了解
「入れ」
ジンが命ずると、喉元に剣を突き立てられた悪魔が堂々とした足取りで入ってきた。両手は後ろ手に拘束され、二十あまりの弓兵がいつでも狙撃できるよう矢をつがえて待機している。ジンの両隣にはドラゴンに乗った友月と、静かに悪魔をにらむ凛が控えており、警備は万全だった。
「膝をつけ」
兵士が乱暴に引き倒す。悪魔は黒一色に染まった表情を変えようともせずに、淡々と用件を述べはじめた。
「魔王の使者としてキタ。お前たちとコウショウするツモリがある」
「ふん。悪魔と会話するのは初めてだが、ずいぶんと拙い言葉を喋るものだな。もっとマシな使者は用意できなかったのか」
「――魔王はお前たちとアイタイといっている。ニンゲンの王だけではなく、そこにいるお前たちもだ」
悪魔はジンの左右にいる凛と友月に向けていった。
「俺たちだと?」
「ソウだ。魔王は和平をノゾンデいる。これ以上のギセイはどちらにもムダになる」
「状況が不利になってすぐに講和を持ちかけるとは、王の冠を頂く資格もない軽薄な輩だな。我等は悪魔などに媚を売るつもりは毛頭ない。引き返して魔王とやらに伝えろ。首を洗って待っていろ、とな」
ジンは鼻で笑って提案を一蹴した。
「お前たちはドウだ、悪魔の血をヒク者たちよ」
王の説得は最初から眼中になかったとでもいうように、悪魔は標的を変えた。ジンの顔が怒りで赤く染まっていく。だが凛は至って冷静に返事をした。
「私たちに決める権利はないもの。この戦争は人類と悪魔の代表者によって行われている。私たちの王がダメというなら、それに従うわ」
「ハタシテ、いつまでそう言っていられるかな」
「なにを……」
友月が警戒して薙刀を構えようとしたとき、なんの前兆もなく身体が痙攣しはじめた。全身から体温が抜かれ、代わりに氷水を流し込まれたかのように寒い。いままでほとんど感じることのなかった内側に眠る悪魔の存在。呼応しているのだ。本来あるべき場所へ帰ろうと共鳴し、彼らの脆弱な身体を奪おうとしている。
「貴様、なにをした!」
兵士たちが一斉に喉元へ刀を突きつける。悪魔は高笑いしながら応えた。
「運命のサダメに従っているだけだ。エルザ様が戻ってクル。お前たちはミナ殺される」
「貴様の仕業ではないというのか!」
「ソウダ! ワレラの真の王が戻ってクル。お前たちにミライなどない。あるのは絶望とシだけだ!」
「その者の首を刎ねろ!」
ジンの怒号とともに刀が振り下ろされた。ダンクの高度な技術によって磨かれた刃が悪魔の首を切断する。笑ったままの首級がころりと落ちた。それでもなお二人を襲う痙攣は収まることがなく、壊れたロボットのように震えた。
「おい、しっかりせぬか、おい!」
ジンの呼びかけにも反応を見せず、彼らはなにか別の存在と戦っているようだった。その姿はまるで悪魔に魂を抜かれまいと奮戦しているようでもあり、己を喪失しないために懸命に体温を取り戻そうとしているようにも思えた。
「医療兵を呼べ! 最優先で手当させるのだ!」
運ばれてきた白い担架に乗せられた直後、二人の痙攣は何事もなかったみたいに沈黙した。それでもなお意識が戻るまでには時間がかかった。
友月と凛が眠っている間、クワガ軍は無理に足を進めようとしなかった。その日の夜に、ミヒャエル率いる連合軍が追いつき、ようやく大陸すべての軍が合流したときには、四人の来訪者はそれぞれ深刻な面立ちで立ち尽くしていた。
「結論からいえば、おれたちは魔王の膝下に潜り込まなきゃいけない」
ヒデオが切り出したのは各国の王と日本から訪れた四人が一堂に会したテントのなかでだった。夜の帳はとうに落ち、外では無数の星が地上を眺めている。耳を澄ませば兵士の寝息さえ聞こえてきそうな、不気味な静けさの支配する空間だった。
悪魔の使者が来たことは、すぐにミヒャエルたちにも伝えられた。もちろん大問題ではあったが、それ以上にヒデオたちの突然の発作がなにを意味するのか、彼らは第一にそれを知りたがった。
「エルザが戻ってきたというのは本当か」
リエーヌが車椅子から上半身を前傾させて聞いた。ことヒデオに関しては悪魔化の危険が付きまとう。今回のような痙攣が再び起きれば、人間のままでいられる保証はどこにもないのだ。
「正確にいえば、まだ、戻ってきてはいない。でもすぐにこちらの世界へ帰ってくるだろうな」
「なんていうか……儀式に取りかかったみたいな感じだった。日本からこっちに来るのにも、ある程度の準備が必要なんだと思う」
ヒデオと友月は口々に感想を述べた。
「我々にはどのくらいの時間が残されていると思うか」
リエーヌが厳しい口調で質問する。凛は首をひねりながら、
「あと……数日も猶予はないかな。はやければ数時間くらいかも」
「確証はないということか。エルザたちが帰ってくるとなれば、四人の体調を含め、想定できないようなことが続出するだろう。最悪の場合、交換で日本へ行ってしまう可能性もある。しかし――」
ミヒャエルは悩ましげに美しい金髪をかきむしった。
「数日内に魔王を倒し、万全な状態でエルザたちを返り討ちにするのは無理だ。それを行うためには魔王の元へ赴き、約束を違えてでもその場で倒してしまうほかない」
「ザイドによるユラン侵攻も、この時のための時間稼ぎだったのかもしれませんわ。時間的制約を設けることで私どもを不利な状況へ追いこむ……それが真の目的だったのです」
「マリアのいう通りだろう。ヒデオ殿たちを罠にはめて殺害するという表面上の建前の裏に、すこしでも我々の侵攻を遅くしたいという目論見があったのだ。エルザさえいれば勝てる……と、そう信じているのだろうな」
リエーヌは焦れったそうに車椅子の車輪を指でなぞった。長旅のためにタイヤの溝が浅くなっている。だが、もう交換することもないだろう。決戦の時は間近に控えているのだから。
「魔王はいずれにしても倒されるよ。敵の狙いがなんだかはっきりしないけど、それだけは確かだ」
ヒデオは自信をもって断言した。
「たしか魔王は心臓を抜かれて弱体化しているという話だったな。四人が揃えば敵ではないということか」
「いまなら、おれひとりでも魔王を倒すことはできる。けどそういう意味じゃないんだ」とヒデオはいった。「エルザは魔王を殺す。心臓を返そうなんて最初から思ってはいないんだ。四天王のやつらも、それを承知の上で付き合っている」
「実の父親を殺めるというのか!」
リエーヌが悲痛な声で唸った。彼女の父はルークの陰謀によって暗殺された。なによりも大切だった家族を失った彼女にとって、父を自分の手にかけることは自分を殺めるよりも許されないことだった。
「あいつは魔王を父親だなんて思っちゃいない。老いてなお王座にしがみついているだけの遺物だ。かつては強かったらしいが、いまは見る影もない。隙さえあればいつだって殺すつもりだ」
「ならばどうして魔王の心臓を回収しに日本へ行ったのだ。エルザにとって一つも良いことはないだろう」
「心臓はいわば魔力の結晶、魔王の力の源だ。そいつを自分に取り込めば強大な力を得ることができる。エルザは最初からそのつもりで向かったんだ。魔王以外はとっくに気付いていただろうけどな。ザイドが残ったのはおれたちを倒して食らうことで、ほかの悪魔の力を多少なりとも吸収するつもりだったんだろう。ほかの四天王も、自分がいち早く心臓を見つけ出し、その魔力の恩恵にあやかろうとしたんだ」
「誰一人として魔王のために働いている者はいない……か。悪魔らしいな」
暁が銀色に光る剣を手入れしながらつぶやいた。
日本刀のように滑らかな曲線を描く刀身は、悪魔の血で汚れている。神経質なほどに布で磨いてから、バラバラに分解したパーツに油をさす。まるで百年もそうしてきたように鮮やかな手つきだった。
「魔王はすっかり弱ってしまったから、息子にすがろうとしたんだ。エルザだけは自分を裏切らないでいてくれるってな。そんなもの老人の幻想だ」
「魔王を倒せば心臓が止まるということはないのか?」
リエーヌは最後の希望にすがるように尋ねた。
「最初にそうすべきだったんだ。魔王を倒せば、やつの一部である心臓も力を失う。けどもう遅い。エルザは魔王が死んだ瞬間に心臓を取り込むだろう。心臓に宿った魔力が喪失するまでにはいくらかタイムラグがあるからな」
「あやつはまだ心臓を取り込んではいないのか」
「悪趣味な野郎なんだよ、エルザって悪魔は」ヒデオは盛大に舌打ちをした。「魔王の眼前で心臓を吸収することで、絶望させながら殺そうって魂胆だ。邪魔だった魔王を蹂躙するのがひとつの夢なんだよ」
「……本当に、なぜそのような輩がヒデオ殿と交わったのか不思議でならないな。性格もなにも、まるで正反対だ」
魔術書の魔法が発動したとき、副作用として人間と悪魔の一部が移った。それぞれ互いに最も惹かれ合う対象に、力の一部を引き渡したのだ。
ヒデオの場合、相手は悪魔の王子エルザだった。
「孤独なんだよ、おれもあいつも」
肩の力を抜いて、ヒデオはいった。
「おれたちの共通点はそれだけさ」
「……ヒデオ殿はいまでも孤独を感じているか?」
「リエーヌがいる。もうおれはエルザと同じじゃない。君がいてくれたから、おれは悪魔にならずにすんだんだ」
サフランの王女の、長く艶やかな銀髪を撫でるように叩く。春を迎えた花が色付くように彼女の頬に紅がさした。
「んで、エルザを倒すならやつが心臓を吸収する前か、その直後しかチャンスはない。魔力があいつに馴染む前に勝負をつける。そのためには魔王の誘いに乗って和平交渉でもなんでも受けなくちゃいけない。あちら様が本気なら、また使者を送り付けてくるだろうよ」
「僕はそれで構わない」発言したのは暁だった。「敵のほうから招待してくれるなら好都合だ。悪魔とはいずれ決着を付けないといけない」
「俺も」と友月。「ヒデオが一番強いやつと闘わなくちゃいけないんだから、俺たちが嫌だとか言える立場じゃないよな。それに、俺たちが悪魔の幹部を倒せば、ここでの犠牲も少なくなる。助けられる命があるなら俺は助けてあげたい」
「兄が行くならあたしも行く。さっさと自分の相手をやっつけて兄の味方すれば、エルザがパワーアップしていようとなんだろうと絶対に勝てるよ。リエーヌとの約束もあるしね」
「君たちに異論がないなら僕はその策に同意しよう。軍のことは心配しなくていい。ダンクには僕のほかにも優秀な指揮官が控えているからね」
ミヒャエルは各国の王をぐるりと見回した。皆すでに決意は固まっているようだった。
「ふん。悪魔の総大将と一騎打ちができるまたとない好機を逃す手はない。臆病風に吹かれて二の足を踏むのは、愚者のすることだ」
「友月様の決断に賛成いたしますわ。微力ながら私も悪魔を倒すために働きたいですもの」
「――リエーヌ、君はどうだい」
ミヒャエルが声をかけた。王女はうつむいていたが、大きく息を吸って、堂々と顔をあげた。
「行こう。悪魔と我々の因縁を精算するために。我らの呪われた因果を断ち切るために。この捻じ曲げられた運命を修正するために!」
「よく言った! 天晴だ小娘!」
ジンが豪快に笑い声を上げる。彼の横で、刀の手入れを終えた暁がニヤリと微笑んだ。
「景気づけに酒でも飲むか!」
友月が明るく提案するが、賛成する者はいなかった。マリアと凛に酒を与えたら、まともに動けなくなるだろうという暗黙の了解があったのだ。
「伝令でございます!」
ひとりの兵士が息せき切ってテントの幕を開いた。来たか、とヒデオは思った。
「悪魔側の使者が再度現れました。いかがいたしますか」
「ここへ通せ」ジンは威厳をもって命じた。「我等と悪魔の決別のときだ。歴史的な瞬間を、しかとその目に焼き付けておけ!」




