暗殺
たとえ霧のなかであっても地元で育ったユランの兵士たちには関係なかった。普段から訓練や私生活などでも利用する道であるため、なんの障害もなくサクサクと進んでいく。唯一の気がかりは悪魔の動向であったが、昨夜から沈黙を守っていることもあってリエーヌたちは自ら仕掛けることを選択した。
長期戦になるにしろ、一日足らずでダンクが到着するにしろ、悪魔には攻撃をしておく必要がある。
早朝から濃霧に包まれた今日はこれ以上にないくらいの絶好の日和だった。
「崩壊した城門の付近にはさすがに見張りの兵士が立っているだろう。それは昨日に確認してある。まずは遭遇次第、そやつらを速やかに片付け、内部に侵入する。その際に一定数は入り口で待機させておくものとする」
リエーヌが車椅子で移動しながらヒデオに解説する。逐一作戦の意図を説明しておかないと、行動にすれ違いが生まれる可能性がある。訓練された兵士たちとは違い、ヒデオは戦術面においては素人同然だった。
「退路を確保するためか」
「それもある。だが真の目的はそこではない。内部に侵入した部隊が敵の本隊と遭遇すれば退却することになる。城門まで引きつけておいて、待ち構えていた部隊が伏兵となって横から攻めかかるのだ。そして逃げていた部隊は反転し、ある程度の打撃を与えたところで即座に城外へと逃れる」
「待ちぶせだな、つまり。よく考えつくもんだ」
車椅子のタイヤが小石を踏んで大きく揺れた。技術大国のダンクからの贈り物というだけあって丈夫に設計されている。
霧のためにほとんど視界が利かない状態で、車椅子が跳ねることがよくあった。
「そのくらいは子どもでも考えつく。難しいのは条件だ。敵に勘付かれないことと味方同士の連携が大事になる。その両立があって初めて成功する作戦だからな」
「今日は敵の視界を遮るのに都合の良い霧と、慣れ親しんだユランの街での戦いですから、きっと上手くいくはずですわ」
先ほどからしきりに腰の剣に手を伸ばしたりやめたりしているマリアがいった。
落ち着いているように振舞っているが、やはり怯えているのだとヒデオには感じられた。こういう時に友月が隣にいて励ましの言葉をかけてやらねばならないのだろう。けれども希望のドラゴンライダーはダンクの王子ミヒャエルへの使者として飛び立っていった。
彼はマリアを違う形でサポートすることを選んだのだ。
「おれは友月よりしっかり鍛えてたから心配するなよ。リエーヌと一緒に守ってやる」
「ーーそんな槍の一本だけでどうするつもりですの」
懐疑心のこもった言葉が返ってきた。
友月のいない不安を拭い去ってあげようと考えていたのだが。ヒデオはリエーヌが乗ったまま車椅子を持ち上げた。脈絡もなく高い位置にさらされた王女が情けない悲鳴を漏らす。
「わりと力持ちだろ?」
「この、降ろせ! 大馬鹿者が!」
「それにへこたれない精神も持ち合わせてる。心技体がそろえば怖いものなしだ」
「降ろせといっている!」
「とまあ、こんな感じだ。槍の一本もありゃ悪魔でもなんでも蹴散らしてやる」
持ち上げていた車椅子をぞんざいに下ろすとリエーヌは猫が威嚇するような調子でヒデオに悪態をついた。王女とは思えぬほどの罵詈雑言を浴びせかけた上で、
「地獄にでも落ちてしまえ」
と締めくくった。
崩壊した正門へと続く街道はよく整備されており二百人が通行するのに十分な広さだった。以前は街に出入りする住民や行商隊で賑わっていたのだろうが、現在はところどころに避難した住民が落としていった家財道具やちぎれた衣服が散らばっている。
なかには当然死体も見受けられた。
悪魔に惨殺されたらしく身体に大きな裂傷を残した死体は無造作に道の両脇に転がっていた。マリアはそれらの遺体に遭遇するたびに辛そうな面持ちで空を見上げた。雨が彼女の端正な造形を濡らし、涙のあとをごまかした。
「ここを奪還したら手厚く葬ってやろう。ーーせめて勝利の報をもたらすことが供養になるはずだ」
リエーヌが唇を噛み締める。
「罪のない人々が犠牲になるのは痛ましいことだ。兵士であれば、まだその死を受け入れることができる。だが戦争などとは縁遠く暮らしてきた彼らが突然の攻撃の被害にあったというのは……かつての戦争でさえ、こんなに残酷なことはなかった」
「必ずそうしますわ。そしておそらく街の中にはさらに多くの人びとが私たちの凱旋を待ちわびていることでしょう。たとえ物を言えぬ身になっていたとしても」
悪魔は人間を殺す。まるで人がいつか死ぬように、当然なことだというように。
しかし悪魔は不可解なことに街中に留まっている。目的が殺戮であるにしろ、侵攻であるにしろ、ユランに待機しているメリットがヒデオには理解できなかった。彼らはいったいなにを目論んでいるのだろうか。一抹の不安が胸をよぎるが、リエーヌに打ち明けることはしなかった。
戦闘開始前に余計な感情を抱かせるわけにはいかない。
純粋に研ぎ澄まされた本能で、敵を迎え撃つだけだ。
「私とマリアは最後尾で待機している。万全の体調ならば陽動組に参加したいのだが、いかんせんヒデオ殿の支援がないと動けないという不便な状態なものでな」
「逃げるときはさっきみたいに抱えて走るからな。覚悟しておけよ」
「……アレに代わる方法を考えねばならぬな」
「リエーヌの腕がムッキムキになって恐ろしく早く車椅子を操れるようになるとか。嫌だけど」
「悪くない考えだ。王女が筋肉質でも良いだろう」
「個人的に見たくない」
淡麗な銀髪の美少女が、ヒデオ顔負けのたくましい筋肉を兼ね備えている光景を強引に頭から弾き出す。ヒデオの背中にはいつの間にか冷や汗が浮かんでいた。
濃霧のなかを悪魔の不意打ちに警戒しつつ進み、途中まで来たところで行軍を止めた。精鋭で構成された先遣隊が見張りの悪魔を排除するため先行する。いくばくかの時間が経過した後、ひとりの兵士が伝令を運んだ。
「見張りはほとんどいませんでした。ほんの数体と交戦しましたが、こちらの損害はありません」
「上出来だ。ーー上出来すぎる、か」
リエーヌが顎に手を当てて鋭い視線を霧の向こうに刺した。
素人のヒデオにもわかる、あまりに不可解な敵の布陣だ。とても計画的に奇襲を仕掛けてきたのと同一の悪魔が指揮をとっているとは思えない。
「なんにせよ食いついてくれるなら私たちの目論見通りだ。反応がなければ撤退すればいい」
自分にいいきかせるように呟いた。
積み上げられた石壁は無残に崩されていた。石の破片で尖った断面がむき出しになり、廃墟のようにうらぶれている。ほとんど機能することなく終わった城壁の虚しさが伝わってくるようだった。
「城壁はそのまま利用したほうが効率がいいのだがな」
リエーヌが散らばった破片の一つを手にとっていった。
「見せしめというものか。やつらには城壁など必要ないという意思表示だろう。あるいは統制の取れない愚か者たちが先走って破壊したか」
「文化の違いだろう。もしかすると悪魔は城なんて持たないのかもしれない」
「あるいはそうかもしれぬな」
「……ドラゴンライダーの討手を差し向けてきたきり、なんの音沙汰もないというのは、どういうことなのでしょうね」
マリアも不思議に思っているようでしきりに周囲に視線を巡らせている。
すでに索敵は十分に行われている。ルークのように特殊な悪魔がいなければ、不意をつかれることはないはずだ。
「ーー我々の知らぬ間にダンクの方角へ向かったのか? そうなれば彼らが遅れている理由も見当がつく。いや、しかし、敵将はたしかにここに居座っていた。その可能性は低いか……」
ひとりごとのようにリエーヌが仮説を立てては打ち消していく。
いずれも確証を得るには至らないようで、やがて黙りこんでしまった。ヒデオはすでに出発した陽動組の動向を慮りながらも、マリアに話しかけた。
「なあ、この国はたしかに奇襲するにはちょうどいい対象だったかもしれない。どうして敵は二の矢を打ってこないんだ?」
「予想外なことが起こっているのかもしれませんわ。サフランの密偵が暴かれたことも、あちらにとっては計算に入れていなかったでしょうし」
「本格的な戦争の再開が決定したのはルークが死んでいくらか経過してからだった。事後策を練る時間はあっただろう。その末にユランへ電撃戦を仕掛けるという結論に至ったなら、動かないのは不自然すぎる」
「ーー国境付近で戦っているクワガの状況が知りたいですわね。なんの情報も入ってこないのが不安ですわ」
「この戦いにはなにか裏がある。ここへ来てようやくわかった」
もう引き返すには遅いかもしれない。
悪魔は馬鹿じゃない。ある意味では人間よりもずっと狡猾な種族なのだ。ルークの一件で思い知っておくべきだった。彼らに対抗するためには圧倒的な力か、頭脳が必要だということを。
人間の知らない場所で悪魔は蠢いている。まるで闇から這い出るように。
そのとき、ひときわ大きな声が塊となって聞こえてきた。陽動組がうまく敵を引きつけてきたらしい。濃霧のなかでもそれとわかるように目立つ合図を出すのが約束となっていた。
「乱戦になる。退き時を見誤るな」
リエーヌが短く警告した。
地鳴りのような足音が段々と近づいてくる。先に出発したのは約半数。残りは伏兵として民家の残骸の影に身を潜めている。そうでなくとも、今日の霧では姿を捉えることは出来なかっただろう。
手筈通りに先頭を行く部隊が城壁に向かって逃げていった。
どうやら無事であるらしい。いくらか安堵の念を覚えながらヒデオは槍を構えた。主に戦うのは兵士たちだが、友月のぶんまで活躍しなくてはならない。
さらに百ばかりの兵士たちが狼狽える演技をしつつヒデオたちの目の前を通り過ぎていった。
「順調だな」
「リエーヌ、逃げる準備だけはいつでも整えてあるからな」
「そんな後ろ向きでは戦果を逃すぞ」
人間の列が終わってから少しして、数十ほどの悪魔たちが餌に群がる魚のように追いかけてきた。個体差はあるがみな一様に全身が黒く、硬質な皮膚に覆われている。ドラゴンライダーとは違い武器は持っておらず、異様に長く伸びた爪が鈍く風を切っていた。
大きさは人よりも少し大きいくらいだろうか。
悪魔の最後尾がちょうど抜け去ろうとした瞬間、鬨の声が上がった。待ち構えていた兵士たちが槍を構えて一斉に斬りかかる。それと同時に逃げていた部隊も反転し退路を確保しつつ悪魔の包囲網に加わる。
数の差は圧倒的だった。
それでも悪魔たちは素早く反応すると一団となって囲みの一部を突破し、リエーヌたちのいる場所を目指して走ってくる。まるで最初から所在がわかっているかのように迷いのない動きだった。
「やつらを近づけるな! 全員で取り囲め!」
集まった兵士たちは肉の壁となって悪魔の進路を塞ぐ。
だが、彼らをあざむくように三体の悪魔が跳躍し悠々と頭上を越えていった。わずか数十メートルしか離れていない地点に着地し、忍者のごとく姿勢を低くして突撃する。
「ちょっくら行ってきますか!」
迎え撃つヒデオは槍を高々と掲げた。
剣のほうがいくらか扱いやすいのかもしれないが、リーチが長いほうが圧倒的に有利だ。向かってきた三体の悪魔はヒデオとの間合いを測るように一度止まると、ゆっくりと円状に展開した。
これで三体を一度に相手にしなければならなくなった。
ヒデオの槍が唸りを上げて前方に繰り出される。風よりも早い一撃はしかし簡単に回避された。
「それは想定内!」
間髪をいれず腕を引き、背面から襲い掛かろうとしていた悪魔を石突ではたき落とし、棒高跳びの要領で空中に飛ぶ。落下の勢いで倒れている個体にとどめを刺した。ルークと同じ赤い血液が胸から噴出する。ヒデオは油断なく武器を構え直した。
「……まずは一匹」
驚くほど冷静に相手の動きを見切れている。
身体能力の向上はさらに度を増しているようだった。もはや人間離れした動きといっていいだろう。
平時なら持て余す能力も、戦場では好都合だ。
「キサマがサカモトヒデオか」
耳障りな声で悪魔が尋ねたことにヒデオは驚いた。
「……なぜ名前を知っている」
「キサマの運命を教えてやろう。死だ」
「あいにく朝の占いも血液型も信じないタイプなんでね。押し付けはゴメンだ」
敵は前後にわかれてヒデオの隙を窺っている。効率的なフォーメーションに思えるが、どちらも槍の射程の延長線上に入っていることをヒデオは見抜いていた。
サイドステップで間合いを一気に半分にまで詰め、後退しようとする悪魔の胴体を突き破る。振り向く間もなく背後へ槍を投擲すると、飛びかかろうとしていた悪魔の右足を貫いた。
「痛い思いをさせて悪いが、あんたには情報をゲロってもらう必要があるんでな」
ヒデオの名をなぜか知っていた悪魔に刺さった槍を地面の奥深くに突き立てる。これで自分の脚を切り落としでもしない限り逃げるのは不可能だろう。ヒデオは油断なく悪魔との間合いをとりつつ質問をはじめた。
「どうしておれのことを知っていた」
「答えてやるギリはナイ」
「お前らの目的はなんだ。どうして人間の土地を侵略するんだ」
「ワレラが王が望むカラダ。それ以外に理由はナイ」
「その王とやらはどこにいる」
「王はスベテを見通す。お前たちのようなニンゲンなどに二度と不覚はトラナイ」
「どういう……」
意味だ、と聞こうとした瞬間、南から巨大な砲声が轟いた。
この世界に大砲はまだ存在していないはずだと悟るよりも早く、轟音を打ち消すようにリエーヌの怒声が飛んだ。
「ヒデオ殿、後ろだ!」
あとほんの数瞬でも遅かったらヒデオの身体は完全に真っ二つに引き裂かれていただろう。リエーヌの警告に素直に反応して前方へ転がり込む。地面を抉った金属質な音と、舌打ちのようなガヤ声が聞こえた。
即座に予備の剣を抜いて反転する。
そこには小柄だが、俊敏で狡猾そうな悪魔が三体、それぞれの手を暗器のように変形させていた。一般の悪魔とは一線を画しているとすぐにわかった。ルークと同じ高位の悪魔だ。
「予定通りにウゴケ」
リーダー格の悪魔が指示すると音もなくほかの二体が駈け出した。
その目標はーーリエーヌとマリア。
「させるか!」
追いすがろうとするヒデオの眉間に突如として針のように尖った爪が現れた。つんのめるように回避するが、三人組のうちのひとりは時間をおかず追撃する。一度、二度とヒデオの首筋があった場所を正確に捉えていた。
めまぐるしく回る視界の端で二人の王女の様子を確かめる。
当然周囲には警護の兵士が控えていたが、彼らはほとんど無力だった。ほんの数秒の時間稼ぎにもならず悪魔が通ったそばから崩れ落ちていく。
魔手はいまにも彼女たちに迫ろうとしていた。
「通せっつってんだよ!」
「ホウ……それが例のチカラか」
ヒデオの両腕は眼前に立ちふさがる悪魔と同じ、漆黒に染まっていた。本来の太さの倍以上はあろうかという武器のような腕はもはや生物の一部というよりも、殺戮機械のパーツのように思えた。
思考は一つの思いに支配されているが、澄んでいる。
大丈夫。暴走はしていない。
「……ダガ、不完全だ」
「ゴタゴタぬかしてないでそこをどけっ!」
悪魔化した右腕で殴りかかる。
人間の状態よりも遥かに速度と加重の乗った一撃はしかし虚空を切った。ヒデオの攻撃が届くよりも早く小さな悪魔は後方へ跳んでいた。
「ヒデオ殿!」
悲鳴のようなか細い声だった。
二体の悪魔はそれぞれの肩に王女を抱え、ヒデオをひと睨みすると、信じられないような跳躍力で城壁の上に逃げ去った。彼らはここにずっと潜んでいたのだ。乱戦となってヒデオを暗殺する機会をうかがっていたのだ。
任務が失敗すれば、王女たちを誘拐する。
それが彼らの目的であり、使命だった。
「リエーヌ!」
「取り戻したくば今日中に城にたどり着くことだ。我が主ともども歓迎シヨウ」
不敵な笑みを残して悪魔は姿を消した。
ヒデオは持っていた剣を力なく落とし、地面に膝をついた。悪魔化した両腕はすでに元通りになっている。だが、いまは、その無力な腕を切り落としてしまいたかった。
「また……おれはどうして、こんなにも弱いんだ」
泣かないと決めていたはずなのに、自然と涙がこぼれ出た。
拳を幾度となく地面に打ち付け、絶叫する。狂ったように叫ぶヒデオを城外まで連れ出すのに、屈強な兵士が五人も必要だった。
霧は相変わらずユランを陰惨に包み込んでいた。
とめどない砲声がダンクのものだと知ったのは、それからすぐ後のことだった。




