国境
闇のなかで疲れきった馬を交換し、頼りない月明かりの下を疾駆する。
街道沿いに設けられた小さな施設をいくつも経由し、額に汗を浮かべながらユランへの道のりを一路急ぐ。どれだけ心が急いでも馬の速さは変わることなく、ぜいぜいと荒ぶった呼吸音と地面を叩く馬蹄の響きだけが夜闇にこだましていた。
ユランまでは通常、馬車で三日ほど。
小規模とはいえ一軍を率いていくのには丸一日かかってもおかしくない行程だ。いくら疲れた馬を乗り捨て、新しいものに替えて行ったとしても、夜が明けるまでに到着するのは無理かと思われた。
「ユランとサフランの国境付近はどうなっている!」
前かがみに馬を操る兵士の後ろでリエーヌが使者に問う。両脚を負傷しているため、自分では走馬することができないのだ。
ユランから急報をもたらし、その足で取って返した小柄な男は、疲れの色を浮かべながらも大声を上げた。
「悪魔軍の急襲は首都を狙ったものであり、まだ制圧が終わっていないのであれば国境付近にまで軍は来ていないと思われます。ですが、例のドラゴンがいるとなれば、その機動力を侮ることはできません」
「ドラゴンの数は!」
「わかりません! 敵情を把握する余裕もなかったのです!」
立ち止まって情報を交換する時間さえ惜しい。
馬上で会話しながら、ひたすらにユランとの国境がある大河を目指す。
そこに石造りの大きな橋がかかっているはずだった。橋の両端に設けられた関所を抜ければ、悪魔軍によって陥落させられたユランの街まではあとひと息である。
「ヒデオ殿、そちらは大丈夫か!」
「ああ、なんとか。股が痛いがどうにかこらえてる。玉が潰れていなければ大丈夫だ」
「冗談をいう余裕があるなら心配せぬぞ。初心者には付き物の痛みだ、あちらへ到着したときに動けないなどということがないよう気をつけてくれ」
「ご忠告どうも」
慣れない乗馬をなんとかこなしながらヒデオが応答する。
馬具がこすれて、太ももの内側のあたりが炎症を起こしている。ヒデオは中腰に構えながら、悪魔の力によって身体能力が向上していなかったら振り落とされていただろうと考えていた。
不幸中の幸いというものだろうか。
「――そろそろ夜が明ける。暗い内にユランにたどり着いておきたかったが仕方あるまい……」
リエーヌが目を細めながら見据えるその先では、ゆっくりと太陽が地平線から顔を覗かせようとしていた。
夜を通して走り続けているが、まだサフランの領内を抜けることができない。周囲の畑で育てられている小麦のような作物が、朝日を浴びて黄金色の実を揺らしているのが見える。
「まったく、田舎ってのはこれだから……」
「なにか文句があるのか」
「近いうちに電車を作ったほうがいいぜ。眠ってても目的地に連れて行ってくれる便利な乗り物を」
愚痴っても仕方ないのはわかっていたが、日本にいた頃では考えられない強行軍はヒデオの体力と精神力を奪っていった。
日本史で習った、秀吉の中国大返しを思い出す。
あれは明智光秀を討ち取るための急襲だった。今回は、果たして悪魔を撃退することが出来るのだろうかという懐疑心が離れない。
「なあ、リエーヌ」
「みなまで言うな。この人数で悪魔を完全に追い払えるとは思っていない。我等の目的は崩壊を防ぐこと。ユランが突破されればクワガ王は孤立し、ダンク王国も側面を突かれ、援軍に向かうことができなくなる。長期戦になれば不利なのは先手を取られたこちらだ。ここでなんとかして食い止めないと、人類の明日は暗い」
「それに、ユランの王女様の安否も気がかりだしな」
「王族も民も同じ、大切な命だ。仲間を見殺しにするわけにはいかん」
「……友達なんだろ、あのお嬢様」
ユランの女王であるマリア。
ヒデオに聞かれ、リエーヌは困ったように表情を固くした。
「年齢が近いというだけだ。あの箱入りはどうせ槍を持ったこともないだろう。そんな貧弱な娘を見捨てられるほど私は気丈にできていない」
「優しいのはいいことだぜ」
ヒデオが軽く笑った。どうにかして高まる緊張を解そうとしているようだった。
「夜が明けましたら悪魔軍への奇襲は難しいでしょう。どうなさるおつもりですか」
使者が不安そうに質問する。
とにかく現場に駆けつけることが最優先で、ほとんど作戦を協議していなかった。
「国境沿いの関所が無事であるならばそこで小休止をとる。ユラン国内の情報を集めるのが先決だ。闇雲に突っ込んでいってはこちらも全滅しかねんからな」
「そして、その後は」
「悪魔軍を国外に出さないようにけん制するのが第一の目的、次いでやつらに損害を与え退却させること。我等はダンク王国の援軍を待つしかない。それまでの時間稼ぎをどうにかして行うのだ」
「関所には多少の兵がいるでしょうが、それを含めても敵軍の十分の一にも満たないかもしれません」
「的には時の利が、こちらには地の利がある。悪魔相手に寡兵で挑むのはかなり厳しいが、うまく立ち回ればどうにかなる。いや、私がどうにかする」
銀の髪を朝日に揺らし、息巻くリエーヌの表情は固い。
どうにかして悪魔軍を食い止めるという気概が全面に表れていたが、ヒデオにはそれが不安だった。
「怪我をしてるんだから無理するな。いざって時にはおれが戦う」
「ヒデオ殿に戦略のなにがわかるというのだ。これは一人や二人の兵士の能力で打開できる問題ではない。軍としてどう立ち回り、悪魔と対峙するのか、それを考えるのは私の役目だ。これまで戦場で無為に時間を送ったわけではない、少なくとも最悪の事態にはさせない自信が私にはある」
強い意志を込めた視線を返すリエーヌに、ヒデオはそれ以上言葉を継ぐことができなかった。
朝日が昇っていく。
砂利にまみれた街道にのびる影が段々と短くなって、何時間も前に取り替えた馬の動きが鈍くなってきた頃にようやく農地の一角が開けた。
巨人が両手を広げているように幅の広い大河が、地上の騒乱など関係ないといった様子でゆったり流れている。
両端の河岸をつなぐ頑丈な石橋。そこを守備する兵士の姿はどこにも見当たらず、しんと静まり返っている。
人影のない関所はひどく嫌な予感のするものだった。
「……これは、どうなっている」
「罠かもしれないな」
大河へとつながる道の途中で立ち止まり、小高い丘の上からリエーヌがじっと関所に目を凝らす。
「悪魔軍の気配はない。だが、人がいないのも妙だ。まさか援軍に向かったのか?」
「その可能性も否定出来ませんが……やはりなにか妙です。慎重を期すべきでしょう」
使者の進言はもっともだった。
ここで先を急ぎ、悪魔軍の術中に嵌ったとなれば完膚なきまでに叩き潰される。ユラン内部の情報がほとんどない状況で無闇に突撃するのは自殺行為だった。
「私が様子を確かめて参ります。何事もなければすぐにお呼びいたしましょう。もし連絡がなければ囚われたか殺されたか――どちらにせよここで待機なさって下さい」
「それじゃ危険過ぎる」
ヒデオが反論しようとするが、リエーヌは片手を出して彼を制した。
「それが賢明な判断だ。あの関所が落とされているとなれば、川を挟んで対峙するほかあるまい。大軍を抑えるには少しでも道幅が狭いところでないと不都合だ。もし戻ってこないようなら、すぐに橋を占拠し、悪魔軍が出てくるのを防ぐ。ダンクの方面の守備はできぬが、すくなくともクワガ軍が挟撃されるのは避けられるからな」
「それに、こちらの勝手を多少なりとも知っているものが行ったほうがいいでしょう。それでは」
いうがはやいや荷物をまとめて丘を下っていく。
その小さな背中に、リエーヌが声をかけた。
「ご武運を」
「姫様には幸運を」
使者の姿が見えなくなるまで、さほど時間は要しなかった。
石造りの橋を渡った先にある関所の扉を開き、なかへ入っていく。そこになにが待ち受けているのか誰にも分からなかったが、誰もが彼の無事を祈っていた。
「……なにか動きがあればすぐに橋の一端を占拠できるように準備をしておくといい。休めるのはいまの一瞬だけだ」
「そういうリエーヌこそ疲れ切ってるんじゃないのか。目元にクマが浮かんでるぞ。可愛い顔が台無しだ」
「よくもそんな台詞が吐けるものだな。慎みというものがないのか」
呆れながらリエーヌは自分の装備を整えていく。
身軽さを維持するために行軍中はつけていなかった鎧をまとうのである。とはいえ急な出立だったため、簡単な防具しか持って来られなかった。革製の胸当てと鉄の兜、それから長やりと王家に伝わる宝剣。
リエーヌの兄が使っていた剣ではないが、きらびやかな宝石が柄にあしらわれているのは共通している。
王族の象徴である武器を持つのは、兵士の士気を高く維持するためにも必要だった。
「こういう場面でこそ緊張をほぐすために冗談をいうのさ。リエーヌが可愛いってのは嘘じゃないけどな」
「ヒデオ殿こそ戦場は初めてだろう。怖くはないのか」
「死ぬより怖いことなんてざらにある」見よう見まねで胸当てを付けながらヒデオがつぶやく。「こっちに来てから何度か死にかけたけど、結局死ぬってのがどんなことなのかよくわかってないんだ。もちろん痛いのは勘弁だし、命のやり取りをするのも好きじゃない。それでも守りたいものがあるなら、おれは命でもなんでも張ってやる。それだけだよ」
「――それは、私のためなのか?」
リエーヌの青い瞳がヒデオの横顔を見つめる。
ヒデオの恋人だった麗子と瓜二つの王女。なんの奇縁か交わることになった二人の違いは、髪の色と、瞳と、それから生きている世界だけだ。
何かの答えを求めるようにヒデオは手を止めていたが、ふっと肩の力を抜いたように微笑した。
「当たり前だろ。君のためさ」
「――そうか」
「おれはもう二度と過ちを繰り返しはしない。目の前で大切な人に死なれるなんてこと、決して起こさせない」
「私も命の恩人に死なれるのは嫌だ」手間取っているヒデオの後ろにまわり、皮の防具の紐を締めていく。すっかり馴染んでしまった作業は、よどみなくヒデオの身を包んでいった。「凛と約束した。ヒデオ殿を決して死なせはしないと」
「じゃあおれは神でもなんでも誓ってやる。もうリエーヌを傷つけさせはしない」
「お互い、似たもの同士だな」
「嬉しいのか悲しいのかよくわかんないけどな」
「――ほら、これで終いだ」
リエーヌの付けてくれた防具の感触を確かめる。まるでオーダーメイドというわけにはいかなかったが、不自由がないくらいには身体に馴染んでいた。
「ありがとう」
「この程度の装備では気休め程度にしかならぬだろうが、ないよりはいい。それと――」
声をひそめてヒデオに耳打ちする。
「あの力はなるべく使うな。戦場というのはある種の極限状態で、不可解なことが起きれば兵は混乱し、士気も下がる。もし味方に悪魔のような腕をした人間がいるとわかれば、たちまち疑心暗鬼に陥り逃げ出す者もいるかもしれん」
「おれはなるべく前線には出ない。リエーヌの隣で控えてることにするよ」
「それと、もし軍が全滅するようなことがあったときは、馬を駆って南へ下って行け。大きな道沿いに走っていけばいずれダンクの軍に保護してもらえるだろう」
リエーヌの口調は真剣だった。
圧倒的に不利な局面で、ひとつ間違えれば悪魔の軍に蹂躙され、壊滅の危機に追いやられることも十分に考えられる。その際にはダンクを頼って落ち延び、状況を伝えて欲しい。
「これから起こるだろう戦いは、兵力の差もそうだが情報量の差が大きい。敵はルークの長年に渡るスパイ活動で膨大な情報を手に入れているはずだ。対して我々は悪魔のことについてほとんど知識がない。ずっと奴等と相対してきたサフランでさえそうなのだ、他国はなにも知らないといっても過言ではない。だからこそ、この戦いを語り継ぐ人間が必要になる。ヒデオ殿には、それを頼みたい」
「やだね」
なにをわかりきったことを頼むんだというように短い応対だった。
顔を近付けているリエーヌのサファイアのような瞳を覗き込んで、
「悪いがおれはこの世界の人間がどうなろうが知ったこっちゃない。ただリエーヌが悲しむところを見たくないから、人間を救うために一緒に行動している。もし君が悪魔の側につくというなら、おれもそれに従おう。リエーヌが最大限の幸福を得られるようにおれは行動する、それだけだ」
「私の悲願は悪魔を討伐し、この世界に平和と安寧をもたらすことだ。そのためにこの身を犠牲にする覚悟がある」
「死んだらなんにも残んないんだよ」
死体はなにも語ることはない。
どれだけ愛しい相手であっても命を失くせば心を通じ合わせることさえできない。傷ついた肉体だけが取り残されたようにゆっくりと腐敗していき、死という事実を非情に突きつける。
ヒデオは一瞬ためらったように口を開きかけたが、意を決して言葉をつらねる。
「リエーヌの兄さんだってそうだ。いくら善良な人だったとしても、悲しい運命をたどっていたとしても、死んだらそれでお終いだ」
「……兄上は私のなかで生きている。私が意志を引き継いでいる!」
「おれたちは死んだ人間のために、すべきことを自由に選べる。どんなに過酷な道だって歩んでいける。でも、見返りはひとつだってないんだ。ありがとうの言葉も、笑顔さえも、おれたちは手に入らない。そんな辛いこと、おれにはもう我慢できない」
どれだけ頑張っても報われない努力。
麗子が殺されてからヒデオは沈みきった心を癒そうとあらゆることに挑戦し、そして挫折した。しょせんは彼女の存在が消えていることを忘れるための悪あがきにすぎなかったからだと気付いたのは、燃え尽きたようにリビングのソファーでテレビを眺めている時だった。
一度深く刻まれてしまったものを見えなくするには、心をすり減らすしかない。
摩耗した心のあとには、風に吹かれて飛び散るカスだけが積もっていく。
「おれにはリエーヌがいてくれる。それだけでいい。どんな境遇であろうと、たとえ君が女王でなくなって、ふたり慎ましく農家として生きていけるのなら、それでもいい。だからおれはリエーヌの願いには応えられない、悪いけど」
「私と同じようにヒデオ殿に死んでほしくないと思っている者がいるのだと、どこかに記憶しておくといい」
「凛は大丈夫、あのキザな野郎は心配だが、あいつはあいつで強く生きていける」
ヒデオの口調にはどこか自信がみなぎっていた。
夜を通してユランに急行していた兵士たちはみな一様に疲れきった表情を浮かべている。身支度を終え、簡単な携行食を胃袋に送り込むと、木にもたれかかって船をこぐ。
徹夜で走りぬいたのだから仕方がないだろう。
リエーヌは周囲の藪を警戒しながらも、使者の男が向かった関所を見つめていた。
彼が行ってからそこそこの時間が経った。
このまま反応がなければ最悪の事態を想定して橋のふもとに陣取らなければ。いつ号令をかけるべきかと苦慮しかけている頃に、ようやく待望の男の姿が見えた。
関所から出て、数人の兵士らしい男たちと両手を振っている。
リエーヌは安堵したように肩の力を抜くと、部隊を引き連れて丘を下った。




