と荒地との境界線らしく、邪魔立てする障害物はひとつもない。ここでならば無事に相手を倒す自信があった。相手は剣を持っているが素人だ。暁の動きとは比べ物にならないほど荒い。
「恨むぞ……リエーヌ!」
よろめきながら立ち上がる男はすでにヒデオを見ていなかった。気絶してもおかしくない一撃だっただけに、感情のみでなんとか意識を保っているのだろう。
ヒデオは相手を無力化するために慎重に間合いを詰めていく。できれば一度攻撃を避けてから懐に飛び込みたい。手負いの敵ほどなにを仕出かすか予想がつかないものだ。それに相手の持っている剣は本物で、かするだけでも致命傷になりかねない。
「殺す……殺してやる」
ゾンビのように覚束ない足取りで近づいてくる。
男の攻撃を引き出すため、前に飛び込むようなフェイントをかける。ヒデオの目論見通り大振りな軌跡が鼻先を通り過ぎていく。流れを切らさず無防備になったみぞおちへ殴りかかる。
これで勝負は決するはずだった。
しかし、固めた拳を叩きこむより早く、ヒデオの心臓を絶対零度の血液が凍りつかせた。呼吸ができなくなる。水銀のように悪意に満ちた液体が体の内側を侵食していく。戦うどころか生きているのさえ精一杯なほど苦しかった。
膝から崩れ落ちたヒデオの瞳に、女の血がこびりついた剣が写る。
それは遅鈍だが確実に頭上へ振り下ろされていた。防御は間に合わない。殺されるという確信と生き延びたいという欲求が矛盾するように生まれた。
文字通り風を切る音が耳元に迫る。
鋭利な刃先がヒデオの皮膚を抉るその瞬間、ヒデオを支配していた違和感が右腕に集中するのを感じた。
――男の細身の体躯が力なく宙に浮かんでいた。
黒い腕が腹部を貫通している。明らかに人間のものではない右腕は、たしかにヒデオの肩につながっていた。異常な光景を網膜に焼き付けて、腕はすぐに元通りになった。男の内蔵を串刺しにした右手には生暖かい感触が残っている。二度と忘れることのできない生身の人間を突き通した手触りは、現実とあまりにもかけ離れていた。
掌を握ったり、開いたりしてみる。たしかにヒデオの右手に間違いなかった。
「殺す、つもりなんて……」
できれば気絶させて穏便にことを済ませたいと思っていた。命の瀬戸際におかれたヒデオを救ったのは自分のものではない、けれど疑いようもなく自分のものである右腕だった。
だらしなく地面に突っ伏している男は人形のように動くことがない。おそらく即死だったはずだ。なにが起こっているのかさえ認識できなかっただろう。ヒデオにさえ事態は飲み込めていなかった。
呆然と立ち尽くす彼の火照った顔面を森の風がないでいく。
やるべきことがある。
年輪をのぞかせる切り株の根本に横たわる女性――リエーヌと呼ばれていた――は微弱な呼吸を繰り返すばかりで、それ以外に生きているという証拠がなかった。かなり衰弱している。すぐにでも手当を施さなければ危険な状態だ。
とくに大腿部からの失血がひどく、大量の血を失っているようだった。
素人目で判断できるのはここまでだ。シャツを脱ぎ、太ももの付け根をきつく縛って止血する。何箇所か骨折もしているようだが固定している暇はない。
一番近くにある人のいそうな場所はただひとつ。
ヒデオは女を背負うと、夜の暗闇に揺らめく炎の群れを目指して歩きはじめた。通り際に男の死体を横目で見やる。結果的に生死が逆転した男女がどんな境遇を辿ってきたのかヒデオに知るすべはない。今はただ背中で弱々しい拍動を刻んでいる彼女を助けるだけだ。
ヒデオは進む。その身に宿った運命の鼓動をかすかに感じながら。
近づくにつれ火の明かりは野戦陣地の様相を露わにした。
本陣と思しき場所には無数のテントが立ち並び、松明を持った人影がせわしなく動き回っている。周囲をぐるりと堅固な柵が覆っており、いかにも戦うための施設という印象を与えた。
リエーヌの倒れていた森と陣地との距離はさほど遠いわけではなかった。ただ裏手に位置するためかあまり人がいない。
灼熱の砂漠にオアシスを求めるようにヒデオが歩いて行くと、警備の兵隊の一群に遭遇した。声をかけるよりも早く取り囲まれる。五人一組の男たちの仕事ぶりはさすがで、たちまち身動きが取れなくなる。
「ここでなにをしている」
隊長らしき年長者の男が詰問する。
ヒデオは背に負った少女の容態を案じながら懇願した。
「こいつの治療をしてやってくれ。今にも死にそうなんだ」
「不審な人間をうかうかと陣内に招き入れるわけにはいかない。どこから何の目的で来たか答えろ」
「そんな場合じゃないんだよ!」
声を荒らげて反論する。一秒でさえ惜しいというのに、こんなところで押し問答をしているわけにはいかない。
「こいつのことを誰か知らないのか。たぶんどこかのお偉いさんの令嬢だ。怪我していたところを通りかかって助けた。かなり重傷で今すぐ手当しないと命が危ない」
少女の衣服は血で汚れているとはいえ一般の兵士が纏うような代物ではなく、生地に絹が使われているようだった。長くつややかな銀髪はよく手入れされており、彼女を襲った男の身なりも相応に身分の高いことを示していた。特に宝石をあしらった剣は庶民が持てるようなものではない。
兵士のひとりが、顔にかかっていた少女の前髪をどける。絵画のように上品な顔立ちを見て、幽霊でも目の当たりにしたかのように息を呑んだ。
「隊長、これは……」
「見せろ」
慌てて隊長が松明を近づけ、少女の面貌を確認する。さきほどの兵士よりもさらに深い驚愕の色が彼の表情に出た。
「すぐに上官をお呼びしろ。私の一存では判断できない」
「おい! ふざけてんのか!」ヒデオが血相を変えて怒鳴る。「瀕死の少女ひとり助けられないのかよ! あんたたちこの娘が誰だかわかってんだろ、だったらすぐに――」
「にわかには信じられん」
うわ言のように上官はつぶやいた。
「これがもし本当なら大変なことになる」
「死んだらあんたの責任云々の話じゃないんだぞ。取り返しのつかないことになる前に早く連れて行ってくれ!」
「わめくな。今は待て」
「おれはこいつを二度と死なせるわけにはいかないんだよ!」
「我々だってそうだ!」
隊長が一喝する。
あまりに重大な事件が発生すると、現場の人材では判断できないような問題が起こる。死にかけの少女はまさに上官の権限の範囲外にいる存在なのだろう。だがヒデオにとってそんな瑣末な逡巡はどうでもよかった。彼らを押しのけ陣地に向かって走りたかった。先ほどのように黒い右腕の力を利用すれば兵士の数人くらい一蹴できる。そうしないのは少女――リエーヌの不利益にしかならないからだった。治療してもらうためには信用がいる。それがヒデオに与えられていないことがもどかしかった。
「――その女性が誰だかわかっているのか」
「いいや知らない。救わなきゃいけない人だとしか」
「下ろせ。あとはこちらで引き受ける」
「乱暴に扱うな、あちこち骨も折れてるんだぞ!」
なかば強引に奪い取るように兵士たちが少女を引きずり下ろす。松明のもとで見る彼女の血色は想像していたよりもずっと青白かった。
ヒデオの知っている世界ならばハイテク機械と輸血で頭のいい優秀な医者たちが適切な治療をしてくれる。だが迷い込んでしまった異世界の文明レベルはお世辞にも高くはない。どの程度の怪我ならば助かるのか見当もつかない。
軍隊の陣地なのだから軍医の何人かは常駐していることだろう。ヒデオに出来るのは彼らに一刻も早くリエーヌを引き渡すことだった。
そう、ここは異世界なのだ。
言葉も、日本語ではない、フランス語に似たような発音の言語を気付かぬうちに操っている。理屈はわからないが、とにかくどこかへ迷い込んでしまったのは間違いない事実だった。
「貴様にはあとで色々と尋ねることがある。逃げようなどと考えないほうが身のためだぞ」
「そんなことなら最初からあんたたちに声をかけたりしない。責任者とやらはまだなのかよ、早くしないと本当に――」
「隊長っ、お連れしました」
「ルーク様、こちらでございます」
息せき切って上官らしい老いた男と、担架を持った複数人の兵士たちが駆けてくる。上官はひと目ばかりリエーヌの様子を伺うと小さく頷いた。すぐさま軍医たちが少女を担架に移し、駆け足で陣地へと引き返していく。
ルークと呼ばれた老人はヒデオの血濡れた右腕を訝しげに見つめ、こういった。
「……私の大切な姫様は殺させない――こんなところで死なせるわけには」
ヒデオは遠ざかっていく少女を見つめながら、大きく息を吐いた。
これでもうヒデオにできることはない。あとは神様に祈りを捧げるくらいのものだ。
安堵の余韻に浸る間もなく隊長がヒデオの腕をがっちりと掴んだ。すかさず両脇を兵士に抑えられる。体術を学んでいるのか逃げ出す隙はなさそうだった。
「貴様はこれから重要参考人だ。なにがあったか包み隠さず説明しろ」
ヒデオはじっと兵士の
「通りかかったら怪我をしていたから助けた。それ以上でも以下でもない」
「……あの女性を発見した場所に案内しろ」
「そこの血痕を辿っていけばいずれ着く。そう遠くはない」
松明で地面を照らしながら点々と残るリエーヌの血の痕跡を追っていく。それは道標のようにヒデオたちを男の遺体があるはずの場所へと誘っていた。
「ずいぶんと手が汚れているな」
目を細めながら隊長が問う。
ヒデオの右腕は手首までワインの樽に浸したみたいに赤黒く染まっている。不審に思われるのも当然だった。
「出血がひどかったからな。そのときにべっとり血を浴びた。上着を脱いで止血しなければいけなかった」
「なぜ右手だけなのだ。不自然だろう」
「利き腕は右なんだ」
説明になっているのか分からないが誤魔化す。
まさか右腕が突然変異して見知らぬ男性の内蔵を貫通したとはいえない。それもおそらくリエーヌと同じくらい高貴な身分である男を殺害したことは、黙っていたほうが得策だろう。すべては彼女が意識を取り戻したときに明らかになる。それまでは無言で真実を隠匿しておくべきだ。
「女性のほかに誰か目撃しなかったか」
「さあ。うめき声がしたんで近づいてみると女の子が倒れていた。それだけだ」
「この暗闇のなかを明かりも持たずにか」
「夜目はきくほうなんでね」
軽口を叩かずには緊張を紛らわすことができなかった。
このまま進んでいけば男の死体はすぐに発見される。そうなればまっさきに疑われるのはヒデオだ。たまたま散歩していたなんて小学生が考えそうな言い訳は通用しない。
なにより恐ろしいのはここがヒデオのいた日本ではないことだ。
指紋採取ができるような科学技術は発展していないようだが、それよりももっと簡単に真実を暴露させる方法がある。映画のなかでしか見たことのない最悪の光景がずっと脳裏にちらついて離れなかった。
「……ここか」
「ああ、そこの切り株のところ」
顎でしゃくってみせる。
平然としなければ。
心臓がかつてなく高鳴っている。ヒデオが突如として異世界にワープしたように男の遺体も消失していないだろうかという淡い期待は、ひとりの兵士の無情な報告によって砕かれた。
「隊長!」
信じられないといったように表情が固まっている。
隊長はおずおずと男の脈を取ると、力なく首を振った。沈黙よりも重たい空気を全員が共有していた。ヒデオはバツの悪そうにうつむいた。自分が殺したのだ。改めてその事実を認識する。殺してしまった。
「――このことは極秘事項とする。もし外部に漏れればこの場にいる全員が罰せられると思え。たとえ同僚であっても絶対に教えるな。いいか、これは国の存亡に関わる事態だ。家族や恋人、それに自分自身を守りたかったら唇を縫いつけろ。わかったな」
それは命令だった。
兵士たちが恐々とうなずく。
「さて」と隊長はいった。「貴様にはすべてを話してもらおう。真実を隠そうとは考えるな。生まれてきたことを後悔させてやる」
喉元に抜刀した剣を突きつけられる。
かくも簡単に命を奪うことのできる凶器の冷たさは、やはり気持ちのよいものではなかった。




