坂本ヒデオ
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
――フリードリヒ・ニーチェ
「しゃるうい、ごーつー、ざ、肝試し?」
見事なまでに発音の悪い英語が聞こえてきた瞬間、ヒデオは反射的に電話を切っていた。
二秒後、ふたたび着信。
このまま電源を切って無視するという魅力的な考えが頭をよぎるが、それはそれで後々面倒なことになりそうだ。ため息とともに、仕方なく通話ボタンを押す。
「もしもし」
「なんでいきなり切るんだよ! わかったぞ、おまえ肝試しとか苦手だな。幽霊にビビってるところを見られたくないんだろ。なあ、そうだよな、じゃないと泣くぞ」
芝生を駆けまわる子犬みたいに明るい声がまくしたてる。
ヒデオは顔をしかめ、スマートフォンを耳から離した。友月と会話するときは七割聞き流すくらいでちょうどいい。
「ダンスに行くような調子で誘われると断りたくなるのが人情だ。肝試しならひとりで行ってくれ、悪いがおれは忙しい」
あっさり辞退する。
ヒデオの視線の先、つけっぱなしのテレビのなかでは炎天にさらされた球児たちが泥まみれの小さなボールを追いかけている。エアコンの利いた室内は幽霊などいなくとも十分に涼やかだ。
「ツレナイこというなって、面白そうじゃん。車は俺の使っていいからさ。乗り心地抜群だぜ」
「どうせ運転するのはおれなんだろ。車より女に乗りたいね」
「こんど良い娘紹介してやるよ。元カノだけど」
「……やっぱ遠慮しとく」
「なんなら肝試しに友達の女の子連れてくぜ、ヒデオの好きな純情っぽい娘を」
ケラケラと漫画でも読むように笑う。友月がいうのだからアテはあるのだろう。
人脈と知り合いの多さにかけて、彼の右に出る者をヒデオは知らなかった。そのうち大学の生徒数よりも多くの友達を作るのではないだろうか。
だが、美味しい話には裏がある。ヒデオはすぐに友月が誘ってくる理由に思い当たった。
「景気のいいことばかりいいやがって。目的はわかりきってるぞ、このヤリチン野郎」
「その呼び方はやめてくれって。俺は毎回ちゃんと恋して、結局うまくいかなくて別れてるんだよ。その度にどれだけ心が傷ついていることか。もうツギハギだらけで張り裂けそうだ」
「そのまま千切れて感情をなくしちまえ。お前に泣かされる可哀想な女もいなくなるだろう。世界は平和になる」
「やだね。恋愛こそ俺の生きがいだからな、のーらぶ、のーらいふ、だ」
頑なに友月が主張した。
カキンという金属バットの音に、ヒデオは坊主頭の高校生がはなった特大の打球の行方を追った。甲子園特有の浜風に戻されたホームラン性のあたりが力なく外野手のミットに収まるのと同時に、三塁ランナーがスタートを切る。本塁でのクロスプレーはわずかにアウト。
なかなかアツい試合展開だ。友月とくだらない電話をしている場合ではない。
「おれには友月の生き方は理解できそうにない。じゃあな」
「ちょっと待てって。なにそんなに焦ってんだよ。急ぎの用事でもあんのか」
「牙をむき出しにした狼から可愛い妹を守るという重大な使命があってな。飢えた野獣にみずみずしい餌をやるほどおれは馬鹿じゃない。どれだけの純情可憐な乙女を毒牙にかけてきたんだ? 悔いて万札を賽銭箱に放り込んでこい。話はそれからだ」
「俺はただ凛ちゃんと仲良くなりたいだけなんだって。信じてくれよ。下心なんてミクロンもありゃしない」
「ほうら本音が出た。凛とお近づきになるためで、肝試しはただの口実だな」
「おま、騙したな!」
憤慨する友月。
騙すというほどのこともしていないのだが。
ヒデオの通っている大学で不幸にも同じ授業を取ったのが友月との出会いだった。茶髪にピアスという、いかにもチャラついた格好をした彼は最初の講義に堂々と遅刻してくると、眠たげに教授の話を聞いていたヒデオの隣りに座った。
「テンション上げていこうぜ」
それが友月の第一声だった。
意味はよくわからないが、それ以来なんとなく大学生活を一緒に過ごすことになってしまった。あのとき強情に無反応を貫いていれば女だ合コンだと騒々しい年月を送らなくて済んだかもしれないことを思うと、後悔ばかりが募る。
まったく乗り気じゃない合コンなんて、虚しいだけだ。
適当に話を合わせて笑っている作業は授業に出るよりずっと疲れる。それでも友月との縁を切れないのはどうしてだろう。
きっと愛すべきバカだからなのだろう、とヒデオは自分を納得させる。
そんな友月がなぜかモテるのは理不尽だが。
「とにかく妹とお前みたいな危ない男を一緒にさせるわけにはいかない。全力で阻止する。そのつもりでいてくれ」
「ヒデオの自慢の妹なんだろ。すこしくらい会わせてくれたっていいじゃんか」
「ダメだ」
きっぱりと断る。
ここで妥協したら友月を付け上がらせてしまう。金輪際ちょっかいを出さないよう厳しく拒否しなければ。
ヒデオはまくしたてるように語気を強めた。
「万が一にも幽霊なんかが出没する危険な場所に凛を遊びに行かせることもできないし、お前に紹介してやるつもりも一ミリだって持ち合わせちゃいない。他の女の子を探してくれ。お疲れ様、あばよ」
そう告げてスマートフォンを投げ捨てる。うまい具合に放物線を描きながら飛んだ小さなハイテク機械は、無造作に転がっているクッションに軟着陸した。ヒデオはだるそうに欠伸をし、ぬくまったソファーの上で横になった。
大学に行くのでさえ億劫なのに、なにを好きこのんでうだるような暑さのなか肝試しをしなければいけないのか。
しょせんは友月が凛を連れ出すための言い訳なのだ。多少手荒く誘いを断ったところで問題にはならない。それどころか今後の禍根を絶ち切れたことにヒデオは満足していた。
やはり友月に妹の存在を教えるべきではなかった。
かれこれ一年以上の付き合いだが、まさか友達の家族まで射程圏内だとは。彼の女好きの深刻さを甘く見ていた。
この夏休みまで警戒して話題に出さなかったのは大正解だったということだ。妹という単語を匂わせた瞬間ピラニアのように食いついてきた。
玄関のチャイムが鳴る。
そろそろ凛が部活から帰ってくる時間だったことを思い出す。のんびりとした足取りで玄関に向かう。ドアを開くと、むっとするような熱気がヒデオの身体を包んだ。
「ただいま、うわっ、さむ!」
やけに張り切る太陽にさらされていた凛の額をうっすらと汗が伝っている。彼女は両腕を抱え込みながら玄関にローファーを放り出した。
「いったい何度?」
クーラーの設定温度のことだろう。
十八度とヒデオは即答した。凛のために涼しい環境を整えておいたのだ。
部活で火照った筋肉をクールダウンさせるのに冷房ほど効果的なものはない。
「兄はもうちょっと地球に優しくなったほうがいいと思うよ。このままじゃアスファルトが全部溶ける」
呆れたように細く整えられた眉をひそめる。くっきりとした二重のまぶたはヒデオとよく似ていた。
「それも一興だな。寒いなら冷房切るぞ」
「せめて二十五度くらいにしておいて。ちょっとシャワー浴びてくるね」
そういって自分の部屋に荷物を投げ捨て、着替えをつかんでバスルームに直行する。これが天下の女子高生だというのだから驚きだ。もう少し乙女らしくいてほしいというヒデオの希望は実現しそうになかった。
凛とふたりきりになったところで、ヒデオは再度ソファーに寝転がった。母親はパートの仕事に出ているため留守だ。子供の世話を見る必要がなってから、第二の人生を楽しんでいるらしい。呑気なものだとヒデオは常々思っていた。
かくいうヒデオはバイトもしていないため、時間を浪費するくらいしかするべきことがない。こうして野球放送を見ながらうたた寝をするのが最近のヒデオの日課となっていた。
時間というものは、いつだって人間の意志とは反対に作用する。
欲しいときには足りないし、早く過ぎ去ってほしいときには余っている。意地が悪いことこの上ない。
何度目かわからないため息は憂鬱な日々を象徴するように形なく消えていった。
リードした展開でエースピッチャーを交代させた継投策は見事に失敗し、試合は一方的な流れになっていた。もう見る価値はないだろう。どれだけ練習しても、こうなっては無力だ。
それは痛いほど知っている。
――気づけば寝入っていたらしい。電話の着信音で目が覚めた。携帯電話ではなく、家の固定電話にかけられている。ヒデオが眠たげに頭をもたげると、いつの間にかシャワーから上がりジャージ姿になった凛が受話器をとった。
「坂本です。はい、そうですけど……はい。兄がいつもお世話になってます」
嫌な予感がした。ヒデオが素早く立ち上がって子機を没収しようとすると、凛はあかんべえと舌を見せて自室に逃げこむ。鍵がかかっているので外からは開けられない。ドアノブをガチャガチャと揺らしてから、ヒデオは諦めてソファに戻った。
おおかた、友月の仕業だろう。
携帯電話ではらちが明かないと踏んで、家の電話にかけてきたのだ。ヒデオが応対する可能性はもちろんあったが、失敗したところでデメリットもとくにない。こうして現実に凛が電話を受けてしまった以上、賭けに勝ったのは友月だった。
部屋のなかでしばらく話し込んでから、凛は満面の笑みでヒデオのところにやって来た。
「友月からだろう。肝試しなんて反対だからな」
「兄も気晴らしに出かけたほうがいいって。一日中こんなグダグダしてくらいなら、ドライブにでも行ったほうが絶対にスッキリするよ。友月さんもせっかく誘ってくれたんだしさ、ね? まだ今年の夏はどこにも足を運んでないでしょ」
「コンビニで買い物した」
「家から一分もしない圏内の外出は認めないから。兄にはリフレッシュが必要なんだよ」
凛が拳を握って力説する。ヒデオは鬱陶しそうに寝返りを打って顔を背けた。
「そんなに遠くない場所だから車で三十分もあれば着くらしいよ。最近は運転もしてないでしょ。このままじゃペーパードライバーになっちゃうよ」
「それでいい。免許も返上する」
「……兄が外出したくない気持ちもわかるけどさ、家にこもっていつまでもテレビ見てる兄なんてあたしは嫌い」
「たとえ凛に愛想を尽かされようが、おれの凛に対する気持ちは変わらないからな」
「……もういい。友月さんの電話番号教えてもらったからひとりで行く。兄はソファーに生えたカビみたいに張り付いてればいいよ」
「待て。それはダメだ」
獲物を追いかけるチーターのような俊敏さでヒデオが起き上がり、凛の華奢な肩をつかんで揺さぶった。
「いっておくが友月は女たらしだ。本人は否定しているが完全に遊び人だ。これまで何人の健気な少女たちがあの上っ面に騙されて貞操を散らしてきたか数えきれないくらいだぞ。そんな男とお前をふたりきりにするなんて、アル中に大吟醸をプレゼントするようなものだ。そんな愚行はおれが許さない」
「じゃ、兄がついてきてよ」
「凛が肝試しなんてくだらないことを諦めれば解決する」
「あたしは行くからね。兄が守ってくれないなら、友月さんと外泊してやる」
完全な脅迫だった。
ヒデオと凛は長いこと恐ろしい形相で睨み合っていたが、折れたのはヒデオのほうだった。両手を上げてホールドアップの仕草をする。
「わかったよ、おれも同行する。ただし暁も呼ぶからな」
「暁さんも来るの? やった!」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「だって暁さんには霊感があるって噂じゃん。もしかしたら幽霊の一匹や二匹くらいは拝めるかも」
「そりゃ万々歳だ」
ヒデオは苦々しげに携帯電話を操作し、東郷暁にメールを送った。
久しぶりの遊行だ。気分は乗らないが仕方ない。すっかり錆びついた身体を動かしてやることも時々は必要だろう。
窓の外では八月の日差しが嘲笑うように照っている。ヒデオは訪れるであろう夜の闇を思い浮かべながらカーテンを閉めた。
肝試しなら、幽霊に出会えればいいのに。
そんなことを考えながら。




