人間
「……あの悪魔がヒデオ殿だって? まさか、そんなことがあり得るのか」
ミヒャエルが苦悶する悪魔を警戒しつつ観察する。全身を黒く染めたヒデオは葛藤するように頭部を抱え、膝をついてうなっている。微かに残るヒデオの自我がエルザと戦っているのだ。だが、そのことを知っているのは気絶した友月と、ヒデオ本人しかいない。
「君は知っていたのか、ヒデオ殿が悪魔になることを……」
ミヒャエルの肩にもたれかかっているリエーヌは静かに頷いた。車椅子はなく、いまは怪我をした脚で懸命に立っている。
秀麗な顔立ちを強ばらせ、ヒデオをじっと見つめる。
彼女が最後にヒデオの悪魔の姿を拝んだときにはまだ両腕のみが変化していた。それがいつの間にか全身まで異形のものと化している。
「隠していてすまなかった」
「どうして僕にまで黙っていた。ヒデオ殿が悪魔になるだなんて重大な情報を共有するのは当たり前だろう」
美形に怒りを露わにする。サフランは人間だと信じていた者が悪魔だったという過ちをすでに犯している。その教訓をまったく無視しているのが腹立たしかった。
「打ち明ければ他国に負担をかけることになると思った。ルークの失敗があった以上、悪魔になる可能性のあるヒデオ殿の素性を隠蔽しておかなければ信頼が得られないと判断した」
「それでーーそれで、このザマか! もしも君のそばにいたときに彼が悪魔になったらどうするつもりだったんだ。あまりに無防備すぎる」
「一度はヒデオ殿に救われた命だ。彼に殺されるなら本望というものだろう」
「死ぬつもりだったのか? あろうことか一国の女王が悪魔に心を許すなんて」
「ヒデオ殿は断じて悪魔ではない」
強い口調でいいきる。ミヒャエルの後ろに控える兵士の一人から杖の代わりになりそうな槍を引ったくると、支えにしていた王子の肩を離した。
「リエーヌ……」
「私は、自分の大切な人が悪魔なのか人間なのか、そのくらいの分別は付けられるつもりだ。たとえあのような姿になってしまったとしてもヒデオ殿はヒデオ殿だ。私が彼をを思う気持ちに一厘の狂いも生じはせぬ」
「君が信じたくない気持ちも理解できる。大事な命の恩人の変貌を受け入れられないってことも。けど現実を直視しなければいけない。ヒデオ殿はもう悪魔になってしまったんだ」
「決してそうとはいえないと思いますわ」
マリアが辛そうに咳き込む。忍者の悪魔に拉致された際に負ったダメージがまだ残っていた。
「だって友月様が無事ですもの」
「君の愛しい人がヒデオ殿となにか関係しているのかい」
怒りを抑えた口調で問うと、マリアは人形のように端正な相貌を崩した。
「二人は友達同士だということだけは知っておりますわ」
「それがなんのーー」
「ヒデオ様が悪魔になってしまったのなら、友月様も生きてはいられなかったはずですわ。それに何らかの形で私たちに危険を伝えたでしょう。凛様が扉を魔法で打ち破ったときに彼を巻き込まないよう指示したのも、ヒデオ様が人間に戻れるという確証を持っていたからだと思いましてよ」
「彼もまた信じたくないのだろう。自分の友が悪魔になることを」
ミヒャエルは強情に反論する。
廊下を埋め尽くすように待機するダンクの兵士たちは油断なく玉座の間のヒデオに向けて弓の狙いを定めている。号令がひとつかかれば動けないヒデオの身体を無数の矢が射抜くだろう。
それでもなお倒せる保証はどこにもないという焦りがミヒャエルの気に障ったのだ。
「ならば私が証明しよう」リエーヌが長い髪を耳の後ろにかき上げる。銀色が絹のように光沢を放って揺れた。「ヒデオ殿を私が戻してみせる」
「ダメだ。君をそんな危ない目に遭わせるわけにはいかない」
「もし適わないようであればこの短剣で」護身用に太ももの内側へ隠し持っていた短剣を取り出す。「ヒデオ殿の喉を切る。その上から弓を射ってもらって構わない。ミヒャエルもこれで満足だろう」
「自分を犠牲にして何になる。死んだらそれで終わりだぞ」
「行かせてあげようよ」
意外なことに口を挟んだのは凛だった。玉座の間に横たわる大グモやザイドに視線を向けながらも婚約者であるミヒャエルに異論を唱えた。
「兄は戦ってるんだよ。悪魔になっちゃいけないって必死にもがいてる。いまの兄を一番助けてあげらるのは麗子さんーーじゃなくて、リエーヌしかいない。兄は絶対にリエーヌを傷つけたりはしないはずだから」
「凛までそんなふざけたことを勧めるのか。まったくどうして誰も彼もヒデオ殿を擁護しようとするんだ。あれはもう悪魔なんだぞ!」
「お前にはまだ分からぬだろうな」リエーヌが優しく凛の頭を叩きながらいった。「利己的なものではなく誰かを本当に愛おしいと思えることができたなら、きっと分かるだろう。いつになるか見当もつかないがな」
ミヒャエルは諦めたようにうなだれた。元婚約者になにを諭しても無駄だと感じたようだった。リエーヌの青い瞳には揺るぎない意志が宿っている。その瞳で反論されると説得する方法がなかった。
「凛にも申し訳ないことをした。私はヒデオ殿を守るという約束を守れなかった。私が不甲斐ないばかりに危険にさらし、凛まで戦場に引きずり込んでしまった。どうか謝らせてほしい」
「兄はまだ生きてるんだよ」
リエーヌの槍を握る手を包み込む。冷たい肌だった。
「麗子さんを助けられなかったこと兄はずっと後悔してきた。兄がこんな風になってしまったのも、二度と麗子さんを殺させはしないって決意してたからだと思う。リエーヌは兄の唯一の希望なんだよ。だから兄を絶望の底から連れて帰ることができるのはあなたしかいない。どうかーー」涙声になるのを抑えながら凛はいった。「兄を死なせないで」
「今度こそ約束しよう。私は必ずヒデオ殿を助ける。そして、みなで再び集まったことを感謝しよう。そうだな、夕飯はすこし豪華なものにさせよう。酒もいくらか出そう。みなで酔っ払って楽しく過ごそう。朝になるまで騒ぎ倒そう」
リエーヌは未だに自分自身と格闘しているヒデオにゆっくりと歩み寄る。両脚を怪我しているために何度も転びそうになるが、槍の柄にもたれかかってなんとかそばに座り込んだ。
「ヒデオ殿も一緒だ。主賓がいなくては面白くない。おそらく私の人生もヒデオ殿がいなければひどく味気ないものになるだろうな。空っぽになったところにやって来て、いつの間にか空白を埋めていた。いまさら逃げるのはずるいではないか」
「うぅう……っ」
単調な呻きを発するヒデオが不意に視線を合わせた。
瞳の全てが闇を取り込んだように黒く濁っている。その奥に悪魔の気配を覚えた。これがヒデオを支配しようと目論んでいる元凶だと判断する。
「もう私を傷つけようとする者はいない。安心してくれ。ヒデオ殿は私を守ってくれるのであろう? いつまでグズグズしているつもりなのだ。早く車椅子を取ってきて、私を乗せてくれ」
ヒデオの両腕が激しく痙攣をはじめる。
震えているというよりも、二つの力がせめぎ合っているように見えた。
「悪魔に負けるほど軟弱な男であれば見限ってしまうぞ。ミヒャエルあたりと望みもしない婚姻を結び、嫁に行ってしまうかもしれないのだぞ」
槍を脇に置き、膝立ちになってヒデオの頭を胸に寄せる。黒曜石を抱きしめているような硬質さだったが、そんなことは構わない。
「帰って来い。ヒデオ殿の居場所はここにある」
より強く抱きしめる。
リエーヌの目尻には涙が浮かんでいた。
「ヒデオ殿がいないと寂しくてたまらないのだ。お前まで失ってしまったら私は……」
嗚咽にむせって言葉が続かない。
しゃくりあげるような泣き声がしばらくあって、リエーヌはさらに力強くヒデオを抱き寄せる。
「あなたのことが好きだーーヒデオ」
唐突に胸に感じていた感触が柔らかくなった。
鉱石さながらにリエーヌの手を拒んでいた後頭部には汗ばんだ髪の感触がある。恐る恐る身体を離すと、ヒデオが苦笑して見返していた。
「ーーヒデオ殿」
「せっかく愛の告白をしてもらったってのに、こんな腕のままじゃ抱きしめられやしない」
頭から首筋にかけて戻っていた人間の箇所が徐々に広がっていく。ゆっくりと、だが確実にあるべき姿を取り戻していく様子をなかば呆然とリエーヌは眺めた。
まだ事態がどうなっているのかよく理解できない。
廊下の方から歓声が聞こえてくる。ヒデオを蝕んでいた黒い組織が指先まで消えてなくなると、いきなり背中からぐいと引き寄せられた。
「く、苦しい……」
「おれも愛してるぜ」耳元で囁くと、たちまちリエーヌの顔が真っ赤に茹だった。「ただいま」
「心配をかけさせるな……恥ずかしい」
二人の抱擁はリエーヌが酸欠に陥りかけるまで続いた。ヒデオは満足そうに脱力すると、友月と同じように気を失った。




