予兆
上空を優雅に舞うドラゴンの散歩は、そう長く続かなかった。谷沿いに滑空飛行をしていると、眼下に人の群れがわだかまっているのが見えた。視線をさらに前へ向けると、なにやら小競り合いを起こしているようだ。
「友月さん、あれ!」
「――敵の数はそんなに多くない。加勢すればすぐに片付くよ」
「行こう。暁さんもいるかもしれないし」
「急降下するからしっかり掴まって!」
友月が手綱を引くと、青いドラゴンは翼を折りたたんだ。空気抵抗の減った巨体は重力に任せるがまま落下していく。凛は思わず悲鳴をあげた。どんなジェットコースターよりもスリリングだ。安全装置はついていないし、レールも敷かれていないのだから。
ドラゴンが再び大きく羽ばたいたとき、小粒ほどに見えていた人影は明確な実体を持っていた。
悪魔と人間の兵士が散り散りになって小規模な戦闘をしているようだ。数は人間のほうが多い。だが見たところ劣勢のようだった。あちこちで断末魔の悲鳴が上がる。凛は両手に炎を宿すと、倒れた兵士にとどめを刺そうとしている悪魔に狙いを定めた。
「吹き飛べ!」
一筋の炎が蛇のように悪魔の身体に絡みつく。炎は悪魔を拘束したかと思うと、巨大な火柱に变化し、塵も残さずに焼き尽くした。
「どっちかというと、消し飛べ、だね」
「うるさい! 友月さんも働いてよ!」
「オーライ」
巧みにドラゴンを操って上昇下降の動きを反復する。自分の一部であるかのようにドラゴンが躍動するたび、友月の薙刀が赤く染まっていく。
空中からの援軍によって形勢は一気に逆転した。二人が到着して三十分もすると、あらかたの悪魔は片付いて、あとには静かに砂塵が舞うばかりだ。友月はドラゴンを地上に下ろすと、ぽかんとした顔で見上げている兵士に声をかけた。
「――責任者のいるところまで案内してもらえる?」
「……あ、はい」兵士はようやく夢から覚めたような声を出した。「あの……あなた方は」
「ダンクの第一王子ミヒャエルとユランの女王マリアの代理で参りました。暁さんの友達っていえば通じるかしら?」
「あ、暁様の御友人でいらっしゃいましたか。すぐにお連れいたします」
国の名前を出すよりも、暁の影響力のほうが大きいようだ。
周囲の無遠慮な視線を浴びながら本陣へと赴く。普通の兵士にとってドラゴンを見るのは初めての経験だろう。ときおり威嚇するようにドラゴンが鼻を鳴らすと、腰を抜かしそうになる兵士もあった。
「こちらで少しお待ちください」
通されたのは布幕の張り巡らされた一角だった。
家紋のような模様が延々と連なり、まるで日本の戦国時代にタイムスリップしてしまったような錯覚に陥る。
「どことなく日本っぽいよなあ」
友月がドラゴンのざらついた頭を撫でながらいった。
「ほんと。ユランやダンクとは全然違う」
「兵士の甲冑とか、出で立ちなんかも日本風だし。ここだけ江戸時代みたいだ」
などと感想を言い合っていると、陣幕の向こうから屈強な体格の男が姿を現した。全身が引き締まった筋肉の鎧で覆われており、さながら武術を極めた師範のようだった。
他の兵士と違って彼だけは甲冑をまとわず動きやすい甚兵衛のような服を着ている。よほど自信があるのか、あるいは重たい格好が嫌いなのか。ジンは小さく一礼すると、友月と凛の前に腰を下ろした。
「――お久しぶりでございます。ダンクの王子ミヒャエルの代理として参りました、坂本凛と申します。こちらは同じくユランの王女マリアの代理、明石友月でございます。この度は勝手ながら悪魔との戦いに加勢させて頂いた次第です」
凛が低頭して挨拶を述べる。横目で見ていた友月も真似をして頭を下げた。
本当は代理でもなんでもなくただの偵察だったのだが、ミヒャエルたちの後ろ盾があったほうが心強い。ジンは大儀そうに頷いた。
「ようやく我等に追いついたか。して、ユランは如何した。奇襲を受けたとは聞いたが」
「手痛い被害を被ったものの悪魔たちを殲滅し、いまは当軍の後方に位置しています。主力のダンク軍はほぼ無傷であり、これからの戦いに支障はございません」
すらすらと原稿を読み上げるように報告する。
こちらの世界に来てからというものミヒャエルと一緒に行動していたため、自然と高貴な喋り方が身についた。将来の妃になるのだからマナーを実践する良い機会だ。
「今頃のうのうと現れおって。日頃から軍備を整えておかぬから不意を突かれるのだ」
腕組みをして、愚痴を垂れる。とはいえ、普段から不機嫌そうな調子なので、ことさらに腹を立てているというわけではなさそうだ。
「――ところで、軍を合流させるためこの場に待機してもらいたい。ここからそう遠くない距離だから一日とかからずに追いつけるはずだ」
友月が気まずそうな顔で話題を変える。だが、ジンは、
「断る」
一蹴した。
「ダンクが勝手に追いつけばいいだけの話だ。わざわざ我等が足踏みをして、悪魔の眼前に晒されている必要はない。好機を逃せば挽回は難しくなる。ここまでの快進撃があったのは迅速をもって烈火のごとく攻め立てたからよ」
「いつ敵が大軍で向かってくるともわかりません。ですから、こちらも相応の兵力を整えるべきでございましょう。クワガ軍も精兵揃いといえど連戦で疲労が溜まっているはず。ダンクの兵を前線に出し、少し休息を取ってはいかがですか」
「侮るな小娘。我が兵は最強を誇る。このくらいの戦で音を上げるような鍛錬はしておらん」
「……そうでございますか」
頑固に拒否するジンに、凛は根負けした。
「ならば我々は一度引き返し、その旨を伝えたく存じます」
「ちょっと質問してもいいかな」友月が辛抱を切らして手をあげた。凛に睨まれるのも気にせず、「暁はどこにいるんだ。俺たち暁の友達でさ、ずっと探してたんだけど見つからなくて、この軍にいるんじゃないかって聞いたからさ」
「うむ……前線で戦っているはずだが……おらんかったか?」
「いいや」
「また深追いしてどこかに迷い込んだのだろう。彼の行方はこちらが捜索しておく。案ずるな、よくあることだ」
「じゃあやっぱり、暁は生きてたんだな! 元気にやってるのか?」
ジンは友月のさっぱりした言葉遣いをまったく意に介そうとせず、むしろ微笑を浮かべて首肯した。
「悪魔を斬るために生まれてきたような男だ。まさに一騎当千。彼がいなければ我等もこうは簡単に勝利を収められなかっただろう」
「ひと目会いたかったんだけどな――無事ならそれでいいや。ありがとう。あいつがいるってわかっただけでも良かった。友月と凛ちゃんがよろしくって言ってたと伝えてくれ」
「若造、お前は龍使いだそうだな」
ドラゴンライダーという意味だろう。友月は誇らしげに胸を張った。
「乗せて欲しいなら、どうにか都合つけるぜ」
「儂には馬のほうが似合っておる。それよりも聞きたいのは、お前たちが暁と同等に戦力になるか否かということだ。もしも彼の邪魔になるようなら引っ込んでおれ。悪魔の王でさえ斬れる実力者に、足手まといは必要ない」
「決して暁さんに引けを取るつもりはありません」
凛は強い口調で告げた。意志のこもった瞳でジンの顔を見上げる。
「俺も、暁ほどじゃないかもしれないけど、弱くはないつもりだ。向こうにはヒデオもいるし、四人で力を合わせれば悪魔だろうがなんだろうが倒せるぜ」
「その言葉に嘘偽りはないか」
「ございません」
即答する。
クワガの王は目を細めて、二人の若者を見やっていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「数刻は待ってやろう。お前たちの助勢でいくらか戦の終わりが早まった。その分だけはここに留まることにしよう」
「あ、ありがとうございます」
凛は友月の後頭部を押さえて平伏した。
「……なんか認めてくれたのかな」
友月が耳打ちする。
「暁さんへの信頼が、それだけ大きいってことでしょ。あとで感謝しなきゃ」
「あーあ、こんなことなら俺も剣道を習っておけばよかった」
ため息をつくそのそばから、一人の兵士が血相を変えて駆け込んできた。無礼だぞ! と叱責する声を振りきってジンの元へ走り寄る。
「敵か?」
「使者にございます!」
「詳しく話せ」
膝を折って目線を兵士と同じ高さに下げる。友月と凛は互いに顔を見合わせて兵士の話を注意深く聞いた。
「先刻の戦闘が終わった後、使者を名乗る悪魔が現れ、殿との面会を望んでおります。すでに捕縛は済み、抵抗の兆しがあればすぐに対処できるよう措置は取っております」
「……ふむ、罠の可能性もある、か」
「ジン様、私どもを護衛につけるというのはいかがでしょうか」
凛の提案に、王は興味を持ったようだった。
「小娘、たしかお前は魔法とやらが使えるのだったな」
「はい、このように」
おもてにした手のひらから小さな炎を現出させる。力を証明するにはそれで十分だ。
「友月さんもドラゴンに乗せて待機させれば、暗殺されかけたとしてもすぐさま安全な上空へお連れすることができます。悪魔側の使者が来たとなれば、なにかしら敵としても不都合なことがあるはず。それを見極めるだけでも有益でございましょう」
「暁がいれば彼に頼むのだが、ここはひとつお前たち日本からの来訪者の力を借りることに致そう。すぐに準備にかかれ。使者とやらをここへ通すのだ」
「はっ!」
きびきびとした動作で兵士が幕外に消える。
にわかに周囲が慌ただしくなった。
悪魔との会談。それが果たして成功するのか、まだ誰にも分からなかった。
暁の話によるとクワガ軍は半日も行軍すれば追いつける距離にいるという。身体能力の向上した暁ひとりと大勢の兵士が進むスピードが違うのは明らかで、たとえ悪魔を追いかけて辿り着いたとしても不思議ではなかった。
時刻はまだ昼を過ぎた頃合い。夜営の準備をするころには追いつけるだろうというのがミヒャエルの予測だった。
いまのところ大した連携もなく少勢が分散して襲いかかってくるだけだが、いつ兵を結集して反撃に出てくるかわからない。早めに軍を合流させるのは戦略的にも重要だった。
「それにしても友月殿が遅すぎるな」
リエーヌが心配そうに上空を見つめる。忙しなく白い雲が通り過ぎていくほかに影はなく、ドラゴンライダーが帰ってくるには時間がかかり過ぎていた。
「なにか突発の事態が起こったのかもしれませんわね。凛様もご一緒でしたから、大丈夫だとは思いますけれど……」
マリアも胸の前で手を合わせている。友月のことが不安なのだろう。
「まさか、もうエルザたちが戻ってきたのか」
「そうだったらおれたちが気付いてるだろうよ。いまの悪魔に、友月と凛を襲えるようなやつはいないはずだ」
ミヒャエルの言葉をすぐに否定する。
エルザの記憶にアクセスすることで悪魔軍のだいたいの情報は把握できる。彼が旅立つ前までの情報だが、この数カ月でそれほど大規模に変わってはいないだろう。
「殿にお会いしているんだろう。あの二人ならきっと殿のお気に召すから、向こうで僕らを待っているのかも」
「そんなとこだろうな。魔王が降参しにきたのでもない限り、危険はないはずだ」
突然に悪寒がヒデオの全身に走った。体温がすべて奪われ、身体が凍りづけになったような感覚。隣の暁を見ると、同じように両腕で自分を抱きしめ、歯を打ち鳴らして震えている。
「――どうしたのだ、なにかあったのか」
リエーヌが表情を翳らせて二人の顔をのぞき込む。明らかに異常だ。
「すぐに離れるんだ。暴走するかもしれない」
「しかし――」
「早くしろ! 死にたいのか!」
なおもすがろうとするリエーヌの車椅子を強引に兵士が遠ざける。
「ヒデオ殿!」
二人はほとんど同時に膝を折って、地面に倒れた。激しく痙攣している。悪魔化の兆候は見られないが、彼らの内にある存在が元凶なのは明白だ。
まるで極寒の地に追いやられたかのように震えていた二人はやがてぐったりと力なく静止した。
「まさかっ……」
「よく見るんだ。胸が上下している。死んではいない。すこし経過を見守ったほうが良さそうだが」
ミヒャエルは冷静に観察していた。
ひどく体力を使ったようでヒデオと暁は倒れこんだまま起き上がろうとしなかった。駆け寄って安否を確かめたいのは山々だったが、いまの二人に外部から刺激を与えるのは逆効果かもしれない。
もどかしい時間だった。
マリアは心配そうに北の方角を見つめた。そちらには友月と凛がいるはずだ。もしもこれが悪魔たちの帰還を示す証拠だとしたら、彼らも同じような症状に見舞われているだろう。
「友月様……」
想い人が近くにいない。
それは胸の奥を締め付けるほど窮屈な感情だった。




