黒い石
四人の若者たちを乗せたシルバーの中古車は、不穏なエンジン音を響かせながら暗闇のなかを走行していた。
車のヘッドライトが照らす前方に街灯は存在せず、十六夜を迎えた月とかすかに見える星空だけが彼らの頭上で輝いている。日付をまたいでから一時間ほど経った山道に対向車の姿はひとつもない。ハンドルを握るヒデオは気晴らしに何度かハイビームを照射するが、せいぜい道端にいるタヌキかキツネを驚かせるにすぎなかった。
道路はすでに走りやすいアスファルトから砂利に変わり、パンクが心配になるくらい車体が揺れる。しょせんは目星をつけた女の子とドライブする目的で買った自動車であるため性能にはこだわっていないらしい。
「おい、ホントにこっちで合ってるんだろうな」
ハンドルを右に切りながらヒデオが助手席の男に声をかける。
車内にはビートルズのCDが流れていたが、車道の両脇に茂っている森林は『ノルウェイの森』とは呼びがたいほど鬱蒼と闇夜に枝葉を伸ばしている。隣に座るまだ二十才になったばかりの男はスマートフォンの地図アプリを見つめながら答えた。
「電波は悪いけど間違いない。どうせ一本道だ」
「それもそうだが、この先に道は続いてるんだろうな。Uターンできそうな道幅はないぞ」
「機械を信じろ。僕が助言できるのはそれだけだ」
「野宿になったらお前のせいだからな」
「保証はしかねる。それに、責任を追求するなら後ろにいる野郎にすべきだろう」
「異論なし。おい元凶! 人の妹にちょっかい出してんじゃねーぞ!」
ヒデオがバックミラー越しに、車の持ち主である軽薄そうな男と制服姿の女子高生をにらみつける。
ふたりは舗装のない荒れた山道を疾駆する運転手の苦労をよそに、かれこれ数時間は喋りこんでいた。事前に説明されていた三十分という所要時間は真っ赤なウソだった上に、いまから肝試しに心霊スポットへ向かっていることなどすっかり眼中にないといった和気あいあいさで、それがまたヒデオの神経を刺激する。
「と、お兄様がなにかいってるけど?」
「気にしなくていいでしょ。あれはモテない人間の僻みだから」
ねー、とふたりで頷き合う。
チャラ男とは前から交友関係があるとはいえ実の妹と仲良くしているのを見せつけられては腹が立つ。ヒデオは助手席で真剣に地図アプリを操作している友人に目配せすると、勢いよくブレーキペダルを踏み込んだ。
車体が前のめり、シートベルトをしていなかったチャラ男のおでこがしたたかに打ち付けられる。ヒデオはその光景に満足し、高笑いしながら運転を再開した。
「いってーな。危ないだろ、俺が怪我したらどうするつもりだよ。この美形にかすり傷でも負わせたら世界中の女を敵に回すことになるぞ。俺はヒデオをそんなぎるてぃな男にしたくない、いのせんすに生きて欲しいと願ってる。だからやめろ、頼むから」
チャラ男――友月が額をさすりながら恨み言をいう。ともに後部座席に座っている女子高生は心配そうな顔を作りながらも、さっそく携帯で写真を撮りはじめた。あとでブログかツイッターにでも貼り付けるつもりなのだろう。面白そうなことがあるとすぐカメラを起動させるのが凛の癖だった。
「シートベルトの着用は義務だからな。してないほうが悪い」
ヒデオは淡々と運転を再開させる。
ちょうどいい気晴らしになった。
「うっせ。凛も危なかったぞ」
「妹を許可無く呼び捨てにするな馴れなれしい。いますぐ車から降ろすぞ」
「俺の車だ」
「ちゃんと車庫には戻しておいてやる。安心しろ」
「いやいや、この山奥からどうやって帰還しろと」
「来た道を引き返せ。ついでに人生もやり直してこい。ちょうどいい機会だ」
「こんな真人間、めったにいないと思うけどなー。ねえ、凛ちゃん」
「黙れ。つい先週ヤリ捨てたことバラすぞ。あれで何人目だ」
ヒデオが吐き捨てるように暴露した。
「うわー、サイテー」
暴漢から逃れるように自分の肩を抱き、凛は友月から身を離した。その拍子に制服のスカートの裾が乱れたのをすぐになおす。ようやく狼の存在を認知したと、ヒデオは運転しながら胸をなでおろした。
そもそもこのドロイブは友月がヒデオの妹に会わせて欲しいとしつこく懇願したのが発端だった。一昔前に流行った心霊スポットへ行こうという誘い文句だった。
山奥のトンネルを超えたところにある、とりわけ珍しくもない心霊スポットらしい。
大学生の夏休みを謳歌している最中のヒデオはもちろん断るつもりだったのだが、企画を嗅ぎつけた妹の凛が「面白そう!」と乗り気になってしまったのだ。
やむなく最終手段である親の反対を得ようとしたが「ヒデオが付いてるならいいじゃない」と一蹴され、夜中のドライブに連れ出すことになってしまった。
どうせ子どもたちのいない夜を楽しみたいに違いない、とヒデオは内心毒づいた。あのノロケ夫婦め。まあ、妹ならもうひとりくらい増えてもいいが、と付け加える。
車は企画者である友月が貸してくれることになったので、せっかくだからもうひとり仲の良い友人を誘うことにした。元々は小学生の頃に通っていた剣道場で知り合った男だが、ヒデオと大学も一緒で、友月とも面識がある。
名前を、東郷暁とうごうあきらといった。
普段から冷静沈着な暁を目付役にしておけば友月もうかつに乱暴な手段には出ないだろうという目算だったが、凛は暁の性質に期待しているらしかった。彼には霊感があると昔から噂されており、本人は真相を明らかにしていない。ときどき見えないなにかと闘っている姿を目撃されていることから、そんな設定が出回ったのだろうとヒデオは推測している。
わざわざ郊外の山奥まで出向いて幽霊のひとつも確認できなかったらつまらない。
そんな思惑を知ってかしらずか、暁も二つ返事で了承し、計四人のドライブに至る次第となったわけである。凛が高校の制服を着ているのは本人曰く「オシャレ」らしいが、私服を選ぶのが面倒くさかったのだろう。そのくせしっかり化粧は整えるのだから、女という生き物はよくわからないとヒデオは思った。
「以後、凛に小指の先ほども触れたらおれと暁でフルボッコにするからな。覚悟しとけよ」
「はいはい」
おとなしく返事をする友月だが、信用はならない。その舌先三寸でいったいどれほどの女性を泣かせてきたことか。耳にしたところによると被害者はゆうに五十人を超えているという。ヒデオには想像もできない数字だった。
「ねえ、兄と暁さんだったら幽霊に勝てる?」
ふと関心を抱いたような口調で凛が訊く。暁とは小さい頃からの顔見知りであるため、凛のほうも遠慮がない。
「そりゃあ――おれなら余裕だろ」
「僕だってそうさ」
「竹刀と防具がなきゃ、もやし同然の暁に『歩く凶器』と名高いおれが負けるはずないけどな」
「いつからそんな仰々しい二つ名をもらったんだ」
うしろから友月がおちょくった。
「黙れ、『節操のない、だらしもない、自称テクニシャン』が。へんな素振りをしてみろ、一撃で仕留めるぞ」
「ヒデオって妹の前でも下ネタに躊躇がないのな」
「いつ裸にひん剥いてやろうかと虎視眈々と目を光らせているヤリチンにいわれたくない。生きた猥褻物とでも呼ぼうか」
「おまえもたいがいだけどな」
友月は軽く笑った。はあ、と隣で凛がため息をつく。
「どうして男ってそういう話題ばっかりなの」
「それが性質さがってもんだ。許せ、妹よ」
「やだ」
「そういっときながら、意外と女の子は男よりもエッチだったりするんだぜ」
「いらない知識を披露するな。車内の空気が汚れる」
「悔しかったらヒデオもさっさと彼女のひとりやふたり作ってみせろってんだ」
「あいにく不純な異性交友はしない主義でな。貴様みたいな野郎の風上にも置けないゲスはさっさと地獄に落ちればいい」
「なあ、さっきから風当たりが強すぎないか」
「凛を連れ出すためのドライブが楽しいはずないだろう。おまけにドライバーまでやらされて不快千万だ。暁、あとどのくらいで到着する?」
「――もう電波が入らなくなった。けど、じきにトンネルに差し掛かる。そこを抜けたところが目的地だ」
「ずいぶんと圏外になるのが早いんだな。まだ山の中腹だぞ」
ヒデオが驚いたようにいった。
「それも幽霊のせいなんじゃないかってもっぱらの評判だぜ。本来ならここらにも電波が飛んでいて当たり前らしい。むしろ圏外になるほうが異常なんだってさ、ねえ凛ちゃん、怖くなってきた?」
「携帯のアンテナよりも狼のほうが恐ろしいかも」
と、からかいながら身をよじって笑う。幽霊やお化けのたぐいは全く脅威とみなしていないらしい。むしろ近づくに従って元気を増しているようだった。女子高生というのは、ひょっとするとゴキブリ並みにタフな生き物じゃないかとヒデオは感心した。
「それにいざとなったら暁さんが守ってくれるし」
「おい、頼もしい兄貴の存在を忘れてるぞ」
「道場も行ってない兄よりも暁さんのほうが頼りになるでしょ」
「……今日は竹刀を忘れたから、役に立てないかも」
剣道場にいるときとは正反対に弱気な発言をする暁を、凛がおだてる。
「大丈夫だって。そのへんの樹の枝でも十分強いし、霊感あるからいち早く気付けそうじゃん。やっぱりいちばん頼りになるのは暁さんだなー」
「だから兄貴を――」
「うるさい。あたしは強くてカッコいい人が好きなの」
「そういわれると、照れるな」
暁が軽くパーマのかかった髪をかきながら微笑む。切れ長の両目は、笑うと糸のように細くなった。
「おれも照れる」と、ヒデオ。
「俺もだ」と、友月も続いた。
「とんだ恥知らずの集団ね――あ、あれが例のトンネルじゃない」
凛の白く、細長い指が指す先にはたしかに奈落の底へ続いていそうな、奥行きがどれほどあるのか確認できないトンネルの入口が構えていた。ここも車一台が通るのが精一杯という広さだったが、手前側に比較的開けた空き地があったので、そこに駐車することにする。警察に違反切符を切られる心配はないだろう。だが、戻ってきたら野生のクマの住処になっていそうなくらい人気のない空間だった。
車から降りると、夏特有の肌にまとわりつくような湿気が四人を包んだ。かろうじで聞こえてくる場違いなセミの鳴き声だけがどうにか寂しさを紛らせている。
「夜でもセミって鳴くんだな」と友月がさほど興味もなさそうに呟いた。彼の関心は心霊現象でもトンネルでもなくもっぱら制服姿の女子高生に向けられている。両耳につけたピアスが月光を受けてほのかに浮かび上がっていた。
「ここ、ライトもないのに明るいね」
凛が頭上を見回しながらいった。トンネルの内部にはところどころオレンジ色の光がくすぶっているが、それをさしおいても妙な明るさだった。
「凛ちゃんがそばにいるからだよ」
「ありがと。暑くてうっとうしいから離れてくれる?」
「トンネルのなかは涼しいよ」
「じゃ、ひとりで行くことにする」
用意してあった懐中電灯を片手に凛はトンネルのなかへためらいなく足を進めていく。静かすぎる環境のせいで足音が異常に反響して聞こえた。
あわてて三人があとを追いかける。
入り口をくぐった途端に自然のものとは思えない冷気を感じ、ヒデオは身震いした。
「ずいぶん寒いな。お化けでもいるのか」
隣を歩く暁に尋ねる。噂の霊感を発揮するのに、これほど都合のいい舞台はないだろう。しかし、彼はわずかに首を傾げるだけだった。
「さっぱりわからないけど、嫌な感じはする。あまり僕らが近づいてはいけないような……」
「お、いいね! 雰囲気出てきたじゃん。凛ちゃんは俺が命に替えても守ってみせるから、安心して腕につかまって」
「前にいるかもしれない幽霊より背後を警戒するんだな。次の犠牲者は間違いなく友月だぞ」
オーバーな振る舞いをしながらどうにか凛の手を握ろうとする友月を、ヒデオが殺気のこもった視線で阻止する。わずかでも凛に触れたら昏倒レベルの一撃を後頭部に喰らわせるつもりであるのは明らかだったから、友月は誤って指先がぶつかる事故の起きない最低限の距離を保ちながら歩幅を合わせることにしたようだった。
前を歩くふたりと、殿を務めるふたりの配置は、乗車中とはちょうど反対だった。
懐中電灯の直線的な光線がトンネルの壁面を照らす。極彩色のスプレーで隙間もないほど落書きしつくされているのが見えた。おそらくこの心霊スポットが流行になった一昔前にいたずらされたものなのだろう。
友月が事前に調べてきた情報によると――そのほとんどが凛に披露するための知識だったが――トンネルの向こう側には、いままで来た道のりと同じような木立が広がっており、その一角になぜか切り取ったように植物の生えていない場所があるのだという。その中心部にはご神体が安置されているはずのほこらが何重にも御札を貼られ、厳重に封印されている。さらに不気味なことに周囲にはしめ縄がぐるりと巻かれていて、いかにも一般人の侵入を禁じているような雰囲気を放っているらしい。
ここまでして封印している存在とはいったいなんなのだろう、という好奇心をさらったのが人気の理由だった。
なかにはほこらの中身を確かめようとした無謀なチャレンジャーもいたようだが、詳細は定かではない、というオチで話は締めくくられていた。
「しかし、本当に危険なら国が立入禁止にしてるだろうな。しなくても誰も遊びには来なそうだけど」
「僕もそう思う。けど、用心しておくに越したことはない」
話しながらも暁とヒデオの身体の運び方は慎重なものになっていく。幽霊相手に徒手空拳で立ち向かうのは不可能だろうが、凛を抱えて逃げることはできる。友月は放っておくというのがふたりの共通認識だった。
たとえ幽霊が存在していないとしても、心霊スポットなどという怪しげな場所にはどんな種類の人間が潜んでいるかわからない。警戒しておくほうが良いだろう。
「それにしてもトンネルって寒いな。凛ちゃん冷えてない? おれの上着貸そうか?」
「おい、友月」
ヒデオが凍りつくような声で注意する。
友月は悪びれた様子もなく笑ってごまかした。
「あ、そろそろ出口みたい」
トンネルは思っていたよりも長かった。十分ほど歩いたところでようやく出口にたどり着く。こんなことなら車を使えばよかったとヒデオは後悔した。
オレンジ色の寂しげな電灯が星空に変容する。肌にまとわりつくような暑さが冷えきった体温を戻していく。こちら側は違和感を覚えるほどに静寂が支配していた。錆びついたガードレールを無機質な木々の枝が乗り越えようとしているのが目に入る。
手近にあった太めの枝を拾うと、暁はそれをブンブンと振り回した。子供の頃から剣道を続けており、全国大会の常連となっている青年の簡素な剣は、不釣り合いなほど鋭い音を奏でる。
「いちおう用心はしておかないと」
「暁がいうんだから何かしらいるんだろうな。怖くなってきたね、凛ちゃん」
「さ、どんどん進もう!」
恐怖など微塵も感じていない凛が口笛を吹きながら先頭を切って歩きだす。
朽ちかけたガードレールをまたぎ森の内部へ踏み入る。獣道すら刻まれていない大地は歩きづらかったが、数分もすると目的の祠を発見することができた。
計画的に刈り取られたような禿げた土地の中心に安置されている。森のなかに不自然に登場したそれは人の腰ほどの高さだった。
歓声をあげながら凛と友月が駆け寄っていく。
そして、小さな悲鳴が聞こえた。
「どうした」
「ヒデオも見てみろよ。気色悪いぜ」
ヒデオが懐中電灯の光線を向けると異常な量の御札が貼られていた。木製の祠を余すところなく文様の描かれた御札が覆っている。まるで邪悪な何かを強引に封じ込めているみたいだった。
これが心霊スポットの噂の出処なのだろう。
たしかに評判となるだけの薄気味悪さが伝わってくる。
「ねえ、これ開けてみようよ」
携帯を片手に写真を撮りまくっている凛が提案する。ヒデオは「やめておけよ」と注意して、すこし離れたところに佇んでいる暁のもとへ行った。祠にはさほど興味がないのか、周囲の木立をキョロキョロと見回している。
「なんだ、地縛霊でも見えたか」
冗談っぽく声をかける。
暁は屈みこんで、黒い土をひとつまみすくい上げた。指のなかで転がすと砂のようにこぼれ落ちていく。
「妙だと思わないか」
「なにが」
ヒデオが問い返す。
「木が生えていないのはまだ理解できる。けど雑草の一本さえ残っていないのは変だ。除草剤を撒いたとしてもこんな綺麗な円形は作れない。まるで誰かが毎日やって来て丁寧に手入れをしているみたいな感じがする」
「案外そうなのかもしれないな。どこかの宗教の聖地になってて、几帳面な信者たちが掃除をしていく。たぶんご神体の周りには草を蔓延らせちゃいけないとか、そういう理由なんだろう」
なにせ都心部からかなり離れた山奥なので土着の宗教があってもおかしくはない。
とはいえ草木の一本も残さない執念深さはどこか不気味で、その背後に潜んでいるであろう人間も同様に得体が知れない。
あまり祠を荒らさないほうがいいだろう。そう考えているそばから、友月が朽ちかけた祠の扉を開いているのが目に写った。
「おい、やめとけって」
宗教関連のことは問題が起こると面倒くさい。相手が妄信的であれば尚更だ。
「なにこれ。マトリョーシカみたい」
凛が感想を述べる。
一枚目の扉を解き放ったその次には、やや小ぶりの扉が仕掛けられていた。友月がもう一度手をかけると、その奥にも過剰なまでに御札が貼り付けられている。その凄まじさはもはや木目が視認できないほどだった。
友月と凛が顔を見合わせる。そして、口の端をニヤリと歪めた。
「いっちゃいますか」
「任せた!」
「らじゃー!」
制止する間もなく、おだてられ調子に乗った友月が勢いよく扉をめくりはじめる。
軋むような音とともに扉の大きさが徐々に小さくなっていく。ようやく最後の扉と思しきものに辿り着いたときには文庫本の表紙ほどの面積になっていた。
最初は仏像でも収められているのかと思っていたが、どうやらもっと小さなものが入っているらしい。不覚にも中身が気になってしまう。開けたら妖怪でも飛び出してくるのだろうか。
「これでラストだね」
凛がすり足で後退する。友月がゆっくりと焦らすように扉の縁へ指をかける。
「いくよ」
「――うん」
心もとない合図と同時に開放する。
友月の足元へ転がるように落ちてきたのは握りこぶしほどの小石だった。どことなく曲線の多い造形は人工物でないことを推察させる。しかし、ヒデオはそれが自然の物ではないという確信に近い感情を抱いた。
あらゆる光を吸収しているかのように黒い。夜の闇などとは比べ物にならない漆黒が鎮座している。完全な暗闇よりもさらに深い色がそこにはあった。
「黒曜石か」
ヒデオがいうと、後ろから顔をのぞかせた暁が否定した。
「形状が違いすぎる。黒曜石はどう研磨してもこんな歪なフォルムにはならない」
「ねえ兄、これ……」
凛が携帯電話の画面をヒデオに示す。フラッシュを焚いて撮影したはずの写真には、黒檀の小石の部分だけが故障しているみたいに黒で塗りつぶされている。
ヒデオの背筋を悪寒が走った。
「元の場所に戻しておこう。誰かが丁寧に掃除しているみたいだし、荒らされたと知ったら悲しむだろうからな」
「そう……だね」
さきほどまでの威勢はどこへ消えたのか凛の表情は沈んでいる。
不可解な小石を拾い上げる。意外なことにそれは懐に抱えていたみたいに温かかった。だが、突如としてヒデオは全身の汗が引いていくのを感じた。
蒸し暑い夜は続いているはずなのに身体の芯が冷えきっていく。
銀色に輝いていた月がどこにも見えない。星空がいつの間に暗晦に染まった。ヒデオは不意に周囲に虫が飛んでいなかったことに気付いた。森の中で明かりを灯せばうるさいほど羽虫が群がっているはずなのに。植物と違い、動きまわる生き物はどうしようもないはずなのに。
視界が闇に呑み込まれた。




