出立
戴冠式というのは想像していたよりもずっと簡素な儀式だった。大広間に何百人という臣民が集められることもなく、ごく一部の重役たちの前でリエーヌの頭に王冠が載せられ、古典めかした誓いの言葉を述べるという一連の流れを終えると、正式にサフラン国の王女として認められた彼女は大きく息を吐いた。
ルークの件があってから二週間が経った。本来ならばすぐにでも対応を取らなくてはならなかったのだが、リエーヌの体調が最低限に回復するのを待ってから王位に就くべきという意見に従ったのである。
悪魔のスパイが紛れ込んでいたという事実は、サフランの重役たちの間に大きな困惑と紛糾を招いた。
それを人気のあるリエーヌの着任という一大イベントで誤魔化そうという算段らしい。ヒデオはきらびやかなドレス――とはいえ、傷痕が目立たないように長袖だったが――をまとった姿に見惚れながら、無意識に左腕を撫でていた。
ルークとの戦闘中に悪魔の力を覚醒した左腕。その影響力がどこまで及んでいるのか、不安になる。
驚異的な回復力も、悪魔の力による副産物なのだろうか。一日に何度も自分の腕を見つめてしまう。いったいどこまでが自分自身なのかわからなくなりそうで怖かった。
「ヒデオ殿」
松葉杖をついたリエーヌがおぼつかない足取りで近づいてくる。ヒデオは軽く手を振った。
「もういいのか」
「以前はもっと長ったらしく執り行うものだったが、こう回数が多くては自然と短くなるというものだ」
「――リエーヌ」
彼女の兄姉たちはみなルークの手によって葬られた。それだけでない。サフランを支えるべき幾人もの命が犠牲になった。その悲しみをすべて引き受けるのはリエーヌにほかならないのだ。
「私はもう平気だ。一生分の涙を流し尽くしたのかもしれないからな。この手で敵を討てて、ほんのわずかでも供養になったように思う」
「痛ましい、事件だったな」
「ヒデオ殿がいてくれなかったら、私はルークの思惑通り誘拐され魔王の慰み者になっていただろう。あなたには感謝してもしきれない。ありがとう」
「お礼をいうのは、おれもだよ。君のおかげで生きる希望ができた」
「――馬車のなかで、ヒデオ殿は私が知り合いによく似てるといっていたな」
「ああ」
「その人は、ヒデオ殿にとってどんな人だったのだ」
その質問はほんの好奇心から出たものだったのだろう。ヒデオはリエーヌの端正な顔立ちに誰かの面影を重ねるようにじっと見つめた。
「おれの大切な人だった」
「……そう、か」
「気に病むことはない。昔の話だ」
「では、いつか、その人のことを教えてくれ」
「どうして?」
「私はヒデオ殿に二度も命を救ってもらった。そんな命の恩人の大切な人に似ているなんて、運命を感じないほうがおかしいというものだ」
「そういうもんか」
「そういうものだ」
「じゃあ、そういうことにしておこう」
くすくすとリエーヌは笑った。もしかすると、誰かとのつながりを求めているのかもしれない。リエーヌはひとりぼっちだ。ルークによって奪い去られてしまった、なにもかも。
「さて、これからまた忙しくなる。悪いがヒデオ殿にも同行してもらうことになるが、いいな?」
「行くって、どこへ」
「ルークの宣戦布告はサフラン国だけに向けられたものではない。それにいまの我が国には独力で悪魔たちと渡り合っていくだけの余裕はないのだ。ルークのやつにことごとく破壊されたからな」
「すると、他の国に向かうのか」
「各国の首脳を集めた緊急会議だ」とリエーヌは憂鬱げにいった。「私はどうも彼らが好きじゃない」
「嫌味なやつらなんだろうな」
「なんというか変な奴ばかりだ。あのなかでまともなのは私くらいだろう」
「いわゆる大国のお偉い様たちってわけか」
「なにか気にかかるのか?」
「リエーヌには伝えるのをすっかり忘れていたんだが」とヒデオは前置きして「おれの他にも日本からこちらへ飛ばされた友達がいるはずなんだ。サフランにいないのなら、そっちの国々で保護されてる可能性はないか」
「ありえなくはない。しかしあちらの国は広いからな、すぐには報告が上がっていないかもしれぬ。私からも聞いてみよう」
「ありがとう。助かるよ」
「その友人たちとはなにをしていたのだ」
リエーヌが小首を傾げる。
「肝試しだよ。お化けの出そうなところに出かけてたらおれたちがお化けになりかけた」
苦笑しながら答える。あながち心霊スポットという噂も間違っていなかったのだろう。だから幾重にも封印が施され、迂闊に一般人が触れないよう細工してあった。
粋なはからいを完全に無視して祠をこじ開けた友月は重罪ものだ。もし生きて再会するようなことがあったら一発殴ってやろう。
「そのなかにはおれの妹も交じってたけど、いまはどうなっていることやら」
「心配ではないのか」
眉間に皺を寄せるリエーヌ。実の妹の身を案じないわけがないという不審そうな表情だった。
「もちろん心配だけど」
「あまりそうは見えないがな」
「気のせいだろう」
ひょうひょうと受け流す。
「さて、私たちも準備をはじめるとしよう。出発は明日だぞ」
「随分とまた急だな」
「どうせ持っていくものもあるまい」
「その日の下着さえあればそれでいい。あとは美女のセクシーな写真とか」
「阿呆」
王宮に集まっていた重臣たちが列をなして仕事に戻っていく。昼食を終えたサラリーマンたちのような光景。サフラン国にはやるべきことが山ほど残されている。その責務の一端を担うはずだった男はもういないのだ。
「ライドは死んだ。私はみんなのぶんも頑張らなくてはいけないな」
「行こう。おれがそばにいる」
ヒデオはリエーヌの方に廻しかけた手を静かに止めた。いまはまだその時期じゃない。
流れていく足音に耳を澄ましながら、ヒデオは大きく息をすった。すべては、これからだ。




