友月とマリア
風は兵士にとって追い風。
ということは、マリアを乗せて飛んでいるドラゴンにとっては向かい風となる。関所の屋上付近を緩やかに流れる風は、ドラゴンたちの舞う上空ではさらに強い力となって行く手を阻んでいる。
そのせいか青いドラゴンは徐々に速度を落とし、羽ばたく回数も少なくなっているようだった。明らかに後続との距離が縮まっている。ひょっとすると関所に到達する前に追いつかれるかもしれない。
「ドラゴンといえど体力の限界はある」
もどかしげに唇を噛みながらリエーヌが唸った。
「もしユランの陥落した夜から飛び続けているなら、ここまで来られたのさえ奇跡だ。敵の追手を撒くために寄り道もしたのであればなおさらだ。おまけにマリアの体重が軽いとはいえ二人を乗せて飛行するのは相当疲れるだろうな」
「あのヤリチン野郎、肝心なときにヘタれやがって」
ヒデオが小さく毒づく。
上空にいるのではいくら助けに駆けつけたくても行くことができない。日本なら飛行機でもヘリコプターでも使ってドラゴンライダーを援護したいところだ。
大空を疾駆するドラゴンたちの逃避行の下で、ヒデオたちはただ無力な人形に過ぎなかった。
「全兵弓を構えろ! 号令があるまで決してつがえた矢を放すなよ、姫様と護衛の騎士が安全な圏内に離脱してから一斉に浴びせかけるのだ!」
隊長自ら大弓を引きながら叫ぶ。
遠距離にいる敵に打ちかける矢の雨というのは現代でいう弾幕のようなものなのだろう。アーチェリーや弓道とは違い、各自が精密に狙いを定めて発射するのではないらしい。
そんな心もとない精度では失敗してマリアを傷つけてしまうおそれがある。
もどかしさを感じているのはヒデオとリエーヌだけでなく、その場にいる全員だった。
「あとひと息だ……頑張れ」
応援の言葉を漏らすリエーヌ。
ヒデオも同じ気持を胸に抱いて祈った。どうかマリアと騎士が無事に到着しますように、と。
「……追いつかれたか!」
「弓の射程に入ったぞ!」
ドラゴンライダーが敵の大軍に襲いかかられるのと、矢の届く範囲に侵入するのとは同時だった。
マリアを乗せた青色のドラゴンは他のドラゴンよりも一回り体格が大きかったが、小虫のように付きまとう敵に胴をぶつけられ、空中にいながらよろめいているのがわかった。ドラゴンに騎乗する騎士は薙刀のような柄の長い武器を振り回しているものの、前に抱えたマリアのせいで思うように動けていない。
このままでは、やられる。
「……射たなくていいのか」
焦れったそうに訊く。リエーヌは頭を振って、
「先頭にいるのがマリアでなかったらとうに射かけている。あの箱入り嬢はかすり傷でも大惨事になるからな」
「けどこのままじゃ……」
「わかっている。いまは彼らを信じるのだ。あのドラゴンライダーと、ここにいる兵士たちの腕前を」
彼女の言葉通り、ヒデオにはどうすることもできなかった。
張り詰めた弓矢のような静寂にドラゴンの雄叫びが聞こえてくる。喉の奥を震わす咆哮は、最後の力を振り絞っているようにも思えた。身をよじり、突進してくる敵の体当たりを間一髪のところで避けていく。だが、速度が遅くなったために前方に回りこまれ行く手を遮られてしまう。
完全に追い詰められた。
ヒデオが思わず視線を逸らしそうになった瞬間、マリアを伴って飛竜が地面に猛スピードで落下していった。
獲物を狩る猛禽のように翼を折りたたみ空気抵抗を少なくしている。弾丸のように空気を裂いたドラゴンは墜落寸前の高度で強靭な翼を解放すると、落下の勢いを利用して地表を滑った。
まるで曲芸飛行だ。
ヒデオが目を見開いてドラゴンの華麗な脱出劇に見とれていると、背後から隊長の大声がした。
「今だ、一匹残らず撃ち落とせ!」
号令のもとに無数の弓矢がドラゴンの群れに吸い込まれていく。風を切ってうなる矢尻が敵の騎竜を仕留めると、苦しげな声を上げて地上に力なく落ちていく。伝説の生き物といえど、人類の作った兵器には勝つことができない。ヒデオは頭上を通過していく矢の雨を見送りながら、心臓の鼓動が大きくなっていくのを感じていた。
いよいよ戦闘が始まる。
駆逐すべき敵がいて、無条件に殴りかかってもいい環境は、一種の高揚感をもたらした。道場での試合によく似ている。どうやって相手の間隙をつき勝利をおさめるか。
戦場の空気に影響されたヒデオの思考が徐々に本能的な戦闘欲に変わっていく。
はやく戦いたい。
地に落ちた悪魔を叩きのめしたい。その感情があの日叶わなかった復讐に起因しているのだと気づくまでには、少し時間がかかった。
「ヒデオ殿、なにをぼうっとしているのだ、早くマリアを迎えに行くぞ!」
リエーヌの声でふと我に返る。
この場の雰囲気に押し流されて本当の目的を見失いかけていた。ヒデオは自らを戒めるため一声叫ぶと、車椅子を関所の端まで寄せる。青いドラゴンは苦しげに低空を飛翔していたが、関所の壁面にぶつかる直前に大きく羽ばたいて上昇し、ヒデオたちの面前に姿を現した。
そのまま転がり込むように屋上に着陸する。
荒々しく息を吐きながら横たわるドラゴン。もうとっくに体力は尽き果てていたのだろう。全身から尋常でない熱気が漂っている。だが生きていることには違いない。ひとまず放っておいても大丈夫だ。
そう判断し背中から振り落とされた一組の男女に駆け寄ると、ヒデオは彼らの身体を抱え起こした。
「おい、大丈夫か!」
見たところ大きな外傷は負っていないようだ。
マリアも騎士も半ば意識を失って返事をしなかったが、ヒデオが激しく揺すると朦朧としながらもまぶたを開けた。
「……ミスったな、ヒデオがいるなんて天国に来ちまったみたいだ」
「馬鹿野郎、お前が行くのは天国じゃなくて地獄だろうが」
「……俺は生きてるのか?」
ぺたぺたと自分の顔を触って確かめる友月。
ヒデオは思い切り彼の頬をつねり上げた。
「いてててっ!」
「早く目を覚ませハレンチ野郎。まだ寝ていい時間じゃないぞ」
つねられて赤くなった頬を抑えながら恨めしげな視線をよこす友月は、疲労感こそ漂っていたが元気そうだ。とても命がけの逃避行を終えたばかりには見えない。
「……ホントにヒデオなんだな? ドッキリとかじゃないよな」
「信じないならそれでいい。お前をここから突き落とすだけだ」
「感動の再会に水をさして悪いが、マリアを安全なところへ運びたい。手伝ってもらえるか」
リエーヌが車椅子に座ったまま注文をつける。ユランの王女はネグリジェ姿で横たわっている。胸が上下しているので生きているのは確かなようだが、一向に目を覚ましそうな気配はない。
友月の姿を目の前にして舞い上がっていたようだ。ヒデオはすぐさまマリアの身体を抱きかかえると、日本からの友人に向き直った。
「ここまでどうやって来たのか知らないがこのお姫様を保護する。お前がそばに付いてやりたいか、それとも戦うか、それは自由に選ぶといい。どうせもう惚れてるんだろ」
「まあな」こともなげに肯定して友月は、「俺としては近くにいてあげたい。奴らの攻撃を受けてからほとんど眠ってないんだ――マリアはいつも夜の早いうちにベッドに入るから、心底疲れきっていると思う。この前、徹夜で会議に出てたときも死にそうな顔して帰ってきた。あのときの眠たすぎて会話にならない会話はマジで可愛かったぜ」
「んなことはどうでもいい。マリアを連れて行くのはお前に任せる。下の階に来賓用の部屋があるから、そこに運んでやれ」
「わかった。感謝するよ、ヒデオ」
「それと、行く前に一つだけ」
マリアをお姫様抱っこして屋上から姿を消そうとする友月の肩をつかむ。いつの間にかヒョロヒョロだった体躯はたくましい筋肉に覆われていた。彼も同じようにこちらの世界へ来るときに異変をきたしたのだろうか。
凛が魔法使いになったように、ヒデオが悪魔の力を手に入れたように。
「もしお前が戦えるのなら、おれは一緒に戦ってほしいと思う。状況を見ればすぐに分かるだろうけど、ドラゴンライダー部隊が相手じゃ弓兵は分が悪い。空中戦をこなせる友月がいれば局面はかなり有利になる。あいつらを救うために戦えるのは、お前しかいないんだ」
「俺がマリアのそばに居てやらなくちゃ。他に誰がいるっていうんだ」
ヒデオの目をまっすぐに見つめ返していった。
「それも友月にしかできない大事な役割だ。マリアを支えてあげられるのは友月だけだから」
「そうだろ? だったら――」
「このまま兵士が全滅すればマリアもろとも捕まるか殺されるか、どっちにせよロクな未来は待ってない。悪魔ってのはそういう連中だ。冷酷非道なことを平気な顔でやってのける。どれだけ人間を殺せるかってことに快感を覚えてる。その名の通り悪魔なんだよ」
思い浮かんでくるのはルークのことばかりだ。
ヒデオが対峙した唯一の悪魔。
弄ぶようにリエーヌの父母兄姉を葬り去り、サフランの重臣たちを影で処分することで国家としての基盤を完全に破壊した。外見上はなにも変わっていないようでも、中身は腐敗しきっているのだ。風に吹かれれば崩れ落ちてしまいそうな国をひとりで背負うことになったリエーヌの重圧は、ヒデオの想像をはるかに超えていることだろう。
それでも彼女のそばにはヒデオがいる。
マリアにとっての友月のように、隣で助けてくれる味方がいる。
だから、ヒデオは言葉を続けた。
「マリアが奴等に襲われたときどれだけ怖かったか。どれだけ友月がいてくれて心強かったか。おれだって本当はベッドの隣に座って、彼女の目が覚めたときにお前が手を握っていてくれたらどれだけいいかと思ってる。でもな、お前が大切な人を守れる力を持っているなら、そいつは使わないと絶対に後悔する。取り返しのつかない未来になってからじゃ遅いんだよ」
間断を挟まずヒデオはまくしたてる。
「戦え。おれたちに残された道はそれしかない。そばにいるだけじゃ、無力なんだよ。おれはそれを知っている。もう二度と繰り返さないためにこの世界に来た。お前も、一生悔やむことのない決断をしろ。失恋は百回でも二百回でもできるが、失くしたものは二度と返ってこないんだぞ」
「それがヒデオの意志なのか?」
友月が淡々と聞き返した。
弓兵たちの放つ矢の、空を切り裂く音が耳につく。何割かのドラゴンは矢を受けて地上に落下していた。騎乗していた悪魔もろとも絶命している。だが、それ以上に多くの兵士がすでに犠牲になっていた。ヒデオたちが会話している間にもドラゴンライダーの一群は塊となって兵士を空から急襲し、確実に人間の命を奪っていく。
洗練された戦術だ。
どこかで訓練をしっかり積んできたのだろう。一日や二日で練られた作戦ではなく、ユランの奇襲は何年も前から計画されていたものに違いなかった。
「戦え、友月。マリアのために。お前自身のために」
「私からも、頼む」
リエーヌが長い銀髪を垂らして低頭する。
「私たちの世界の戦争に、日本の方々を巻き込んで大変申し訳なく思っている。だが友月殿がマリアを守りたいと考えるなら剣をとるべきだ。あなたには世界を救う力がある。守りたい人を守れる力がある。私に足りなかったものが、あなたにはある。それがどれだけ大切なことか」
「――なあ、君の名前、なんていうの」
友月が唐突に質問した。口の端が笑っている。ヒデオの知っている、日本にいた頃の友月の明るい笑顔だった。
「リエーヌだ」
「そっか、いい名前だね。ヒデオが好きになるのも分かる。もしマリアと先に出会っていなかったら君と恋してたかもしれない」
「おいてめえ、なにいきなり口説いてんだよ」
ヒデオが冗談っぽく威嚇する。友月は相棒のドラゴンをひと撫ですると、返事をせずに屋上から去っていった。
友月がいなくなってしまうと戦場の空気がふたたび二人を包み込んだ。ドラゴンの荒い息遣い、隊長の怒鳴る声、空中へ連れ去られる兵士。それらがすべて五感に流れ込んでくる。
「ずいぶん賑やかな友人を持ったのだな」
リエーヌが端正な顔に微笑を浮かべていった。
「賑やかすぎるのと、女好きすぎるのが欠点だけどな」
「ときにはそのような人物が恋しくなることもある」
「まさか惚れたんじゃ」
「嫉妬してるのか」
「馬鹿いえ」
屋上を流れる強い風がリエーヌの透き通る銀髪をはためかせた。
ドラゴンの部隊が作り出す気流の影響もあるのかもしれない。不自然に吹きすさぶ強風は弓兵の計算を狂わせ、矢の軌道を逸らしていた。
「友月殿のドラゴンに水をかけてやってくれ。長旅でずいぶんくたびれているだろう」
空中から注ぐ攻撃は、ドラゴンを警戒してヒデオたちの方へは向けられていない。ヒデオは消火用に置かれていた木の樽を抱えて運ぶと、ドラゴンの長い首筋に水をぶちまけた。
体長は馬の四倍はあるだろうか。筋肉質ながらコンパクトに引き締まった胴体から蛇のような首が伸びている。硬質の鱗に覆われた頭には一対の短い角が生えており、ドラゴン同士であっても簡単に噛み千切れそうな鋭利な牙が口元から覗いていた。
ヒデオが思い描いていた西洋的なドラゴンよりも、東洋的な龍に似ている。
おそらく空を飛ぶためにはスリムにならざるを得なかったのだろう。それでも生物界の頂点に鎮座するドラゴンの迫力は圧巻で、体色と同じ深い青の瞳に睨みつけられるとヒデオの背筋に本能的な悪寒が走った。
友月の相棒でなかったら思わず逃げ出したくなる獰猛さだ。
こんな生物が何匹も住み着いている山を超えるのは不可能だと過信する気持ちもわかる。ドラゴンと真正面から戦うくらいなら、遠回りしてでも安全な道を選ぶはずだ。
悪魔がどのようにしてドラゴンを手懐け、戦闘用に調教したのかという疑問はますます深まるばかりだった。
「まさか友月がドラゴンライダーになってるとはな――奇妙な縁もあるもんだ」
「ひとつはっきりしたことがある。ヒデオ殿を含め、日本から来訪した客人たちはみな一様になにかしらの能力を備えている。おそらくもう一人の友人殿もなんらかの形で強化されているだろうな」
「暁がいままでより強くなってたらどこかで噂になっているような気がするんだけどな」
もとより竹刀を握らせたら日本で有数の腕前なのだから、こちら側の世界でも存分に剣技を披露できるはずだ。実戦と練習との違いこそあるが、戦争が始まった現在では腕の立つ人間は重宝される。
「どこかの軍に混じっているのかもしれぬな。早めに見つけて保護できればいいのだが」
「あいつは簡単に死ぬタマじゃない。悪魔とだって互角に渡り合える実力がある」
ヒデオが水をかけたドラゴンの体表に触れようとすると、鋭牙をむき出しにして噛み付く素振りをみせた。慌てて腕を引く。ドラゴンというのは簡単に心を許さない種族であるらしい。
「やはり奇妙だな」
「こんな気性の荒いドラゴンをどうやって従えているのか……薬か魔術でも使ってんのか」
「戦線が膠着していた数十年間にドラゴンを服従させる技術を開発していたとしても不思議ではない。だが、悪魔は武器や技術の発展というものにあまり執着しないものだと理解していた。奴らは己の身体を武器とするからな」
二人して首をひねっているところに、兵士たちのなかから声が聞こえた。
「リエーヌ様!」
「どうした!」
声を張り上げて聞き返す。
「矢が尽きかけております。願わくば地下から矢筒を取ってきて頂きたい」
「わかった、すぐに向かおう」
ちらりと目配せをしてヒデオが車椅子を動かす。だが、その行く手を阻む者がいた。
「どいてくれ友月。おれたちは――」
「その必要はない」友月は身長の倍もある薙刀を頭上に振りかざした。「俺がすべて叩き斬る。ヒデオたちはのんびり見守っててくれ」
普段のヘラヘラとした雰囲気はどこにもなく、真剣な眼をしている。
ヒデオを押しのけてドラゴンの背にまたがる。おとなしく翼を休めていたドラゴンが首をもたげると、空気を破壊するような咆哮が轟き渡った。
「さあ、反撃の時間だ」




