寡兵
ユランの中心であった街はすでに悪魔の軍勢に占拠されている。大きく損壊した城壁の間からのぞく内部の様子は見るに耐えないほどだったが、マリアは残骸となった街並みをじっと直視していた。
数日間に及ぶ行軍のために自慢の金髪は羊毛のように傷み、まとった洋服もところどころ破けている。
それでもなお強い意志のこもった眼光はユランの王城をとらえて離さない。そこに敵の大将が待ち構えている。そう考えると、すぐにでも討滅してしまいたい。悪魔の残り香をわずかも残さず、平和だったユランの日常を取り戻したい。
「……リエーヌはいつ頃から戦場に出ていましたの?」
自身も歩兵が持つような剣を腰にさげた王女が尋ねた。槍は重すぎて扱いきれないため、そばに控えるヒデオが小脇に抱えている。
「最初に前線に連れられたのは十歳になる頃だ。父上と兄上と一緒だった」
「そんなに幼い時分から――怖くはありませんでしたの」
「そのときは遠くから眺めるだけだったから恐怖心もなかった。なにか興行でも見物するような気楽さだった。だがその後すぐに負傷兵の収容されている天幕へ行かされた。あそこは恐ろしい場所だったぞ。何度も夢に出てきては私を苛んだものだ」
リエーヌが思い出すように空を見上げる。
細かい雨が降りはじめていた。もうじきに本降りになるだろう。
「マリアは悪魔と会ったのは初めてだろう」
「絵画でしか見たこともありませんでしたもの。少し前までは一生遭遇することはないと信じていましたわ」
「私は幾度かやつらとやりあったことがある。いずれも周りの兵士たちがすぐに助けに来てくれたものだが――いま思えば、いつ命を落としてもおかしくない状況だった」
雨粒が乾いた地面を濡らしていく。
ルークのことを想起しているのだろうとヒデオにはわかった。
サフラン王国を内側から腐食させた悪魔はリエーヌを魔王の献上品にしようとたくらんでいた。裏のルートを通じて彼女に傷がつかないよう指示していたに違いない。
美貌がなければ彼女の兄姉たちのように戦場で不慮の死を装って暗殺されていたかもしれないのだ。そのほんの些細な偶然によってリエーヌは悪魔と戦うことを許されている。
「しょせん私は手のひらで転がされていた存在に過ぎない。本気の悪魔とやりあうのは、これでまだ二度目だ」
「おまけに相手はとびきりの強敵ですわね」
「人間に化けられる悪魔と、どちらが厄介なものだろうな。私としてはあの図体のいやに大きいクモを焼き払ってしまいたいのだが」
「ダンクが来る前に大将を孤立させる必要がありますわね。友月様は裏から侵入する経路を知っていますもの」
「そんな危なっかしいものがあったのかよ」
ヒデオが二人の会話に割って入った。
リエーヌの車椅子を押しながらも、邪魔にならないよう長槍を携帯している。
「ユランも古い街ですもの。構造的な欠陥がありましてよ。もちろん他国には知らせていませんけれども」
「じゃあ、おれたちがそっちから攻めるってのはどうだ」
「我々の役割は囮だ。どうにもヒデオ殿は兵法に暗いようで困る」
「悪かったな。どうか能のないわたくしめに解説いただけますかね」
ヒデオが押していた車椅子を唐突にストップさせると、リエーヌが勢いよく前のめりになった。なにか言いたげに送られる視線を無視して笑いながら前進を再開する。
「……本命はダンクの軍勢なのだ。我々は敵将をとりまく下っ端たちを排除し、彼らがスムーズに進軍できるよう部隊を整えなくてはならない。たとえ我々の力のみで敵を倒せなくとも、敵将から遠ざけるだけでも十分に機能する」
「つまり裏道はダンクの皆様のために隠しておかなければなりませんの。私たちが使ってしまっては、敵の後ろを突けはしますが、これといった戦果を上げることにはならないでしょう」
マリアが補足説明をした。
一行は敵将が仕向けたドラゴンライダーとの遭遇戦の後に城壁の正門があった方角へと向かっていた。兵の数は二百に満たないほどだろう。悪魔軍に大挙して襲われたらひとたまりもない程度の兵力だった。だが、彼らが大破した門の正面に移動しても悪魔は攻め込んでこようとしなかった。
いつでも行動できるように交代で見張りを立て、食事をとった。兵士たちの顔には露骨に恐怖心が表れ出ていた。ある者は兵糧を口に運びながら涙を流し、ある者は膝を抱え震えていた。それほどまでに粉砕されたユランの首都と敵将の威圧感は凄まじかった。人間の敵う相手ではないと本能的に悟ってしまったようだった。
支給された石のように硬いパンをかじりながら、ヒデオは自分の手が震えていることに気付いた。我ながら情けないものだと反省して強引に震えを収めようとするが、一向にうまくいく気配がない。
懸命に腕をつかんで抵抗するヒデオに、
「いざとなればあの力を使ってくれ」
リエーヌは冷えきったスープを口に含んだ。雨滴がカップの縁を濡らしていた。
「あれはなるべく使いたくない。おれでさえどうなるか予想が付かないんだ」
「死ぬよりマシという程度の保険だ。たとえヒデオ殿が暴走したとしても私が止めてみせよう」
「もしかするとリエーヌを手にかけてしまうかもしれない」
「ヒデオ殿がこちらの世界に来たのが私を守るためならば、そんな不幸な結末を迎えることはないだろう。ルークと戦ったときも冷静に自我を保っていたのだろう? ならばたとえ両腕が悪魔化しようとも、ヒデオ殿はヒデオ殿のままでいられるはずだ」
「両腕だけならいいんだけど」
ぽつりと呟く。
両腕の次は両足だろうか。そうしたら、次は胴体が悪魔のように黒く変化するのだろうか。
最終的に行き着く先が完全なる悪魔なのだとしたら。ヒデオは頭を振って強引に暗い考えを引き剥がした。いまは自分のことを心配している場合じゃない。
「仮にヒデオ殿が私を殺したのだとしても私は恨まぬぞ。ただ少し、この戦争の行方が気がかりだろうが」
「そんなことは絶対に起こさないさ。おれが完全な悪魔になったとしても、リエーヌだけは守ってみせる」
一気にパンをほうばって立ち上がる。リエーヌの濡れそぼった銀髪を撫でると、置いていた槍を拾って頭上でグルグルと振り回した。
「しばらくはこいつで凌いでみるよ。生憎と武器を使う稽古は受けたことがないけど、友月でも何とかなってるんだから平気だろうよ」
「ヒデオ殿ならば悪魔化の力を行使せずとも並の悪魔なら倒せるはずだ。使うのは、本当の危機に陥ったときだけでいい」
「あいよ。お姫様」
「私もこの忌々しい怪我さえなければ戦場を駆け回ることができるのだが」
包帯に巻かれた両脚の怪我はまだ完治していない。ルークによって折られた骨が元通りになるには、まだいくらか時間が必要だった。
「気にするな。あとでダンクの連中が車を持ってくれば、馬車なんかよりよほど早く走れる」
「ヒデオ殿は運転ができるという話だったな」
「ああ」ヒデオはひとつ思い出した。「おれオートマ限定だった」
「なんだそれは?」
「もしかすると運転できないかも」
「急に態度を変えるでない。ややこしい」
「人間ってのはそういうもんだろ。コロコロと心情が変わるものさ」
雨の降りしきるなか夜営の準備を整えるために一行はいくらか離れた場所まで移動して、陣を張った。夜襲を警戒していたものの悪魔側に動きは見られず、徒労に終わった。
翌朝は濃霧が立ち込めていた。すこし離れるだけでも見失ってしまいそうな霧だった。
「これは丁度いい」
リエーヌがほくそ笑んだ。
奇襲には、うってつけの天気だった。




